11.伯爵領
「こんにちは、トレヴァー。元気そうね」
「お久しぶりです、お嬢様。このたびはご結婚おめでとうございます。昨日はお迎えもできず申し訳ありませんでした」
書斎に入ったオパールは、仕事をしていた土地管理人のトレヴァーに明るく挨拶をした。
すると、よく日に焼けた顔を上げ、トレヴァーは目尻にしわを寄せて笑ってくれる。
「いいのよ、急に帰ってきた私が悪いんだから。それから結婚に関しては、ありがとう。って言いたいところだけどね……」
「何か問題が?」
「大ありなの」
「おや、まあ」
書斎の応接ソファに勧められもせず座ったオパールの向かいに、トレヴァーも席を移した。
トレヴァーはいつも冷静で的確なアドバイスをくれる。
執事のオルトンも家政婦のマルシアも同様ではあるのだが、少しだけ――いや、かなりオパールびいきになってしまうので、こんなことは話せないのだ。
その時、ノックの音がしてマルシアがお茶の用意をして持ってきてくれた。
「ありがとう、マルシア。私の大好きなオレンジピール入りのマフィンね!」
「そりゃそうですよ。これをお出ししないと、お嬢様は調理場から離れないんですから」
「もう、そこまで子供じゃないわよ」
「公爵様がそう思ってくださったのは幸いでしたね」
そう言って、マルシアは書斎から出ていく。
二人のやり取りを見ていたトレヴァーは、やれやれとため息を吐いた。
「問題があるとマルシアさんに打ち明けると、ここの使用人どころか領民まで引き連れて公爵邸に乗り込んでいくでしょうねえ」
「やだ、怖いこと言わないで。本当にやりそうだわ」
わざとらしく震えてみせたオパールは、笑ってお茶を飲み、マフィンを食べる。
トレヴァーもそれきり黙ってお茶を飲みながら、オパールが話し始めるのを待った。
「あのね、今回の結婚はお父様とマクラウド公爵との間で決められたものなの」
「ほう、政略結婚というものですな」
「ええ。私に反論の余地はなかったわ。まあ、それで慌ただしく式を挙げて、公爵家に嫁いだわけだけど……公爵様――旦那様はもちろん、屋敷の使用人も誰も彼も私のことを侵入者扱いよ。しかも主寝室には別の女性がいたんだから、もう怒るしかないでしょ?」
「それは酷い。ひいき目なしに見て、私でも公爵邸に怒鳴り込みに行きたいくらいですな」
「トレヴァーが?」
淡々とした受け答えなのに、発言がトレヴァーらしくなく、思わずオパールは笑った。
トレヴァーは心外だとばかりに片眉を上げる。
「これでも私はお嬢様のことを心より大切に思っておりますよ」
「……ありがとう、トレヴァー。ただね、その主寝室にいたのは、幼い頃から公爵邸で暮らしていた遠縁の女性なんだけど、もうあまり長く生きられないそうなの」
「――さようでございましたか。とはいえ、やはり公爵様はもう結婚なされたのですから、常識では考えられませんけどねえ」
「うん……。まあ、それはもういいのよ。ただね、最初は知らなくて『愛人なの?』って訊いて、旦那様やみんなを怒らせてしまったの。その女性は公爵邸でとても大切にされているからね。でも教えてくれないほうが悪くない? それで私も意地を張っちゃって、それならもういっそのこと顔も見せないようにって、屋根裏部屋で暮らすことにしたの」
「住み心地はいかがですか?」
「まあまあよ」
本来なら悲惨な話であるのだが、オパールの口調はそれを感じさせない。
もちろんオパールが傷ついていないなどということはなく、トレヴァーに心配をかけまいとしているのだろう。
ただ、オパールが愚痴を言うだけのために、トレヴァーの時間を必要とするはずがない。
そこで、トレヴァーは真剣な面持ちで問いかけた。
「それで、お嬢様にとっての一番の問題は何なのですか?」
「……先ほども言った通り、この結婚は政略――契約なの。私の持参金で旦那様は借金を返済し、お父様からの結婚祝い金で当面の生活費を賄うみたい」
オパールが打ち明けると、トレヴァーは目を見開いた。
あまりに予想外だったらしい。
「公爵様は賭け事をなさるのですか?」
「それはないと思うわ。お父様は何もおっしゃっていなかったから。ただ、旦那様のことを『甘い』とだけ」
「ふむ。それはやはりおかしいですね。私の知るマクラウド公爵の所有する領地があれば、借金どころか大変な財産家であってもおかしくないはずですが……」
「数年前に大干ばつがあったわよね?」
「はい。あれは確かに国中が大打撃を受けました。ですが公爵家なら蓄えもしっかりあったでしょうし、一年で十分に取り戻せたはずです」
「次の年は水害、その次は害虫被害があったみたい」
「公爵領で? 私は仕事柄、伯爵領だけでなく他領の天候などにも常に注意を向けておりますが、水害だの害虫被害だのは他の地域で発生してはおりましたが、公爵領近辺では聞いていないですね」
トレヴァーは次々とオパールの言葉を否定していく。
そこでオパールはやはりと思い、持ってきていた二冊の記録書をテーブルに置いた。
「これは?」
「公爵邸にあった領地管理記録書の控えよ」
「そのように大切なものを持ち出してよろしいのですか?」
「旦那様は『ここはあなたが買ったようなものだから、好きなものを持って行っていい』とおっしゃったもの」
「おや、まあ」
つんと顎を上げて言うオパールを見て、トレヴァーはにやりと笑う。
気の強さは相変わらずだ。
トレヴァーは他家の領地管理にも興味があり、遠慮せずに記録書の古い方を手に取った。
そして簡単に目を通していく。
時々ページを繰る手が止まったりはしていたが、それほど時間をかけずにもう一冊に取りかかった。
本当はじっくり読みたいのだろうが、今はオパールを待たせているため急いでいるようだ。
しかし、その動きも記録書の中ほどから変わった。
眉間を寄せ、何度かページを戻り、また先へ進み、指で文字を追い、時々考え込んでしまう。
その間、オパールは口を挟みたいのを我慢して、お茶を飲みながら待っていた。
やがてトレヴァーは記録書を置いて、大きく息を吐き出した。
「不正が行われていますね」
「やっぱり?」
「お嬢様はこれをご覧になって気付かれたのですか?」
「いいえ、まったく。ただ何となくおかしいと思っただけ。だからトレヴァーに相談したかったの」
「ふむ。正確に把握するには、過去数年の天候記録も確認しなければなりませんね。しばらくお時間をいただけますかな?」
「もちろんよ。ごめんね、トレヴァー。余計な仕事を増やしちゃって」
「何をおっしゃいますか。先ほども申しました通り、私はお嬢様を心より大切に思っております。ですが、このままの管理では公爵家はまた破たんしてしまうでしょう。お嬢様がご苦労なさらないためにも、この不正をしっかり暴いてみせますよ」
「……ありがとう。それじゃあ、よろしくね」
「はい、お任せください」
ここは泣くべきではなく、笑うべきだ。
そう自分に言い聞かせ、オパールは込み上げるものを抑えてにっこり笑い、書斎から出ていった。