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記憶が……無い。
アンナさんはもうアンさんの記憶全てが無くなってしまったということが、今の一言で理解することができてしまった。
「ラシェルさんのお知り合いの方ですか?」
「いえ……。いいのよ、変なことを聞いてしまってごめんなさいね」
アンナさんは不思議そうに私を見て疑問を口にしたが、私は喉が渇く思いがして目の前の紅茶を一口飲む。
「話を中断させてしまったわね。さぁ、どうぞ召し上がって」
「ありがとうございます。では、いただきます」
寂しい気持ちはある。
アンナさんの中のアンさんはやり方は別としても、自分の人生を諦めずに生きようともがく人だったから。
そんな彼女がまるで最初からいなかったかのように消えてしまった事に対しての喪失感が、空しく私の胸にとどまっている。
彼女の言う《この世界》において、彼女を知っていた、たった一人として。
それでも、アンナさん自身が変わった訳ではないのだろう。
きっとアンさんの魂とアンナさんは一緒なのだから、きっとアンさんの欠片もアンナさん自身には残っている筈なのだ。
そう自分に言い聞かせながら、アンナさんに向けて微笑んだ。
アンナさんも私の言葉に頷き、マンジューを頬張ると目を見開いて「美味しい……」と思わず声を漏らした。
私も一口食べてみようとアンナさんと同じく最初はクリームの入った方と説明されたマンジューを手に持ち、一口食べてみる。
すると、ふわっとした皮の中に入ったカスタードクリームの丁度良い甘さに、思わず頬が緩んでしまう。
クリームだからか、とても紅茶に合う。甘いクリームをストレートの紅茶が中和して口の中をさっぱりとさせてくれる。
確かサミュエルがいうには、アンコには違うお茶が合うそうなのだけど、この国では飲まれてはおらず、さすがのサミュエルもお茶づくりはしたことがないそうだ。同じ茶葉でも作り方で、紅茶だけでなく他のお茶も作れるとは言っていたが、私には詳しくは分からない。
それにしても、このマンジューというお菓子。
見た目も丸くて可愛らしいが、とても食べやすくて美味しい。
「本当ね! とっても美味しいわ。次はアンコの方を食べてみようかしら……。
あら? アンナさん?」
アンナさんからの返答が無くて顔を上げる。
するとアンナさんは茫然とそのマンジューを見つめていた。
「アンナさん? どうしたの?」
私の問いかけなど聞こえていないかのように、ただ食い入るようにマンジューを見つめていたアンナさんの目から、ポロポロと涙が溢れていた。
それに驚いたのは私だけでなく、アンナさん自身もどうして涙が溢れているのか分からない、といった様子で顔を上げた。
「なんで……なんで、涙が……」
「どうかしたのかしら。どこか痛いの? どうしたの?」
「いえ、その……このお菓子を食べていたら、自然と……」
「マンジューを?」
「どこかで食べたような……懐かしい味がして」
懐かしい?
思い出の味に似ている、という感じだろうか?
アンナさんはハンカチで涙を拭ったが、それでも涙は止まらないようだ。
大きな目から大粒の涙が浮かび上がり、ハンカチへと消えていく。
「……私はこれを……食べたことがある……」
ポツリと小さく呟いたアンナさんはハンカチを膝の上へと置くと、もう一つのアンコが入っているというマンジューを手に持ち、意を決する様に暫し見入った後に一口食べた。
すると、何かに気付いたかのようにハッとした表情になったアンナさんは、慌てたようにその場にガタっと立ち上がる。
「ア、アンナさん?」
「ラシェルさん!」
「は、はい」
「あの、さっきの人! さっきの人は!?」
「さっきの? ……えっと、誰かしら。もしかして、サミュエルのこと?」
アンナさんは勢いよく立ち上がったまま、私のほうへと大きな黄色い瞳を向けると、切迫した様子で問いかけた。
その勢いに押される形で私が返答すると、何かを考えるように声に出さずに口を「サミュエル?」とだけ動かしたことが見て取れた。
そしてアンナさんはその勢いのまま、部屋の扉まで足早に進み、扉を開けて部屋を出て行こうとする。その行動はとても聖女アンナ・キャロルのする行いには見えず、私には何が起こっているのか全く分からず、あっけにとられるばかり。
だが、ポカンとその行動を見ていたのは一瞬で、すぐに正気を取り戻した私は「アンナさん!」と呼び掛けながら後を追いかける。
開けっ放しの扉から部屋を出ると、廊下で立ち竦んで前だけを真っ直ぐに見るアンナさんの姿があった。
「どうされたの? 急に飛び出すから驚いてしまったわ」
そのアンナさんに背中越しに問いかけ、驚いて少し速くなった心拍を落ち着けるように「ふぅ」と息を吐く。それでも、私の返答に応えは返ってこず、不審に思いアンナさんの隣へと立ち横を見ると、アンナさんは歓喜に震えたように瞳をキラキラと輝かせ、上気した頬を真っ赤にしながら、ただ一点だけを見つめていた。
その視線を辿るように追っていくと、ある人物で止まった。
その人物とは。
サミュエルだ。
サミュエルは、先程私たちの元に運んだお菓子が載っていたであろうワゴンを押して、調理場まで戻るところのようだ。
何故サミュエルをそんなにも熱心に見つめているのか、とても理解が追い付かず、アンナさんへまた声を掛けようと視線を隣へと移す。
そのアンナさんは、一歩足を前へと出すと大きな声でサミュエルへと呼び掛けた。
「誠くん!」
マコト……くん?
アンナさんは今何と言った?
マコトくんと言わなかっただろうか。
様々な疑問が一気に駆け巡るが、それどころでは無い。
とりあえずはアンナさんを落ち着かせた方がいいのではないかと思うが、そのアンナさんはまた何度も同じ人物の名を口にした。
「誠くん! 誠くん!」
「あの、アンナさん。彼は……サミュ……」
何か誤解があるのか、どうなのか。
サミュエルの事を口にしようとして、視線をサミュエルへと向ける。
すると、声に気が付いたサミュエルが条件反射のように、パッと振り向いた。
そして、普段から誰に対しても親切で穏やかな笑顔を浮かべているサミュエルであるが、その笑顔とも違う。
とても柔らかく、特別な相手に向けるような温かい笑顔を浮かべて。
「どうした? 杏」
そう返答したのだ。
だが、サミュエルは一瞬でハッとした表情を見せると、自身の発した言葉に驚いたように、細く吊り上がった目を極限まで見開いてキョロキョロと周囲を見渡す。
そして私を視線に捉えて、一気に顔色を悪くさせた。
だが、その返答と共に動いたのは私の隣にいたアンナさんだった。
彼女はその場から勢いよく駆け出すと、サミュエル目掛けてそのまま飛び込んだ。
サミュエルの背中へと腕をギュッと固く回しながら、アンナさんは子供のように大きな声を上げながら泣いていた。
サミュエルも驚いたように彼女を受け止めた後、彼女や私へと顔を忙しなく行き来させながら、分かりやすく困惑している。
アンナさんは泣きながらも、その口から何度も同じ人物の名を口にする。途切れ途切れに「マコトくん」「会いたかった」「アン」と何度もつっかえながら、一生懸命相手に伝えようと口にしている。
サミュエルも「杏!? 杏なのか!」と驚いたようにアンナさんの肩を掴んで顔を覗き込む。それにアンナさんは涙でぐしゃぐしゃになった顔を更に歪めながら、何度も何度も首を縦に振った。
少し離れた場所から彼らを見ていた私はただただ茫然と立ち竦むだけであった。
それでもサミュエルに向かって「誠くん」と呼び掛けるアンナさんが、今まで見た彼女とは違った、心からの笑みなのだとその瞬間私は理解をした。
その笑顔は、今まで見てきた彼女の中で一番キラキラと輝いており、あまりにも綺麗なものであった。
そして、同時に理解した。
彼女のマコトくんがサミュエルであり、一度消えたはずのアンさんがまた戻ってきたのだと。
私の視線の向こうには、サミュエルに抱き着いたまま離れようとしないアンナさん。
対するサミュエルの顔も、困惑がありつつも喜びが隠しきれていない様子に、私の胸が熱くなるのを感じた。
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感想で【小豆と大豆】【和菓子屋と豆腐屋】に触れてくれた方も、あの人か!?の感想もありがとうございます(笑)
ついに誠くんです。