27.笑顔
「ベス? ベス!?」
ベッドに倒れてしまったベスを心配して、オパールは慌てて声をかけた。
こういう時は動かさないほうがいいと聞いた気がする。
ただそれからどうすればいいのかわからないでいると、隣の部屋で待っていたナージャが怖い顔をしてやってきた。
「気を失っただけですから、それほど心配はいりませんよ。たぶん急に興奮したせいでしょう。妊娠中はいつもより体の調子も違いますからね」
「妊娠中だからこそ、心配なのよ。お腹の子供は大丈夫なの? 息はしているけど、意識がないなんて……」
動揺するオパールとは違って、ナージャはあくまでも冷静だった。
おでこに手を当て、手首で脈を測り、大きくなったお腹をさする。
「頭に血が上ったんじゃないですかね? お腹もそれほど張っていませんし、すぐに目を覚ましますよ。あ、ほら……」
ナージャがベスの両手を握って強くこすっていると、ベスがぱちぱちと瞬きをした。
そしてゆっくり目を開ける。
「待ってて、お水を持ってきてあげるから」
ナージャはベスの手をぽんぽんと叩くと立ち上がって隣の部屋に行ってしまった。
その間、オパールは何もすることができず、ただ座って見ているだけ。
何か話したほうがいいとは思うのだが、それでまた気を失ったらと思うと怖かった。
オパールには妊娠出産の経験はもちろん、病人を介護したこともないのだ。
母が病床にあった頃は傍に座って本を読んだりおしゃべりをしていただけで、それももう二十年近く前になる。
そのため、ナージャが戻ってきた時にはほっとした。
「水瓶に水がないじゃない。仕方ないから奥様が持ってきてくださった果実水よ」
ナージャはグラスをベスに渡すと、オパールとは反対側に腰を下ろした。
途端にベッドが苦しそうに軋む。
ベスは喉が渇いていたのか、グラスをあっという間に空にすると深く息を吐いた。
「落ち着いた? それじゃあ、ちょっと言わせてもらいますけどね、あなたいい加減にしてよね。奥様に感謝こそすれ、文句を言うなんて恩知らずにも程があるわよ!」
「ナージャ、それはまた今度でも……」
ベスからグラスを受け取ったナージャは、きつい口調でベスを叱りつけた。
オパールはベスの体が心配で止めに入ったが、ナージャは断固とした表情で首を振る。
「いいえ、オパール様は優しすぎます。こういう人はね、ガツンと言ってやらないと自分がどれだけ――」
「違います! 私は奥様には感謝しております!」
「なっ――」
さらに言い募ろうとしたナージャの言葉をベスが遮る。
その勢いに押され、ナージャは声を詰まらせた。
「私……私は、奥様がヒューバート様とご結婚されていた間、ずっと使用人にあるまじき酷い態度でした。ですが私は正しいことをしているのだと、評判の悪い奥様からステラ様をお守りしているのだと信じて疑いませんでした」
「まあ、そうでしょうね」
「執事のロミットさんやみんなで奥様を追い出そうと……それがどんなに愚かなことか今はわかっております。ですがあの当時はそれが正義だと思っておりました。正義が悪に負けるわけがないと。ステラ様がお屋敷を移られることになった時は、奥様に腹を立てましたし、奥様がヒューバート様と離婚された時にはついに正義が勝ったのだと喜びました」
「えー、あなたって信じられないほどおめでたいのね」
「ナージャ」
話すことで気持ちが楽になるならと、オパールは口を挟まず聞いていたが、ナージャは我慢できなかったらしい。
慌ててナージャを窘めたが、ベスは苦々しげに笑って頷いた。
「あなたの言う通りよ。私は本当に愚かなの。救いようのない愚か者だから、キーモント卿の言葉も真に受けてしまったの。『今まで結婚しなかったのは、どんな女性に出会っても心が拒絶したからだ。しかし、君に出会ってわかった。私は君を待っていたんだと。君が運命の人なんだ』と言われて舞い上がってしまった馬鹿なのよ」
再び涙を流しながら語るベスの言葉を聞いて、オパールとナージャは顔を見合わせた。
キーモントのセリフは臭いが、それを一言一句覚えているベスのことを思うと笑うこともできなかったのだ。
「私は信じてはいけない人を信じ、信じるべき人を信じませんでした。ですからこれは当然の報いなのです。ノーサム夫人は私を解雇なさいましたが、当面の生活に困らないだけのお給金はくださいました。ですが、将来のことを考えると不安で……」
「そうね。お腹の子を育てていくことを考えると、簡単には使えないわね。でも安心してちょうだい。さっきも言ったけれど、キーモント卿から養育費はいただいたんだから。ひとまずは体を休めないと。それには安心できる場所がいいでしょう?」
「ですが、私には奥様のご温情を受ける資格がありません! ですからどうか、そのお金は他の二人にお渡しください!」
「ああ、知っていたのね……」
「昨日、買い物に出た時に新聞の見出しが見えて……」
キーモント逮捕のことも知ってしまったのだから、それはショックだろう。
他の二人は施設の所長に任せており、また他の入所者たちがいるので気持ちも紛れるだろうが、このような部屋に一人でいれば、気を失ってしまうほどに憔悴してしまうのも仕方ない。
とにかく、ベスをこの場から連れ出さなければと、オパールは立ち上がった。
「さあ、いつまでもめそめそしていても仕方ないわ。ベスはお母さんなんだから、お腹の子のためにも安全な場所に移りましょうよ」
「いいえ、私はここに残ります。私には奥様の――」
「ああ、もう! あなたね――」
頑なに拒むベスに、ナージャが苛立ちをぶつけようとした。
しかし、オパールは片手を上げてナージャを制すると、ベスに向けて優しく微笑んだ。
「あのね、ベス。いい加減に意固地になるのはやめてくれないかしら? あなたが愚かなのは間違いないけど、今もまた愚かな選択をしようとしているわ。私はあなたのためを思っているんじゃないの。お腹の子のことを心配しているのよ。それと言っておくけど、キーモント卿からは養育費をもらったの。そのお腹の子のお金よ。あなたが勝手にいらないとか言えるものではないし、当然ながら管財人からきちんと支払われるように手続きもしているわ。わかったかしら?」
オパールの辛辣な言葉に、ベスはさあっと青ざめた。
言い過ぎたかとオパールは心配したが、驚くことにベスは素直に頷いた。
「おっしゃる通りです。少しだけ、お待ちいただけますか? 荷物をまとめます」
「すぐに使う物だけでいいのよ? 荷造りは誰かにしてもらってもいいんだから」
拍子抜けしながらもオパールが答えると、ベスは泣きそうな顔で笑った。
「そんなに荷物はありませんから。すぐに終わります」
「私、手伝うわ」
ベスが立ち上がると、ナージャも立ち上がって隣の部屋に戻る。
そこでベスは立ち止まり、振り返った。
「奥様には本当に心から感謝しております。愚かな私を見捨てることなく、こうして救いの手を差し伸べてくださって……」
「今のあなたは愚かではないと思うわ」
感謝の言葉にオパールが微笑んで答えると、ベスは恥ずかしそうに小さく微笑んだ。
それはオパールが見た初めてのベスの本物の笑顔だった。