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「さぁ、ラシェル嬢。もうすぐミリシエ領ですよ」
レオニー様の声と共に開けられた馬車のカーテンに、ふと視線を外へと向けた。
そこには、放牧された馬や牛といった動物たちが、草を食べていたり、広い平地を駆け走る姿が見える。
「まぁ! サラ、見て! あんなにも動物たちが!」
「えぇ、お嬢様。王都とも、マルセル領とも違いますね」
私たちが興奮したように声を上げて周囲を眺めていると、膝の上で丸まって寝ていたクロも私の声に驚いたように飛び起きる。
そして慌てたようにキョロキョロと辺りを見渡した後、ぐーっと体を伸ばし、また元の体勢に戻ると再び目を閉じ眠り始めた。
そんなクロの様子とは反対に、私は初めて見る光景に目を奪われていた。
まず目に飛び込んできたのは動物たちの可愛らしさであったが、よく周囲を見渡すと、この地の美しさが目に入った。
広々とした高原の奥には山々がそびえ立ち、そのどれもが雪を被っている。その姿がまた勇ましくもありつつも、幻想的な美しさをも感じさせる。
まるで自然に抱き込まれたような空気感、そして圧巻の大自然を前に、思わず息を呑む。
どれぐらい見入っていたのか、レオニー様のクスリと漏らした笑みに思わずハッとする。
慌ててレオニー様へと視線を向けると、レオニー様は腕を組みこちらをジッと微笑みながら見つめていた。その様子に、先程までの自分を思い出して頬が赤らむのを感じる。
そして、ゆっくりと身を乗り出していた体を元に戻し、椅子に深く座り直した。
「僕の事は気にしなくてもいいのに。ラシェル嬢もサラもとても可愛らしかったですからね」
「お恥ずかしい姿をお見せしまして……」
「いや、もっと見ていたいぐらいですよ」
レオニー様は相も変わらず、美しい微笑みを浮かべており、私の隣に座るサラはポーっと熱に浮かされたように見つめている。
そしてもう一度、そっと窓の外を窺い見て思う。
ようやくここまで来たのだ、と。
そう思うと、とても感慨深いものがある。
王都を出てから五日間。ようやくミリシエ領まで入る事が出来た。
道中は特に問題なくここまで来ることが出来ている。それも全ては、私の準備を一歩先回りして、レオニー様が休憩地や宿などへ連絡をしてくれているからに他ならない。
申し訳なく思う私に対しても、『いつも領地に帰る時と同じ道ですからね。慣れているのですよ』と爽やかな笑顔で答えてくれた。
そんなレオニー様の騎士としての凛々しさに、サラはあっという間にファンになってしまったようだ。
出発前はどうなることかと不安も多かったが、時間が押す事も無くミリシエ領まで来られた事に、ほっとして胸を撫で下ろす。
そう、旅に出てからは特に何の問題も起こっておらず、順調に進んでいるのだ。
問題は出発前であった。
マルセル領に出立する時と同じく、出掛ける瞬間になってまた父がごね始めたのだ。何度もなだめても『一緒に行く』と言って聞かず、どうしたものかと悩んでいたところを母によって引きずられる様に屋敷内に押し込まれていた。
そんな母は母で私の体調を案じて、薬草やら魔石やらを大量に持たせてくれた。母に関しては、レオニー様の『ラシェル嬢は、命を懸けてお守りします』との熱く力強い言葉により、これまたうっとりとした顔を浮かべていた。
その瞬間を見計らって、出発の予定時刻より遅れる事一時間。ようやく侯爵邸を出発することが出来たのだ。
「ラシェル嬢、今日からは暫く我が伯爵家の領主館を拠点とします。
ブスケ領に入るのは、今から一週間後。期間は三日程の予定ですが、それでよろしいですか?」
「はい。これからしばらくお世話になります」
「ははっ、そんなにかしこまらなくても大丈夫。自分の家だと思って、ゆっくりと過ごしてくださいね」
「ありがとうございます」
私の言葉に、レオニー様は優しく目を細めて頷いた。そして「そういえば」と前置きをしながら、顎に手を当てて考え事をしているかのように視線を上へと向けると。
「殿下から贈り物が届いているはずですよ」
「え? 殿下からですか?」
「はい。先程の休憩地から伯爵家の兵士が案内として合流して、今はロジェと馬車の周囲を警護しながら並走しています。それで、その兵士が言付けを預かってきたようで。それによると、貴方の到着に合わせて届けられていたようですね」
「まぁ……」
レオニー様の言葉に、つい殿下の顔が自然に思い浮かび、頬が緩むのを感じた。
旅の間ずっと身に着け続ける事で、肌になじんだネックレスにそっと触れる。
不思議と、心細い時、殿下を思い出した時、そのネックレスの石に触れると、心が満たされて温かい気持ちになれたのだ。
今も、触れているだけで殿下を近くに感じる事が出来る。
もしかしたら、殿下への恋しさから、そう自分に自然と思い込ませているだけなのかもしれない。
でも、それでも思うのだ。
この石に触れる時の安心感はきっと、殿下が自身の魔力を込めてくれたからではないかと。
いつでも殿下が見守っていてくれる気がして、離れているのに近くに感じる事が出来る。
今も、殿下のことを想うと胸がトクトクと速く音をたてる。
そして力を分けてもらえるような強さを感じるのだ。
「本当に良かった」
レオニー様の声で、ふと意識が浮上する。
駄目ね。殿下の事を考えると、つい考え込んでしまう気がする。
「え?」とレオニー様に聞き返すと、彼女はにっこりと笑う。
「いや、殿下のことです。貴方みたいな素敵な方と想いを通じ合わせる事が出来て。きっとこの国も更に良くなるだろうと、安心できます」
「いえ、私はまだまだ……」
「本心ですよ。殿下だけでなく、テオドールのことも感謝していますからね。
だから、ずっとラシェル嬢にはお会いしたかったのですが、嫉妬深い何方かがなかなか会わせてくれなかったのですよ」
レオニー様はいたずらっ子の様に、人差し指を口元に当てながらウインクした。そんな姿さえ様になってしまい、思わず「ふふっ」と笑みを漏らしてしまう。
それにしても、テオドール様?
感謝、とはどういうことなのだろうか。
私が感謝しなければいけないことは沢山あるけれど、感謝されることなどあった覚えが無い。
レオニー様に何の事かを聞いてみようと口を開こうとすると、その前にレオニー様の雰囲気がピリッとした騎士のものへと変化し、思わず口を閉じて姿勢を正す。
レオニー様は先程と打って変わった真剣な表情をし、切れ長の目でこちらを真っ直ぐに見つめた。
「何がこの先に待っているのかは、僕にはわかりません。それでも、しっかりとお守りしますから。危険な目には合わせません。僕も、そしてロジェも」
「……ありがとうございます。レオニー様、よろしくお願いします」
その視線を逸らさずに、真っ直ぐ受け止めて返答すると、レオニー様はまた嬉しそうに微笑んだ。
私だって、以前のような失敗はしてはいけないのだ。
私を守ってくれる騎士、そして着いて来てくれたサラ、そして旅を一緒にする者たち。
全ては私の希望によりここにいるのだ。
だからこそ、彼らが任務を全うして王都へと帰ることが出来るように、私も責任を持たなければならない。
決意を新たにしていると、馬車が徐々にゆっくりとなったことに気付く。
窓から外を眺めると、どうやら伯爵家の領主館へと着いたようだ。
馬車は一度止まった後、門を通り抜ける。そして、ゆっくりゆっくりと建物の前へと進んでいく。
さすがミリシエ伯爵家だけあって、一目見ただけで、この領主館も歴史深く立派な造りであることが分かる。
「さぁ、着いたようですね。行きましょう」
「はい」
馬車が止まると、先に馬車を降りたレオニー様は、こちらへと手を差し出しながら、今日の天気のようにカラッと晴れた眩しい笑顔を見せる。
「ようこそ、ミリシエ領へ」
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