88 王太子視点
「殿下、少し丁寧さに欠ける剣筋ですな」
「……ミリシエ伯爵」
執務の合間、訓練場で剣の鍛錬を行っていると、背後に人の気配がして振り返る。
そこでは、レオニーの父親でありこの国の騎士団のトップである騎士団長のミリシエ伯爵が腕を組んでこちらをジッと見ていた。
……いつから居たのやら。
きっと騎士団長のことだ。
少し前から私の様子を見ていたのだろう。そして、私がある程度剣を振るい、汗をタオルで拭ったタイミングで近づいたのだろうな。
「どうやら、殿下は剣で憂いを払いたいようですが、剣というのは素直なもの。
己の心全てが出てしまうのですよ」
「懐かしいな。幼少の頃、伯爵からよく注意されていたのを思い出すよ」
ミリシエ伯爵はゆっくりと私の側に近寄ると、壁に掛けてある木刀を手に取り、一振りしてみせる。
その剣筋は誰が見ても真っすぐで迷いが無く、強者のものだと感じることが出来るだろう。
さすが、この国一番の腕前なだけある。
「おや? 私は今でも剣に関しては、殿下の師であるつもりですよ?」
「確かにそうだ。それで、指導しに来てくれたのか?」
そんなミリシエ伯爵は、私が幼い頃から剣の師として、教えを乞うた人物である。
立場など関係なく鬼のように扱かれた過去を思い出すと、つい苦笑いになってしまうのも仕方がないだろう。
普段はこのように距離感も近く、身分などでも判断せず親しく接するせいか領民たちにも慕われている様だ。
だが、一度でもミリシエ伯爵の指導を受けた者は、容赦のない鬼のような鍛錬に恐怖を覚えるのだ。その地獄の指導は中堅であろうと新人だろうと関係は無い。
本人でさえ、剣を握ると血が煮えたぎるとよく言っている程であり、騎士団に入る新人にはまず『騎士団長の表の顔に騙されるな』ということから教えられると聞く。
ただ、どんな相手とも拳で分かり合うと言わんばかりの脳筋ぶりは、武に長けたミリシエ家には珍しくない。それ故、長い間王家からの信頼が厚いのだろう。
そんな伯爵は、今現在目の奥に好奇心を滲ませて、楽しそうに口の端を上げてこちらを見ている。
「いえ、私は殿下にしては珍しく感情を露わにして剣を振っていたので、からかいに来たまでですよ」
「……はぁ。だったらもう十分だろう」
あからさまに深い溜息を吐くも、伯爵は気にする素振りもなく話を続ける気のようだ。
剣の片づけをしている私を視界に捉えているはずであるが、伯爵は訓練室のベンチにどっかりと腰を降ろして、長居する気満々の姿勢を見せる。
「それで、何がそうも殿下の心を乱すのですか? 殿下は昔から、どうも感情的とは無縁の教え子だったので、私としてはとても興味がありますね」
「何も無い」
「何も無ければ、殿下はそのような無鉄砲な意味の無い鍛錬はしないでしょうな。
私の見立てでは、そうですな。……何かを紛らわせようとしている、といった所か」
脳筋とは時に厄介なものだ。
何故なら、人が隠したくて見せたくないものを、勘とやらで当てにくるからだ。
無意識に僅かに寄った眉間の皺に、伯爵は「ははは、当たりですか」と豪快に笑った。
「殿下の心配とはあれでしょう。我が家の三男坊を護衛に付けた婚約者のことですかな」
「伯爵、ラシェルの護衛に付けたのは貴方の次女だ」
私の言葉に伯爵は、《はて?次女?》と言わんばかりにポカン、とした顔をした後、すぐにハッとした表情になる。
「あぁ、そうでした。そうそう、娘。
いやー、あれに関しては娘だとうっかり忘れてしまうのですよ。本人も女だとか意識されるとやりにくいと言うもので。指導する時も息子と考えて厳しく扱いていると、つい」
……つい、うっかりでいいのか?
伯爵は自分の間違いに「いやー、間違えた間違えた」とケラケラ笑って頭を掻いているが、聞いている身としては、本気で引いてしまうのも仕方が無いだろう。
そのうっかりでレオニーは貴族子女には珍しく、婚約者さえ探す様子も無いが……きっと良いのだろう。
あまり真剣に考えてはいけない話だ。
「それでも、レオニーは腕が立ちますよ。それはご安心ください」
「あぁ、そこは心配していない」
「となると、やはり婚約者が側にいなくて寂しい、という話ですかな?」
あまりにも直球な物言いに、言葉を濁すより先に「うっ……」と詰まらせてしまう。
そんな私の様子に、伯爵はまた声を上げて楽しそうに笑う。
「殿下も年頃だったようで。安心しました。
分かります。分かりますよ、殿下のお心。私も職務で妻と離れる時は、毎回それはもう身が裂けるような思いで。そうそう、この間もですね……」
伯爵の夫婦仲が良い事は分った。
ただ、何度も「あぁ。それでは」と話を終わらせようと口を挟んだが、それでも未だ延々と続く伯爵夫妻のやり取りに、意識が他の方へと行きそうになり、うんざりする気持ちが隠しきれない。
……誰が好き好んで、五十過ぎの夫婦仲を聞きたいと思うだろうか。
伯爵はまだまだ語り足りないようで、いかに伯爵夫人が可愛らしい人物であるかを語っている。
これはもしかすると、鬼の鍛錬よりも厳しいのではないだろうか。
そう悟り始めた、その時。
「殿下!」
「シリル、良い所に。急ぎの案件か?」
鍛錬場に足早にやってきたシリルの声にハッと後ろを向く。
常日頃から有能であるとは思っていたが、こんなにも良いタイミングで来てくれるとは。今だけはシリルの周りに聖なる光を感じ、まるで天からの助けのように見える。
だが、そう思ったのもつかの間。
シリルの異様に焦った顔色に、何かまずい事が起きているのではないかと理解する。
先程までデレデレと顔を緩めていたミリシエ伯爵も、険しい顔つきになりサッと立ち上がり、私の後ろに立つ。
「ミリシエ伯爵、お久しぶりです」
「挨拶は良い。それで、何が起きた」
シリルは、私の後ろにいた騎士団長に若干ギョっとしたように目を見開いたが、伯爵から用件を言うように伝えられ、直ぐに私へと視線を向ける。
「実は、シャントルイユ修道院で新人シスターが襲われたようで……」
「シャントルイユ修道院? それで、どうした」
シャントルイユ修道院で事件……。
あそこは、問題を起こした貴族令嬢が入る厳しい修道院ではあるが、襲われるなどの事件が起きることはまず無い。
自然と顎に手を当てて考え込みながら、シリルに続きを促す。
すると、シリルはひとつ呼吸を置いた後に口を開く。
「カトリーナ・ヒギンズが脱走したようです」
「何だと!」
シリルの言葉に、思わず口から大きな声が出る。
最近の報告でも大人しくしていると報告されていたカトリーナ・ヒギンズが、今このタイミングで行動を移すとは。
直後に頭に思い浮かぶのはラシェルの事。
ラシェルの旅の日程は……。
まずい、今ブスケ領にいる頃だ。
もしカトリーナ・ヒギンズが、ラシェルがブスケ領にいることを何らかの方法で知り得たのなら。もし、それで脱走をしたのであれば。
狙いは……ラシェルか?
だとしたら、ラシェルに危険が迫る。
直ぐに、直ぐに動かなければ。
可能性を考えると、知らず知らずに握り込んだ拳に力が入る。
「シリル、今すぐテオドールを呼べ」
鍛錬の為に脱いでいたジャケットを乱雑に羽織ると、私の指示にシリルは「はっ」と返事をし、そのまま鍛錬場を後にした。
そのまま自分も足早にその場を後にしようとした時。
「テオドールを動かします、か。殿下、どう為さるおつもりで?」
「伯爵……」
「マルセル嬢の側にはレオニー、そしてロジェがいます。ラシェル嬢に傷一つ負わせることはありません」
後ろに控えていたミリシエ伯爵が、私へと厳しい視線を向ける。
その表情は既に威圧感のある騎士団長のものになっている。
「あぁ。もちろん騎士たちのことは信用している。
だが、あのシャントルイユ修道院を脱走したのだから協力者もいるはずだ」
「そうですか。騎士への信頼をありがとうございます」
伯爵は今あえて立ち止まらせることで、冷静さを私に取り戻してくれたのだろう。
自分でもラシェルが絡むと、冷静でいられないと理解している。
今もラシェルに渡したネックレスの魔石から、ラシェルに危険が及んでいないことは分かる。
それでも、ラシェルが確実に安全であると理解できるまでは安心できない。
自分が直ぐに彼女の元に行けない事がもどかしい。
「令嬢一人であれば、騎士に敵う筈もない。それより問題は、カトリーナ・ヒギンズを表に立たせ、裏で動く人物。そいつがラシェルを狙う可能性が否定されない限りは安心できない。
ミリシエ伯爵、手を貸してくれるか」
「御意」
ラシェル、どうか。
どうか無事でいてくれ。
何度も何度もその願いだけが自分の中を渦巻いていく。
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