ヘンゲ
「何だこれ……」
浩市は唖然となっていた。
厨房の床で、誠司が仰向けになり眠っていた。床には、得体の知れない汚れが点々と付着している。掃除したような形跡はあるが、それでも綺麗にはなっていない。
そして、冷凍庫に入っていたはずの死体は消えていた。
その一時間ほど前。
誰かが、自分の体を揺すっている。いったい何事が起きたのだろう。浩市が目を開けると、耳元で囁く声がする。
「ちょっと、誠司くんがいないみたいなんだけど」
理恵子の声だ。時計を見れば、まだ七時前である。普段なら、誠司は寝ている時間帯のはずだ。
「んだと……」
言いながら、浩市は起き上がった。眠い目をこすりながら、どうにか誠司の部屋まで歩く。
「誠司、入るぞ」
そう言うと、浩市はドアを開け部屋に入っていった。
畳の上には、布団が敷かれていた。扇風機はつけっぱなしになっており、誰もいない部屋に風を送っている。
室内には、それ以外何もなかった。当然、誠司の姿もない。
「クソ、あのバカどこに行きやがったんだ……」
浩市は、思わず頭を抱えた。まさか、全てをおっぽり出して逃げたのだろうか。奴なら、有り得る話だ。
いや、もしかしたら……浩市は、すぐに階段を降りる。ドアを開け、外に飛び出していった。
店の勝手口には、鍵がかかっていなかった。昨日、確かに戸締まりをチェックしたはずだ。となると、誰かが開けたのか。
厨房に入っていく。そこで真っ先に目に入ったのは、床で寝ている誠司だった──
「おい、起きろ」
言いながら、誠司の体を揺すった。傍らには、理恵子も心配そうな顔で立っている。
ややあって、誠司の目が開いた。寝ぼけた様子で、浩市の顔を見ている。
そんな弟に、そっと尋ねる。
「死体はどうしたんだ?」
「ああ、ちゃんと始末した」
誠司は、眠そうな声で答えた。
「そうか。始末したのか」
言いながら、浩市は厨房の中を見回してみた。確かに、床にはそれらしき汚れがある。掃除した形跡もある。
しかし、たった一晩でふたつの死体を細かく切り刻み、湖に捨てたというのか。
あの誠司が、そんな大変な仕事を誰の助けも借りず、ひとりで最後までやり遂げたというのか。信じられない話である。
そんな思いを抱きつつも、浩市の口から出たのはこんなセリフだった。
「よし、よくやったな。ひとりで大変だったろう。偉いぞ。あとは、家に帰ってゆっくり休め」
「あっ、ああ。俺は、やる時はやる男だからさ」
得意気な様子でそんなことを言ったかと思うと、誠司は立ち上がった。ふらつく足取りで、家へ向かい歩いていく。
その後ろ姿を、浩市は苦々しい表情で見ていた。その時、理恵子がそっと囁く。
「わかってると思うけど、誠司くんはそのまま死体を湖に捨てたんだよ」
「だろうな」
浩市も頷いた。包丁類に、いじった形跡がない。つまり誠司は、包丁を使っていないということだ。となれば、誠司は死体をそのままの形で投げ捨てたとしか思えない。
しかし、そのことを指摘はしなかった。なぜかといえば、浩市自身も面倒くさくなっていたのだ。
「どうなるかな。死体は、浮き上がって来るのかな?」
浩市は、小声で聞いてみた。すると、理恵子も渋い表情になる。
「わからない。あたしも、こんなことは初めてだからね……でも、こうなったら何も出来ない。とにかく、浮かんで来ないことを祈るしかないよ」
彼女の言う通りだった。死体は、湖の底に沈んでしまった。今さら、湖に潜り死体を回収するわけにもいかない。
やはり、弟だけに任せたのは失敗だった。俺が最後までやるべきだった……などと思っていた時だった。突然、理恵子に背中を叩かれる。
「くよくよ考えてても仕方ないじゃない。今はまず、店を開けることが先決だよ。仕方ないから、ここで朝ごはん食べちゃおう」
どうやら、浩市の思っていることを見抜かれたらしい。それにしても、こんな時に朝ごはんとは……苦笑しつつ口を開く。
「朝ごはん、食わなきゃならないのか?」
「そうだよ。こんな時だからこそ、食べられる時にしっかり食べとかなきゃ。そのうち、食べたくても食べられなくなるかもしれないんだよ」
またしても、彼女の言う通りだった。今日も店を開けなくてはならない。そのためには、体に燃料を補給する必要がある。浩市は立ち上がり、調理の支度を始めた。
・・・
その数時間前。
湖の中に、ドボーンという音とともに何か落ちて来た。水を揺らしながら、ゆっくりと沈んでいく。
湖底で眠っていたそれは、ピクッと反応した。湖にいても、上の世界が闇に包まれていることはわかる。ほとんどの生き物が寝ている頃だ。
何が起きたのだろうか。ひょっとしたら、侵入者かもしれない。音のした方に、そっと移動してみる。
水中を、何かが降りて来るのが見えた。二本足だ。これまで見たことのない種類のものだった。しかも、死んでいるらしい。
それは、どうしたものかと思った。腹はさほど減っていない。しかし、こいつ一匹くらいなら食べられないこともない。
放っておいたら、他の生き物に食われてしまうだけだ。ここは、自分がいただくとしよう。手を伸ばして、死体を掴み引き寄せた。腕をちぎり、食べてみる。
肉を口に入れた瞬間、それの中に、不思議な感覚が駆け巡る。これは美味い。
たまらず、二本足の死体に踊りかかった。身につけていた布きれを剥ぎ取り、肉を食らう。強靭な顎で、骨もバリバリ砕いて飲み込んだ。
これまで食っていた魚や亀とは、まるで違う味だ。しかも、量も多い。これと同じくらいの肉を魚から得ようとすれば、かなりの数を仕留めねばならないのだ。
しかし、二本足なら一匹で済む。
それが夢中で二本足をむさぼり食っていた時、またしてもドボーンという音がした。見れば、またしても二本足の死体である。上から、ゆっくりと沈んで来る。
腕を伸ばして、死体を掴み引き寄せる。己の獲物を並べ、じっくりと見下ろす。
これで、ふたつの死体が手に入った。今日はひとつだけでいい。残りは、また明日だ。腹が減った時に食べよう。それは、まず先に沈んできた死体を急いで食べ終えた。
とても美味かった。こんな味だとは思わなかった……そんなことを思いつつ、それは次の獲物に取り掛かる。死体を両手で担ぎ、とある場所へと向かった。
しばらく湖を進むと、岩壁にて行き止まりになる。だが、ぽっかりと穴の空いている箇所があった。
それは、穴の中に死体を入れる。大きな岩で蓋をした後、ゆっくりと泳いでいった。これで、他の生き物に食われずに済むだろう。
あとは眠るだけだ。それは、再び湖底で横になる。
その時、考えが浮かんだ。地上で仲良くなった二本足……奴は、他の生き物と違っていた。自分を恐れることなく、いろんなことを教えてくれた。
「ア、イ、ア、オ、ウ」
奴との交流で覚えた言葉を、もう一度言ってみた。水中では、上手く声が出せない。意味もわからない。それでも、これを言うと奴が喜んでくれているのはわかった。
奴も、食べればこんな美味い味がするのだろうか。
この時、それは本物の怪物へと変わった──
その体には、僅かだが変化が起きていた。人間の肉を食べたことによるものだ。それは、食べたものに応じて少しずつ姿を変えていく。
しかし、姿が変わったことなど微々たるものだ。何より決定的な変化は中身である。それは、人間の味を覚えてしまったのだ。
もし誠司が、兄に言われた通り死体を細かく切り刻んで捨てていれば……怪物は、沈んできた死体の存在にすら気づかなかったかもしれない。その肉片は、他の水棲生物の餌になっていた可能性が高い。
しかし、怪物は沈んできた死体を食べてしまった。人肉の美味さを知り、人間を餌として認識してしまった。また、人間という極めて特殊な生物を食べたことにより、怪物はさらに進化していく。
その恐ろしさに、まだ誰も気づいていなかった。