6.舞踏会
「クロード、今はダメよ。我慢して」
「そうだ、お前はもっと我慢したほうがいい。甘やかされすぎだろ」
「クロードは別に甘やかされてなんていないわよ。ちょっと……甘えん坊なだけ」
「――やっぱり、名前を変えてもらうべきだったな」
わざとらしく頭を抱えて嘆くクロードを見て、オパールは笑った。
オパールの気配を感じて部屋から飛び出してきた犬のクロードは、執事のジョーゼフに取り押さえられている。
ジョーゼフのお陰で犬のクロードに飛びかかられることなく、舞踏会に出席するために着飾ったオパールも人間のクロードも事なきを得たところだった。
慌てた様子で犬のクロードの世話係である下男がやってきたが、人間のクロードは簡単に注意しただけでオパールを外へと連れ出す。
見送ってくれるジョーゼフの服には毛があちこちについて乱れており、オパールは謝罪を口にしてから馬車へと乗り込んだ。
一昨日に王城から戻ったオパールは忙しくしていたために、犬のクロードにかまってやっていなかった。
改めて社交界の人間関係についてクロードやジョーゼフに聞いて頭に叩き込んでいたのだ。
男性たちの派閥はわかっても、女性たちにはまた違った派閥がある。
社交界はうわべの華やかさとは逆に、水面下では足の引っ張り合いが多く、一歩間違えればあっという間に転落してしまう。
オパールは向かいに座るクロードから、隣に座るクロードの母――男爵夫人をちらりと見た。
男爵夫人はルーセル伯爵令嬢として華々しい社交生活を送っていたらしいが、男爵と駆け落ち結婚をしたために先代伯爵に勘当されてからは、友人の連絡は途絶えたらしい。
ここ最近になって、かつての友人とまた手紙をやり取りするようになったそうだ。
そして実際に会うのは数十年ぶりというのに、男爵夫人に緊張した様子はなく、向かいに座る男爵と穏やかに見つめ合っている。
(相変わらず仲の良いご夫妻よね。色々とご苦労なさったでしょうに……)
ホロウェイ伯爵領と隣り合わせの男爵領は小さく豊かとは言えないが、領民に負担を強いることなく慎ましく暮らしてきたのだ。
しかもオパールが知っているだけでも、二度の大きな凶作を乗り越えてもいる。
(ずっと私の理想の夫婦像なのよね……)
オパールの亡くなった母が父に愛情を寄せていたことは知っているが、父が家庭を顧みることはなかった。
もちろん父に愛情がなかったとは言えないが、伝わらなければ意味がないだろう。
ヒューバートの言動から少しも愛情など感じられなかったオパールにとって、あの求婚が青天の霹靂だったように。
「あ……」
「どうした、オパール?」
「え? あ、いえ……何でもありません」
いきなり声を上げたオパールに驚いて、クロードだけでなく男爵夫妻からも注目され、オパールは顔を赤くして答えた。
夫妻は納得してまた二人の世界に入っていったが、クロードは訝しげな視線をオパールに向けたまま。
それでもオパールがにっこり笑うと、諦めて窓の外に視線を移した。
そろそろ王城に到着するのだろう。
別に悪いことをしたわけではないのだが、オパールはどきどきしてしまっていた。
ヒューバートから手紙が届いていたことを、すっかり忘れていたのだ。
どうも最近、頭の回転が鈍いような気がする。
(これがのぼせ上がるっていうものなのかしら……)
今までずっと一人で頑張ってきたオパールにとって、頼れる人がいるのはとても心強い。
しかもそれが愛する人なのだから、浮かれないほうが難しいのだろう。
だからといって、このまま甘えているのはオパールの性に合わない。
クロードの力になりたいのだ。
「到着したよ。オパール、父さん、母さん、準備はいい?」
「ええ、大丈夫よ」
「久しぶりで緊張するな……」
「あら、平気よ」
クロードの問いかけにオパールたちが答えた時、馬車が止まり外側から合図の後に扉が開けられた。
最初にクロードがひょいっと降り、オパールに手を貸してくれる。
続いて男爵が降り、夫人が降りるその間、オパールは多くの視線を感じたが、背筋を伸ばして堂々としていた。
「行こうか」
「ええ、ありがとう」
改めてクロードから差し出された腕に手を添え、オパールは笑みを浮かべたまま会場へと足を進めた。
それからはあっという間だった。
会場に入るなり多くの人に囲まれ、紹介され、観察される。
だがオパールも周囲の人たちをさり気なく観察していた。
今夜は自分を出さず、この国の社交界における人間関係を把握することに徹するべきだろう。
もちろん一晩でわかるわけはないが、クロードの正確な立ち位置とオパールの置かれた状況を知るには絶好の機会なのだ。
そのため、オパールは会話のほとんどをクロードに任せ、ただ黙って微笑んでいた。
そして話を聞いているふりをしながら、少し離れた場所で交わされる会話に聞き耳を立てる。
「いったいどれほどの美女が現れるのかと思ったけれど、大したことはないわね」
「だけどほら、ご覧になって。殿方はみんな鼻の下を伸ばしているじゃない?」
「私たちにはわからない、殿方を誑かす秘訣か何かあるのかしらね」
「それならぜひご教授願いたいわ。ルーセル侯爵を落とすほどだもの」
「ソシーユ王国のマクラウド公爵もね」
「あら、公爵には捨てられたのでしょう?」
「でも、慰謝料としてかなりの資産――価値ある土地を受け取ったと聞いたわ。確かマンテストだったかしら?」
「そうそう! お金のなる木どころか、お金になる土地らしいわ。それで今は世界屈指の資産家女性になったとか」
「羨ましい限りだわ。それなら他の欠点は目をつぶってもかまわないのでしょうね」
この内容にはオパールもさすがに驚いていた。
マンテストへの投資が、オパール自身の財産で行われたとは知られていないのだ。
おそらく離婚の際、ヒューバートから公爵領の代金として財産の譲渡があったために、そのような噂が広まったのだろう。
また女性が自ら投資することなど普通では考えられない。
この国でも女性の自立はなかなか受け入れられそうになく、オパールはため息を飲み込んだ。
その時、少しの間続いたくすくす笑いが収まり、一人の女性の楽しげな声が聞こえた。
「それじゃあ、まるでルーセル侯爵がお金目当てみたいだわ」
「あながち間違っていないかもよ? そもそも侯爵はソシーユ王国の男爵家の三男だったんだもの。それがこの国の混乱に乗じて陛下にうまく取り入り、今の地位まで上り詰めたのよ? 次は公爵に陞爵されるとか……」
話題がオパールからクロードに移り、オパールが苛立ったところで、国王の入場が告げられた。
皆が膝を折り、頭を下げてアレッサンドロ国王を迎える。
それからアレッサンドロは新たな鉄道開通とルーセル侯爵の婚約を祝う言葉を述べ、舞踏会の開会が宣言された。
初めにアレッサンドロが若い女性――おそらく姪である王女をフロアに連れ出して踊り始め、途中からオパールとクロードが続く。
オパールはクロードにリードされて踊る久しぶりのダンスに心も躍らせた。
しかもクロードと正式な場で踊るのは初めてのことなのだ。
「ずいぶん楽しそうだね?」
「ええ、とても」
「先ほどは何か怒っていたみたいだけど?」
「気付いていたの?」
「そりゃ、まあね。オパールは怒ると笑顔が深くなるから。それで、何を怒っていたんだ?」
「……女性たちの噂話よ。クロードへの言葉が酷くて」
「ああ、それか。気にしなくていいのに」
「そうかもしれないけれど……」
笑顔が深くなるとはどういう意味だろうと思いながらオパールが答えると、クロードは笑って小さく首を振った。
クロードのように腹の立つことでも笑って流せるようになれるといいのだが、オパールに無理なことはもうわかっている。
不満げに呟くオパールを見て、クロードがまた笑った。
オパールの性格をよくわかっているクロードになら、安心して将来を預けることができるのだ。
だからクロードが王女殿下と二曲目を踊るために傍を離れた時も冷静に見送ることができた。
そして今、男爵夫人とさり気なく離され、ご婦人方に囲まれていてもオパールは微笑んでいられたのだった。