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「殿下、ようこそお越しくださいました」
「あぁ、元気そうで安心したよ」
殿下がシリルや護衛と共に現れたのは、私の支度が終わってすぐのことであった。
久々に会う殿下はどこか疲れた顔をしている。
いつもの微笑みがどこかぎこちなく感じるのは気のせいだろうか。
「今回はどうされたのですか?こんなに急に」
「⋯⋯この先のドナシアン領に急遽用事があってね。丁度ここを通るから、マルセル領に一泊することになったんだ。急ですまない」
「まぁ、そうでしたのね。お気になさらないでください。お顔を見られて嬉しく思います」
殿下の立場になれば、国内で何かあれば急遽遠出をしなければならない事態にもなるだろう。
ドナシアン領といえば、領主が最近羽振りがいいと有名だ。
調査をするのか、何かを掴んだのか。
ただ、こんなに早急に少人数で移動していることを考えると、内密で動いているのだろう。
それにしても。
本当に殿下はお忙しい中でわざわざお立ち寄りくださったのね。
身なりは清潔感はあるが、よく見ると服が大分縒れている。かなり急がれてきたのか、長時間馬に乗っていたのだろう。
お顔も疲れが滲んでいる。
疲れている中でわざわざ来てくれたことに申し訳なさも感じる。
だが、やはり目の前に殿下がいる。
その事実に、やはり心が浮き立つ気がする。
「宿泊はどちらに?宜しければ客間を用意しましょう」
「心配はいらないよ。宿はシリルが手配してあるからね」
「そうでしたか。では、夕食をぜひ一緒に」
「⋯⋯あぁ、ではそうさせてもらおう」
どこか強張っていたような殿下がようやく表情を緩め、微笑んでくれたことにほっとする。
うん、やはり一息つきたいのね。
夕食までの間は少しお休みできるように部屋を整えておいて貰わないと。
あぁ、あと母のことも伝えなければ。
「本来ならば母もご挨拶をすべきなのですが、本日は隣の領に出掛けておりまして。申し訳ありません」
「いや、急に来たのはこちらだからね。こちらこそすまない。それにしても、随分顔色が良くなったね」
「ありがとうございます。久々にお会い出来たのですから、お話したいことも沢山あります」
「あぁ、では夕食の時にラシェルの話を聞かせてくれ」
殿下は恐る恐ると言った様子で私の頬に殿下の手を添わせる。
自然と見上げると、殿下の瞳に私の顔が映る。
「会いたかったよ、ラシェル」
そう、小さく呟かれた声はとても甘く優しく聞こえる。
その言葉に私の心臓はドクンと大きく音をたてた。
夕食は普通であれば長テーブルの端と端に座るが、殿下の希望で私は殿下のすぐ斜め横に座った。
距離が近いだけで、不思議と話す内容もどこか親しみのある雰囲気になる。
私の街の様子や市場の話などに殿下は興味深そうに頷き、時々質問も交えて和やかな食事会となった。
だが、殿下は時々何かを探るような視線を寄越す。
何を聞きたいのかしら?
少しの沈黙の後、殿下はテーブルを見つめたまま険しい顔で口を開く。
「先程、この屋敷から神官が出て行ったようだが⋯⋯」
「あぁ!そうでした。大事なお話をしていませんでしたね」
「大事な話⋯⋯」
そうだったわ。手紙には教会の孤児院に通っている話は書いてあるが、詳細を話していなかった。
子供たちの様子を思い出し、ついふふっ、と笑みが溢れる。
何故か、殿下は私の表情に愕然としたような驚いた顔をする。
「テオドールが言っていたことは本当なのか?」
「テオドール様? 何かおっしゃっていましたか?」
「君が⋯⋯その⋯⋯う⋯⋯出会った⋯⋯と」
出会った?
テオドール様は何の話をしたのかしら。
でも、出会うって言ったら⋯⋯市場よね。ミーナのこと?
それしか無いわよね。
「市場でのことですか? えぇ、たまたまですが。そこからご縁ができて、結果本当に良かったと思っているのです」
私の言葉に殿下は傷ついたかのような表情を浮かべて眉を下げた。
「良かった⋯⋯ことなのか」
「えぇ、結果として私は孤児院で子供たちと充実した時間を過ごしています。今は子供に文字を教えたり、本を読み聞かせたり、大した事は出来ていませんが」
「あいつ⋯⋯あの神官は、君にとってどんな存在なんだ」
「神官様は、道を示してくれたのです。踏み出す勇気のない私の背を押してくださったのです」
「君にとって大事な人であると?」
大事な人?
まぁ、神官様がいなければ自分が何をしたいかがはっきりと見えなかったのは確かだ。
でも大事な人?
何だかさっきから殿下はやたらと歯切れの悪い聞き方をする。
私に何を聞きたいのだろう。
「確かに神官様は私にとって⋯⋯」
「いい! もういい⋯⋯」
《影響力の大きい人》といいかけた所で、殿下の大きな声に遮られる。
その声に驚いたように思わず目を見開くが、殿下自身も自分の声に驚いたのだろう。
口元に手を当てて信じられない、と言わんばかりに驚愕の表情を浮かべている。
「で、殿下?」
「すまない。驚かせてしまったな。
⋯⋯だが、君の口からあの男のことをこれ以上聞いていられない」
「え?」
あの男? 神官様?
「あの、殿下? 何か誤解を⋯⋯」
「君にとって、彼が重要な人物であることはわかった。だが、今は私の婚約者だ」
「えぇ、もちろん」
何故、急に婚約の話になるの?
待って、全然話の流れがわからないわ。
殿下は何かに苛立っている?
「どうか、私を見てくれないだろうか。
確かに以前の私は君を知ろうともせずに、貴族女性という枠に嵌め込んだ、ただの愚か者だ」
「愚か者など⋯⋯殿下をそのように思ったことはありませんわ。私だって、殿下を上辺でしか見ていませんでした。それに、平民や魔力が少ない者を視界にも入れようとしていなかった。
愚かというのであれば⋯⋯私です」
「だが、君は変わった。
私が君に相応しくないことも分かっている。君が望むものを与えられないことも」
「そんな⋯⋯私の方が相応しくないのです!」
殿下は視線をテーブルへと固定し、いつもの自信は隠れたかのように弱々しく話す。
だが、相応しくない、などと。
私こそ王太子妃という立場には不似合いだ。
彼の望む国作りにおいて、私はきっと足を引っ張るだけだろう。
「すまない。ラシェルと教会の様子をロジェに聞いた。
君は王都にいる時に比べて、伸び伸びと自由に、明るくなったと」
確かに、夕食までの間に殿下とロジェが二人で並んで歩く姿が見えた。
その時のことだろう。
でも、そうか。ロジェにも私はここでの暮らしが楽しそうに見えていたのか。
「確かに⋯⋯そうかもしれません」
王都にいた時は自分で歩くこともままならなかった。だが、今ここでは街の人ごみを、海辺を、野原を一人で歩くことが出来るのだ。
もう出来ないと諦めていたことが出来る喜び。
誰かに必要とされる喜びを実感することが出来ている。
「それなのに、私はまだ君を王都に。王太子の妃という窮屈な椅子に座らせたいと願っている」
「殿下⋯⋯」
その言葉にドキッとした。
殿下は未だ私を婚約者として望んでいるのだと。
ハッキリと聞いたことのなかった言葉に、私の鼓動はどんどん速まっていくのを感じる。
気持ち⋯⋯私の気持ちを言わなければ。
でも、何を?
私は殿下に何を伝えようと思っている?
戸惑う私を他所に、殿下は眉間に皺を寄せて目を数秒瞑ると、席から立ち上がる。
そして、心底申し訳なさそうに「すまない。今日はもう失礼するよ」と私に伝えた。
「これ以上いると、君を傷つけかねない。
また、明日⋯⋯ここを発つ前に来る」
見送りを、と立ち上がろうとする私を「ここで大丈夫だ」と制し、殿下は私に向かって自分の手を伸ばす。だが、途中でその手を苦しそうに見つめてすぐに引っ込めて元の場所へと戻した。
「⋯⋯わかりました」
このまま殿下を帰らせてもいいのだろうか、とも考える。だが、今の私に何と言っていいのか何もわからない。
その為、了承の言葉を伝えると、殿下は顔を俯かせたまま振り返らずに足早に出て行った。
残された私は、殿下が去っていくのをただ見送るしかなかった。