33. 皇太子・エイドリアン・ヴァレンティン・ラヴェンステッド9
広間の中心に躍り出ると、エイドリアンのエスコートの邪魔をしないようにという意図だろう、周囲からさっと人の波が引いていった。
さざなみのように、どこの令嬢? 見覚えがないわねと潜めた声が聞こえてくるけれど、大勢の視線も荘厳に響く音楽も、値踏みするような視線もどうでもいい。
エイドリアンのエスコートは完璧で、両手は握られているけど体は絶妙に密着していなかった。背中に手を当てられてくるくると回っている間も、後ろに少し傾いではらりと肩に固定されたストールが揺れるのも全部計算されているみたいで、そのくせ胸が触れ合うこともない。
決して私がエヴァみたいに凹凸が豊かではなく地平線まで続く小麦畑のような体形だからではない。ないったらない。
「なにか考えている?」
「いえ……エイドリアン殿下」
「エディでいいよ」
いいわけあるか。体勢を戻してくるりとターンしながら、つないだ手から思い切り念じる。
「歯車」め! あんたのせいでしっかり者のお姉さんみたいなエヴァにあんな顔をさせてしまった。未練がましく動いていないで、とっとと壊れちゃえ!
そうは思うものの、やはり接触している面積が少なすぎるのだろう。ギィ、ギィと不満げに軋みを上げてまわるものの、いつものように亀裂が入る音は中々聞こえてこない。そうしているうちに曲が終盤に近付いてきてしまった。
まずい。せめて大きめのヒビが入れば自壊してくれる可能性もあるけれど、今の様子だとあまり望みがなさそうだ。そう焦っていると、すい、と手を引かれて軽くステップを踏みながら、耳元で囁かれる。
「ソニア、このままもう一曲、いいだろうか」
「はい、よろこんで!」
渡りに船の申し出に、思わず前世の居酒屋のような声が出てしまったけれど、エイドリアンはぱちぱちと瞬いたあと、蕩けるような笑みを浮かべた。さすが太陽の皇子様、そこかしこからホウッ……とため息が聞こえてくる。
相変わらず距離感が絶妙のダンスの最中、「歯車」に壊れるよう念を送り続けていたけれど、巨大な「歯車」はギシギシと軋んだり時々ギギッ、と止まるような音を立ててはいても、中々破壊につながるような音が出てくれない。
ぴったりと密着すれば、いけそうな感触はある。背中に手を添えられた時はなけなしの接触面から念じてみたけど、少し大きな音がしただけだった。
サイズとしてはエヴァと同じくらいだけれど、エヴァの時は前面からがばっといったし、エヴァもパーティ用のドレスに比べれば薄着だった。おまけにウエストがきゅっとくびれてて腕を回してぎゅっと抱きしめやすかったので、やりやすかったというのはある。
今は絶好の機会とはいえ、周りは貴族だらけだ。あれと同じことをエイドリアンにするのは、大分勇気が必要になってくる。
どうしよう、どうする? そう悩んでいるうちに、また音楽が終わりに近づいてきていた。
出直すべきかとあきらめかけたとき、カチ、カチリ……と「歯車」が不気味な音を立てて回り、エイドリアンはまるで導かれるように、うっとりと微笑んだ。
「ああ、ソニア。どうか三度目のダンスを、私と」
言葉ではそう言っているけれど、エイドリアンがダンスをやめようとしていないのを会場の人々も感じ取ったのだろう、先ほどとは打って変わって人の囁き声が遠のいて、水を打ったように静まり返った会場に音楽だけが鳴り響くという奇妙な空気になった。
三度目のダンスは家同士が認めた婚約者か結婚している相手以外は、重大なマナー違反だ。よしんば愛人を連れて来たとしても二度目までというのが暗黙の了解である。
エヴァという婚約者がいながら二度続けて同じ相手と踊るだけで、かなり親密な相手だと周りに公言しているようなものなのに、まさかそんなことを言い出すなんて。
楽団もどうしていいのか分からなかったのだろう。区切りのいいところで終わるはずの音楽が戸惑ったように揺れて、妙に音が間延びした。
今、この会場のどこかでなりゆきを見守っているはずのエヴァは、どんな思いをしているんだろう。
エイドリアンが好きだと言った。支えたいと、自分で足りないなら身を引くのだと泣いていた。あの強くて頼もしくて、可愛い公爵令嬢は。
――ええい、ままよ!
女は度胸! そして旅の恥はかき捨てだ!
一生に一度度胸を見せなければならない日があるなら、今日でいい!
「あ、ああっ足がぁ!」
自分の左足を右足で蹴っ飛ばして、そのままバランスを崩す。ヘンリーの言葉を信じるならば、紳士はいざというとき動けるように訓練されているのだという。傍にいたエイドリアンは予想通り、思い切り勢いをつけて倒れ込んできた私の体を、両手を広げて受け止めた。
できればそのまま押し倒せればよかったけれど、チビの私を受け止めるくらいではそこまでバランスが崩せなかったらしい。それでも、密着には成功した。そのままガシッ、とエイドリアンの背中に腕を回すと、キャッ! とどこかの令嬢らしい悲鳴が聞こえてくる。
――壊れろ!
皇太子に無作法をした令嬢がエイドリアンに近づけるのは、多分これが、最後の機会だ。これを逃せばトリスタンの言っていたどうしようもない方法を使う以外、エイドリアンの「歯車」を壊すことはできないと思う。
だからありったけの想いと念を「歯車」に向けた。
ソニアの人生を支配して、攻略キャラクターたちの人格を歪めて、行動を誘導して、いろんな人を傷つけた。
私が乗っ取ってしまったから、もう心無い正ヒロインのソニアはいない。
だから「歯車」、あんたもこの世界には必要ない。
正ヒロインのソニアのための作られた未来ごと、消えてしまえ!
バキッ! と大きな木材にヒビが入るような音がした。何度も聞いた、連鎖するようにパキ、ビキッと音が連なり、やがて外れた歯車が床に落ちる音が響く。
そのひとつひとつが、ソニアのために用意されたシナリオで、そのためにキャラクターを動かす動力なのだろう。ガラガラと崩れ落ちる音と共に、軽く肩を押される。
「大丈夫かい、その……ソニア嬢」
「……はい、無作法を、失礼いたしました」
「ひどい顔色だ。君の友人のところまで送ろう。控えの間で、休ませてもらうといい」
顔を上げると、エイドリアンは先ほどまでのうっとりと紅潮した表情から一転して、どこか呆けたような、それでいて理性を取り戻したような目を向けていた。
その声には強い戸惑いが含まれていたけれど、さすがは皇太子だ。ヘンリーのように後ろにのけぞることも、トリスタンのように放り出すこともせず、しりすぼみに終わった音楽と共に優雅に一礼をして、そのままエヴァの元にエスコートしてくれる。
私はといえば、ふわふわと宙を歩いているような心地だった。やりきったという思いもあれば、まだ少し、ほんとに終わったの? という気持ちもある。
「ソニア」
エヴァは私に駆け寄ると、エイドリアンのエスコートから奪うように抱きしめた。
「大丈夫? あんな転び方をして、怪我は」
「うん、私は大丈夫だよ。それに、そのう」
「エヴァリーン」
気まずさを押し殺したような声で、エイドリアンが言った。
二人の間には気まずい空気があって、エヴァは私を抱きしめることで、エイドリアンはそれを見守ることで、なんとか間を持たせているようだったけれど、やがて意を決したように、エイドリアンが優雅に一礼する。
「今更だと思われるかもしれないが……どうか、私とダンスを踊ってくれないだろうか」
「殿下……。ええ、もちろんです」
私をヘンリーに預けると、エヴァはエイドリアンの手を取って、再び広間の中心に戻っていった。
太陽のような皇太子と、月の女神のような公爵令嬢は息もぴったりで、誰もが見入ったように目を離せずにいる中、優雅に、華麗に、三曲のダンスを踊り切ったのだった。