鼬
【注意】動物虐待の描写があります。
子供の頃、鼬を助けようとしたことがある。
何をしようと思ったのかは覚えていない。みんなで遊んでいる輪を離れて、子供の私は一人で鬱蒼とした茂みの中へ入って行った。
ひっそりとした空間があった。誰も知らない小さな秘密の国のような、草木に囲まれた空間に私は出ると、水の匂いを嗅ぎとった。ここまで来たら誰も見ていない。私は普段着なのを忘れて、お姫様の正体を現した。ウフッと笑う姫の顔を確認しようと鏡を探した。
低く垂れた木の枝に隠れるように、静かに音を立てて用水路が流れていた。暗い水に顔が映るわけもないが、子供はそこに姫の姿が映るものと期待したのだろう。黒い水を覗き込んだ。するとそこに鼬がぐったりと、タールに塗れたような黒さで、横たわっていた。
始めは真っ黒でギラついた太い木の棒だと思った。それが水を揺らしてビクンと動いた。私が近づくと逃げようとするように、しかし脚が動いていなかった。
私は恐る恐るとそれを水の中から持ち上げた。するとそれは観念したように動きを固まらせた。私はそれが何かわからなかった。真っ黒な泥に覆われていたため目がないもののように見えた。大きな口がだらんと開いていて、苦しそうに呼吸していた。細長い身体は蒲の穂のように固く、中には何か柔らかいものが詰まっていた。
ウツボだろうかと考えた。しかしあれは海にいるものだった筈だ。もしかしたら、これが噂に聞く、ツチノコなのか! と思ったのは一瞬で、すぐにそれが哺乳類だと気がついた。泥が詰まっていてわからなかったが人間みたいな耳がついていたので。急いで指でほじくったが綺麗にはならなかった。
艶のある深い緑色の草の上に寝かせてみた。それが鼬だということは後になって知った。動いているのは口と腹だけで、それはとても苦しそうに見えた。『殺してくれ』と言っているように見えた。とても可哀想に見えた。
漫画やテレビで見たことがあった。もう助からない瀕死の人には、もうそれ以上苦しまなくていいように、とどめを刺してあげるのが情けというものなのだと、私は学んで知っていた。
ちょうどポケットに安全ピンが入っていた。私はそれを思い出し、くにゃりと細い部分を親指で押すと、尖った針を取り出した。子ネズミのように小さい鼬の頭部が目についた。耳からこれを差し込めば、脳に届くと確信した。
「楽にしてあげるからね」
「もうそれ以上苦しまないで」
そう言いながら、耳からそっとそれを突き入れた。鼬は目を固く閉じたまま、歯を食い縛って痛そうに身を動かした。
「大丈夫だよ」
「天国に行けるからね」
人思いに殺してあげようと思ったのに、鼬はなかなか死ななかった。ハァ、ハァ、と荒い息になりながら、目を開いて私の顔を見ようとしているように思えた。
「なんで?」
「なんで死なないの?」
私は泣いていた。耳から刺すのをやめて、今度は心臓を刺した。位置がわからないので何度も何度も、細い針が硬い皮膚を貫通する時の抵抗を覚えながら、それがやめられなかった。死んでくれるまで、その死を見届けてあげられるまで、しかし鼬は死ななかった。
そんなに刺したのに、血は少しも流れなかった。まだ息をしている鼬を残して、遂に私は逃げ出した。
あの後、あの鼬がどうなったか、私は知らない。私はすべてを放り出し、あの用水路の密かに流れる茂みの中へは二度と行かなかった。すぐに死んだのだろうか。それとも私が刺した痛みを恨みながら、消え行く意識の中でずっと私を恨みながら、しばらくの間、ああやっていたのだろうか。
今、私はフェレットと一緒に暮らしている。フェレットとは鼬科の、愛玩動物だ。
寂しい1人暮らしも、この子が待っていてくれると思うと明るく温かくなる。私の息子のようなものだ。玄関のドアを開けると、大抵はぐっすり寝ているが、迎えに出て来てくれることもたまにある。私が仕事に出て行く時は、起きていればいつも追いかけて来て、小さな顔にきょとんとした表情を浮かべて、見送ってくれる。
放っておくとすぐに耳ダニがつくので、週に一度は耳掃除をする。首の後ろを掴んで保定すると大人しくなる。膝の上に寝かせ、専用の耳掃除液を垂らすとビクンと細長い身体をねじらせて嫌がる。短い手で「やめて」と訴えるが、構わず指で揉み込んで、液を染み渡らせてから、私は綿棒をそこに差し入れる。
綿棒で耳の起伏を愛撫するように、耳垢を除去していると、怖いのか、たまにビクッと激しく顔を動かす。その時に綿棒を耳の奥まで突き刺しそうになるが、慣れたもので、私はすぐに綿棒を引く。これを突き刺してしまっても、なかなか死なないことは知っている。それをしたくはない。
耳掃除が終わったらおやつをあげる。これが目当てで大人しく耳掃除をさせてくれる子なので。よく頑張ったね、と小さな顔を撫でながら、ペースト状の甘いおやつをつけた人差し指を差し出すと、鼬は可愛い舌で、それをぺろぺろと舐め始める。
何も疑わず、何も知らずに、無邪気な顔でぺろぺろと舐める。私が子供の時、鼬にひどいことをした犯人だということを、この子は知らないのだ。
知ったら、どんな顔をされるのだろう。あの鼬の呪詛が今でも私の身体のどこかに染みついていて、それを嗅ぎ取って知られる前に、私は私の愛鼬に、そっと告白をした。
「私、子供の頃、あなたの仲間にひどいことをしたんだよ」
おやつを舐め終わった鼬はにこっと笑い、私の胸の中に小さな顔を埋めて来た。