2. ヘンリー・マクシミリアン公爵令息
私の名前はソニア。ソニア・メアリー・シュレジンガーがフルネームだけれど、いまだに自分でも長い名前に舌を噛みそうになる。
「私、運命の歯車が見えるんです」
いつまでも若い男女が裏路地でこそこそと話をしているのも何なのでと場所を変えて、大通りに面したカフェの二階、窓が大きく取られた個室に案内された。
話は結論から簡潔にを心がけてそう言ったのに、テーブルを挟んで向かいに座ったヘンリーは思い切り眉をひそめてみせる。
軽くウェーブの掛かった明るい金髪に、妙に色っぽい雰囲気のあるエキゾチックな藍色の瞳。見慣れた学園の制服なのにヘンリーが着ると妙に退廃的な衣装のように見えて、それが彼の独特の雰囲気を引き立てている。
攻略対象に美形しかいない「聖女プロジェクト」、略して聖プロの中でも端正に整った顔立ちはシリーズ屈指の美形と名高く、甘いマスクと裏腹の低いバリトンの声のギャップにやられるファンが続出したものだった。
けれどその常識外れの美形が現物になって目の前にいると、そのあまりの美しさぷりに、見とれるよりも先にちょっと気後れしてしまう。
「言っておきますけど、私は正気です。……私の話に聞く価値があると思ったから、わざわざ個室を取ってくれたんですよね?」
こちらが気圧されているのが伝わっているのだろう、ヘンリーは腕を組むと、ふん、と鼻で笑う。悔しいけど、そういう態度もいちいち絵になるのがヘンリー・マクシミリアンというものだ。
「僕を襲った女の身元を確かめるためかもしれないとは思わないのか?」
「思いません。いつも女の子を何人も侍らせているヘンリー・マクシミリアン様が、今更見知らぬ女の子にキスしたくらいで大騒ぎするほうがおかしいですし」
「ぐっ」
「むしろラッキーごちそうさま誘ったのは君だからね、じゃあ名前も知らない誰かさんバイバイ、ってなるのが順当じゃないですか?」
「うっ……」
ヘンリーが貴族学園一の遊び人であることは有名な話だ。本人も隠そうとしていないし、それこそ貴族学園で知らない人はいないだろう。
「私と同じ一年生ながら先輩から同級生、まだ学園に入学していない年下の女の子から、噂によると母親と同い年の熟女まで守備範囲は限りなく広く、歓楽街の娼館にはなじみの高級娼婦がいるとか?」
「ううっ……」
ヘンリーはこの国の公爵家の跡取り息子で、まだ婚約者が決まっておらず、とんでもなくハンサムだ。この三拍子でモテないわけがない。いつも女の子に囲まれていて、特に積極的な子たちを左右に何人も侍らせている姿を転入して一か月の間に、すでに何回見たか分からない。
「悪友たちとゲーム感覚で女の子を落とす賭けをしているとか、成人前ながらすでに隠し子が片手の指の数では足りないとか、ああ、一番長く続いているのはお金を援助している寄る辺のない色っぽい未亡人だとか」
「ぐうぅ……」
ちょっとこちらを小馬鹿にした態度の返礼に誰でも知っている噂を羅列していくけれど、ヘンリーには効果覿面のようだった。彼は眉間を指で押さえ、首を左右に振り、額を手のひらで押さえて、最後にはテーブルに突っ伏してしまう。
「私は、これまでなんてことをしていたんだ……」
苦い苦い後悔の声に、さすがにちょっと可哀想かなと思ってしまうからイケメンは得だ。今のヘンリーを見れば、この一ケ月うわあ……と思いながら眺めていた彼の行状が意に沿わないものだったのは明らかだった。
「ええと、どれくらいまでが素の行動だったんですか?」
「……、……分からない」
ヘンリーはそう答えると、テーブルから体を起こし、お茶をぐい、と一気に飲み干す。あまりマナーがいいとは言えないけれど、そういうことをしてもやたらと絵になっている。
それで少し落ち着いたらしく、ゆっくりと記憶をたどるように、彼は話し始めた。
「学院に入る一年ほど前からだろうか、本当に些細なことでイライラするようになっていった気がする。最初のうちはそれでも時々、自分でもこんなことでと落ち着けることができていたが、次第に苛立ちが消化できなくなっていて、いつも神経質になっていった」
その時の感覚を思い出しているのだろう、眉をぎゅっと寄せて、藍色の瞳は不愉快そうに細められる。
「そんな気分の時に女性と話をすると、少し気が紛れたんだ。最初は話しかけてくる女性と雑談をする程度だったんだが、一人になるとどんどん苛立ちが募るようになっていって、それを埋めるように、いつの間にか女性に囲まれるのが当たり前になっていた」
学園に入る一年前なら、今から一年半ほど前からということだろう。ちょうど私……「ソニア」が子爵家に引き取られたのと同じ頃だ。
ゲームが始まる準備が整ったあたりから、彼らのシナリオも動き出したということになる。
聖プロでのヘンリーは、高い身分と整った容姿を持つ女遊びの激しい軽薄な男性ながら、いつも満たされないものを抱えているという設定のキャラクターだった。
転入生のソニアと出会い、軽薄な自分に唯一まっすぐにぶつかってきてくれるソニアに興味を抱くものの、自分から女性にアプローチをしたことのないヘンリーは芽生えた淡い想いとは裏腹に、ソニアに露悪的に振る舞ってしまう。
そんなヘンリーの複雑な感情をソニアは優しく紐解いていき、やがて二人はお互いを理解し合い惹かれ合うようになって――というのがヘンリールートの攻略法だ。
こうして思い出すと、美形で身分の高いお金持ちとはいえ、面倒くさい男である。
ヘンリーは悩まし気に眉を寄せ、自分の心臓の辺りにぎゅっと拳を押し付けた。
「その苛立ちが、今は綺麗に消えてしまっている。今となっては何があんなに気に障っていたのか、分からないくらいだ」
「あなたを操っていた「歯車」が、壊れたからだと思います」
「先ほど言っていた、運命の歯車か。……それは、どういうものなんだ?」
魔法があり、魔術の研究がされているこの世界である。実際に自分が何かに操られていたという感覚もあるのだろう、ヘンリーはひとまず真面目に私の話を聞いてくれる気になったようだった。
「まず、私はソニア。シュレジンガー子爵家の長女で、先月学園に転入してきたばかりです」
「ああ、君の噂は聞いたことがある。転入生は珍しいからな」
貴族は生まれたときから貴族であり、貴族籍を持つ十五から十八の子女は王立魔法学園に通うのが義務づけられている。
そこに編入してくる生徒というのはとても珍しいし、分かりやすくワケアリだ。
ヘンリーも私に何かしら貴族としてはあまり誇らしくない事情があると思ったのだろう、そこはさらっと流してくれた。
興味がないというより、女子の複雑な身の上を聞き出すようなことはしたくなさそうな態度だ。女の子を侍らせていたことも不本意だったようだし、素のヘンリーはちゃんと紳士なのだと思う。
「すごく荒唐無稽な話だとは思うんですけど。私、少しだけ未来の可能性が見えるんです」
「予知者か。稀だがいないわけではないとは聞くな」
「その未来では、私は皇太子殿下、その側近のトリスタン様、魔法学の教授のジュリアン先生、伯爵家令息のエドワード様、そして公爵家令息のヘンリー様の誰か、もしくはそのうちの複数、あるいは全員と結ばれる運命でした」
「………」
そんな可哀想な子を見るような目で見ないでほしい。
私だって言っていて、ものすごく恥ずかしい。年頃の貴族が通う学園の中でもひときわ目立っている男性たちの誰か、もしくは全員に愛される私なんて主張するのは、聖プロの記憶がなければただの痛い子だという自覚もある。
「そして、その未来に導くための運命が、歯車の形で見えるんです。ヘンリー様も何かに操られていた感覚は、あるんですよね? それがどんどんエスカレートしていって、ある日出会った一人の女性――まあ、私なんですけど――にしか向かなくなったとしたら?」
「……君に?」
「同級生の女の子侍らせて、先輩にも手を出して、年下の女の子にも唾を付けて、馴染みの娼館もあって、母親と同年代のマダムのツバメをして、隠し子がいて、未亡人の弱みに付け込んでいるヘンリー様が、私に」
「やめてくれ!」
そんなことあるのか? と言わんばかりの目を向けられた返礼にどうやらすでに黒歴史と化しているらしい噂を並べれば、悲鳴のような声が上がる。
「私は女性に手など出していないし、娼館通いもしていないし、マダムのツバメなどしていないし、弱い立場の女性を金貨の袋でぶつような真似など、もってのほかだ!」
「学園の女子を侍らせてはいたくせに」
「あ、あれは……彼女たちが」
「勝手にやっていたとか言っちゃ駄目ですよ。微笑んで思わせぶりなこと囁いて、期待させて、きゃあきゃあ言われるのを楽しんでいたでしょ」
そう指摘すると、紳士の彼としてはダメージが大きいらしく、ヘンリーは胸を押さえて再びテーブルに突っ伏してしまった。
美形がダメージを負っている様子は気の毒ではあるけれど、文字通り体を張って歯車から解放してあげたのに痛い子みたいに見たのだから、これくらいの仕返しは許されるだろう。
「私が「歯車」を壊さなかったら、今も大通りで「あーっヘンリー様だぁ」なんて言う女の子たちに群がられて、両腕で別々の女子と腕を組んできゃあきゃあ言われながら練り歩いていたんじゃないですか?」
「分かった、私が悪かった。だからもう許してくれ」
素直にそう謝罪したものの、自分が実際にそうした行いをしていたことははっきり覚えているのだろう、ヘンリーはしばらくテーブルから顔をあげようとしなかった。