61.大好物
「あら、まあ……」
ソシーユ王国から届いた手紙を読んでいたオパールが呟くと、新聞を読んでいたクロードが顔を上げた。
ボッツェリ公爵領に戻ってから忙しい日々を送っていた二人だが、最近は朝食後に少しゆっくり過ごせるようになったのだ。
「どうかしたのか?」
「ロアナさんがマクラウド公爵からのプロポーズを断ったそうよ」
「断った?」
「ええ。お互い恋愛感情もないのに上手くいかないと思ったんですって」
クロイゼル子爵令嬢のロアナとは、キーモントを弾劾した舞踏会で出会い、あれから手紙をやり取りしながら友情を育んでいた相手である。
ボッツェリ公爵領に前回滞在していたときは手紙を書くこともできなかったが、両国ともに騒動がひと段落した今、文通を再開していた。
「クロイゼル子爵もロアナ嬢の判断に任せたのはさすがだな」
「そうね。そのことについてはロアナさんも書いているわ。『このまま独身でもかまわないなんて言ってくれる両親には感謝しかありません。他の形で親孝行したいと思います』って」
オパールはロアナからの分厚い手紙に視線を落とし、その一文を読み上げた。
そのまま顔を上げなかったのは、最初の結婚のことを思い出したからだ。
あの強引な縁談は父親なりに娘のことを思ってくれていたからだと今ではわかっている。
それでも時々虚しさに襲われることがあるのだ。
「オパール」
「え? あ、ごめんなさい。つい読み耽っていたわ」
クロードに呼びかけられて、オパールは慌てて顔を上げた。
きっと何を考えていたかはばれているだろうが、それでも手紙を読んでいたふりをする。
そんなオパールから手紙を取り上げてテーブルに置くと、クロードはそのままオパールの手を取り口づけた。
「愛しているよ、オパール。今までも、今も、これからもずっと愛している」
「クロード……」
いつもクロードはオパールのほしい言葉をくれる。
困っていると助けてくれ、慰めてくれ、何も言わずに甘えさせてくれる。
それなのにオパールは上手く言葉を返すことができなくて、クロードの手に手を重ねてじっと見つめることしかできなかった。
「朝からイチャつくのはやめてくれないか? 胸やけがする」
「――朝から連絡もなく押しかけてくるなんて、相変わらず礼儀知らずね」
突然割り込んできたのはジュリアンで、オパールはイラッとしながら振り向いた。
朝食室にずかずかと入ってきたジュリアンは偉そうに勧められもしない椅子に座る。
「お前からのもてなしは期待していないから気にするな」
「気にするわけがないじゃない。歓迎していないんだから」
変わらない兄妹喧嘩に苦笑しながら、クロードはオロオロしている執事に手振りで指示を出した。
新しく雇った執事は優秀だが、ジュリアンの急襲にはどうすればいいのかわからなかったらしい。
ほっとした様子で執事は出ていき、部屋には三人だけが残された。
「それで、何があったの?」
「何かないとダメなのか?」
「当たり前じゃない、招かれざる客なんだから。王都で楽しく過ごしていたんでしょう?」
「お前に報告義務はないだろ? それにわざわざ知らせなくても、すでに情報は摑んでいるんだから」
公爵領の改革を進めなければならなかったオパールたちの代わりに、ジュリアンが王都に残って社交界で後始末をしてくれていたことはもちろん知っていた。
だが素直に感謝の言葉を口にしないオパールに、ジュリアンは馬鹿にしたように答えてテーブルの上のマフィンを摘まんだ。
その瞬間のオパールの表情を見たクロードは堪え切れずに噴き出す。
「ジュリアン! それ、私のマフィンよ!」
「朝食は食べたんだろ? まだ食べるのか?」
「うるさいわね! 私が好きだって知っててわざとでしょう!?」
「だから言ってるだろ。好きなものはさっさと手に入れろって」
昔から好きなものを最後に取っておくオパールのことを知っていて、ジュリアンは意地悪をしてくるのだ。
そんなやり取りにクロードはもう口を挟まなかったが、新しくお茶の用意をして入ってきたナージャの忍び笑いが聞こえた。
「あ、失礼しました」
「いいのよ、ナージャ。全然失礼なんかじゃないもの」
「やあ、ナージャ。久しぶり。あのときは騙して悪かったね」
「お、お久しぶりでございます! 私のほうこそ失礼なことをたくさん言ったりしたりしてしまって……」
「本当に気にしなくていいのよ、ナージャ。黙っていた私も悪いんだから」
「ですが……」
「そんなことより、喉がからからだよ。お茶をお願いできるかな?」
「は、はい!」
従僕のジュリアンではなく子爵のジュリアンとして初めて会うナージャは、今までの無礼な態度に恐縮していた。
そんなナージャに気にするなというほうが無理なのだが、ジュリアンはお茶を催促することでこの話を終わらせた。
「それで、これからどうするつもりなんだ?」
「さあ、まだ決めていないが……一度家に戻るかな。久しぶりにマルシアのマフィンが食べたくなったしな」
「そうか……」
軽い調子で答えるジュリアンに、クロードはほっとしたように頷いた。
ジュリアンはずっと伯爵領館に戻ることなく、命の危険も顧みずに無茶ばかりしてきたのだ。
八年――九年前の疫病蔓延るタイセイ王国で人命救助に奔走し、その後もアレッサンドロの密偵として活動していた。
王国に縁のあるクロードはともかく、なぜジュリアンがそこまでするのか不思議でならなかったが、そのことを尋ねたことは一度もない。
ちらりとオパールを見ると、クロード以上に安堵しているようだった。
「マフィンを食べる前に、たっぷりマルシアのお小言を聞けばいいのよ。それにトレヴァーにもこってり絞られることね」
そう言うと、オパールはジュリアンの返事を待たずに立ち上がろうとした。
すかさずクロードが先に立って手を貸す。
ジュリアンも礼儀として立ち上がったが、ただじっと見ているだけ。
オパールはそんなジュリアンを無視して、クロードに微笑んだ。
「ありがとう、クロード。それじゃあ、私はダンカンと話してくるわ。クロードはパスマへ行くのでしょう?」
「ああ、夜には戻るけどね」
「また出かける前には声をかけてね」
「わかった」
背を向けて部屋を出ていくオパールを、クロードは苦笑しながら見送った。
ジュリアンはさっさと座り直してお茶を飲んでいる。
二人とも素直じゃないなと思いながら、クロードもまた腰を下ろした。