35.視察
視察から戻ったオパールは、帽子をナージャに渡しながら深くため息を吐いた。
体は疲れているわけではないが、頭が少々混乱している。
思っていたよりも視察は順調にいったのだが、逆にダンカンに対する疑問が湧いてきたのだ。
視察に出た当初、農夫たちは仕事の手を止めて道の端に立ち、怯えた顔を隠すように頭を下げてオパールを迎えた。
オパールはこのような出迎えは必要ないことを伝え忘れていた自分に内心で舌打ちしながら、その場ですぐに今後のことも含めて出迎えは必要ないと宣言した。
するとダンカンはオパールに対して不審に思ったようだったが何も言わずに受け入れ指示を出し、それからも素直に従ったのだ。
また初めはオパールからの質問に面倒そうに答えていたのだが、次第に質問が踏み込んだものになると態度を変え、真摯に答えてくれるようになっていた。
領民にオパールが話しかける時もしばらくは警戒していたものの特に邪魔をしたりすることはなく、領主夫人として敬意を表してくれていたのだから驚きである。
しかもオパールに怯えていた領民との間を取り持つような言動も見られた。
要するに、この視察はオパール自身の領地を視察するように何も問題がなかった。――領地の発展具合を除いてだが。
またダンカンの目を盗んで領民に新しい農機具について必要かと質問したのだが、驚くことに播種機や脱穀機などの存在自体を知らなかった。
大鎌についてはかろうじて知っている者もいたが、悪魔の道具などといった馬鹿げた考えは一切なく、どちらかというと憧れを抱いていたのだ。
(それに、信仰心がそれほど篤いようには思えなかったわ……)
あれほどにダンカンは悪魔の道具だと毛嫌いしているのに不自然である。
確かにこの地域は南部からの情報は入りにくいかもしれないが、港から石材が運ばれてきたように情報が入ってきてもいいはずだった。
だがクロードたちが情報を操作していたように、この地域でも情報操作は行われていないとは限らない。
むしろ、行われていたと考えるべきだろう。
(だけど、そのことをクロードが知らないなんておかしいわね……)
ここまで重要なことをクロードが黙っているとは思えない。
またアレッサンドロも代理人からの報告を黙っていたのではなく、知らなかったのではないかと思えてくる。
(代理人が怪しいわね……)
この四年間で代理人は三人いた。
一人目は一年で病死。
二人目は半年ほどで匙を投げ、この二年強はオパールたちの前任者がこの地を改善しようと努力していたようだった。
(ひょっとして私は食事に気をつけないといけないのかしら。それとも背後かしらね?)
クロードから渡された前任者の記録に改めて目を通しながら、オパールは冗談めかして考えた。
もし本当に命の危険があるのなら、クロードは絶対にオパール一人でこの地に来ることを許さなかったはずである。
一人目の代理人はこの地をアレッサンドロが支配下に置いたばかりで苦労したのだろう。
(ダンカンがずっとあの調子だったのなら、大変だったでしょうしね)
ダンカンがこの土地の管理人になって十数年になるらしい。
先代ボッツェリ公爵がまだ子供だったダンカンに特別に目をかけ、教育を施したというのだ。
(教育、ね……)
ひょっとしてダンカンは偏った知識を植え付けられたのかもしれない。
新しい道具を取り入れるにはある程度の投資が必要である。
先代ボッツェリ公爵は領民に楽をさせると考え、そのための投資を惜しんだのではないだろうか。
便利な道具は領民を堕落させてしまう悪魔の道具だとダンカンに教え込んだ可能性も考えられた。
(先代ボッツェリ公爵のことをもっと知る必要があるわね)
この土地は反王弟派の資金供給地となってはいたが、直接的な戦いがあったわけではない。
一番の資金源であった銀鉱山が枯渇し、また先代公爵が移動中の不慮の事故で亡くなったことで、後ろ盾をなくした反王弟派は一気に勢いを欠いたのだ。
夕食の時間になってもまだ考えに没頭していたオパールは、無意識に着替えて食事の席に着いた。
そこで家令のコナリーがわざとらしく咳払いをする。
ようやく意識を現在に向けたオパールは、コナリーの隣に立つ若い男性に気付いた。
「奥様、この者は従僕のジュリアンです。昨日は所用でお迎えの場に立つことができませんでしたので、紹介が遅くなりました」
「ボッツェリ公爵夫人、ジュリアンと申します。ご挨拶が遅くなり、申し訳ございませんでした」
「……別に挨拶くらいで腹を立てたりはしないから、気にしないでちょうだい」
「本当ですか? ああ、よかった。今度の公爵夫人はとても寛大な方なんですね」
「これ、ジュリアン!」
「あ、すみません」
ジュリアンの無邪気な笑顔は人を惹きつけるようで、コナリーでさえ叱りながらも本気ではないようだった。
そのやり取りを冷めた目で見るオパールに、ジュリアンがふっと視線を向けてにっこり笑う。
「では食事にしてくれるかしら?」
「かしこまりました」
ぱっと視線を逸らしたオパールはコナリーに目を向け、食事を始めるように告げたのだが少々高飛車な口調になってしまった。
そんなオパールの視界の隅に、深くお辞儀をして部屋から出ていくジュリアンが映る。
だがジュリアンが頭を下げる前、小ばかにしたような笑みがその顔に浮かんでいるのをオパールは見逃さなかった。
(……嫌な感じ)
苛立ちはしたが、反応しないと決めて食事に集中する。
食事の内容は昨夜とあまり変わり映えはなく、味もまずまずだった。
料理人はボッツェリ公爵の頃から代わっていないらしいので、公爵はそれほど食にはこだわっていなかったのだろう。
もちろんオパールもこだわりはない。
一人黙々と食事をしたオパールは、デザートまできちんと食べると席を立った。
居間に移動してお茶を飲むのも馬鹿らしく、部屋へと戻る。
部屋に入るとオパールの行動を予想していたナージャがすでにお茶の用意をして待っていてくれた。
「奥様、コナリーさんお気に入りの従僕にお会いしたんですよね? かっこよかったですか?」
「さあ? 私はかっこいいとは思わないけど、どうなのかしら。それよりも彼はコナリーのお気に入りなの?」
「はい、そのように聞きました。それでまだ若いのに、コナリーさんの助手のようなことをしているそうです。今回もコナリーさんの遣いで北部地域にある港の……まあ、とにかくそこに行っていたようです」
「港……」
コナリーがいったい港に何の用事があるのだろうと思ったが、それはおいおい調べることにする。
家令としての立場から何か必要なことがあったのかもしれない。
そのことよりも先に、オパールは気になることを口にした。
「ねえ、ナージャ。こんなことを私が言うのはどうかと思うのだけど……。確かに彼は――ジュリアンという従僕はかっこよく見えるかもしれないわ。だけど彼のようなタイプには深入りしてはダメよ」
「わかりました。といっても、みんなの話だとその人――ジュリアンさんには何人もがアタックしては玉砕しているそうですから、私も無理ですよ」
「あら、ナージャに好かれて嫌な男性なんていないわよ。彼はお勧めできないけど」
「ありがとうございます! 私もそう思います!」
余計なことだとは思いつつも忠告したオパールに、ナージャは素直に答えた。
そして悪戯っぽく笑う。
「私は私だけをいっぱい愛してくれる優しい男性が理想なんです。ジュリアンさんはとても明るくて優しいそうですが、とっても人気者だそうなので心配が尽きないと思うんですよね。私は愛と一緒に安心も欲しいんです。贅沢ですか?」
「いいえ、全く。当然だと思うわ」
オパールが穏やかに肯定すれば、ナージャは照れて頬を染めた。
ナージャには絶対に幸せになってほしい。
オパールは励ますように微笑むと、寝支度を整えるために立ち上がった。