26
マルセル侯爵領の領主館は、本当に海のすぐ側であった。
この場所だけ丘の上に作られているため、海を見下ろすことが出来る。
窓を開けると、海風が潮の香りを運んでくる。眼前に広がる青空と水平線に気分が高揚し、何だかワクワクしてくる。
あぁ、なんて気持ちがいいのかしら。
朝からこんな景色を観ていられるなんて幸せだわ。
この環境の良さとテオドール様から日々魔力コントロールを習っていること、そしてサミュエルが作る新鮮な海鮮物を使った料理により、私の体調はすこぶる良くなっている。
クロを抱っこしながら外の景色を眺めていると、部屋をコンコン、とノックする音が聞こえる。
「はい」と返事すると、「俺」という声が聞こえる。
俺って。
俺って、誰ですか。
⋯⋯まぁ、こんな返事をするのは一人しかいないのだが。
床へとクロを下ろすと、そのままクロはパッとドアの前に駆け寄った。そして、カリカリとドアを《開けて》というかのように引っ掻いている。
それに苦笑いしながら「今行きます」と返事をして、ドアを開ける。
そこには案の定、テオドール様が立っていた。
クロは相変わらず、テオドール様の足に擦り寄る。そして、抱き上げられると『ニャー』と何かを伝えるかのように鳴く。それに対し、テオドール様も優しく「あぁ、おはよう」と甘やかに声をかけた。
相変わらずの安定ぶりだわ。
やっぱり羨ましい。
「テオドール様、おはようございます」
「あぁ、おはよう」
ここに来てからテオドール様はいつもの黒ローブは着なくなった。今日も白いシャツにオニキスの真っ黒な光沢のある石がついたループタイ姿である。
本人が言うには、「ここではローブは目立ちすぎるし、噂になったらやっかい」とのことだ。
だが、長い銀髪はここでもとても目立つと思うが。
そこはあまり気にならないらしい。
「ラシェル嬢、準備は出来たかい?」
「大丈夫です。あれ?サミュエルはどこですか?」
「あぁ、ロジェと今日のルートを確認しているよ」
ここに来てから数日は、疲れのため外出が出来なかった。だが、一週間後からは少しずつ出かけられるようになった。
最初は近くの公園、海辺、そして街、というように徐々に距離と時間を増やしていった。だが、領地に来てからは未だ寝込むこともなく過ごせている。
それに、見るもの全てが新しくとても充実した日々だと感じる。
そして今日は、市場に行く予定だ。同行者はテオドール様、ロジェ、サミュエルである。
朝市というものが開かれているらしく、新鮮な魚介類に合わせて、今日は珍しいものも入荷する特別な市ということで行ってみることにした。
「では、サラ行ってくるわね」
「はい、いってらっしゃいませ」
サラはにっこりと笑い送り出してくれた。
サラはこのマルセル領に来るのは今回が初めてで、初めて目にする海にとても感動したようだ。
確かに、海は眺めるだけで心が穏やかになる。
昼間は波が光を浴びてキラキラと輝き、夕方は真っ赤な太陽が空と海をオレンジ色に染めて水面に沈みゆく。そして夜は、遠くまで暗闇に染まる中で小さなダイヤモンドを散らばしたかのように星が瞬く。
どの瞬間を切り取っても美しい。
この海の先には違う国があって、更に色んな人々が暮らしている。
そう思うと、とても不思議な感覚だ。
♢
市場につくと、テントがズラっと並んでおり野菜や海産物、スパイスなど様々な店が並ぶ。
「サミュエル、何かいいものはあったか?」
「そうですね。とりあえず、サーモンとイワシは欲しいですね」
「おい、サミュエル。貝も忘れんなよ、貝」
「わかってますよ。ほんとテオドール様は貝が好きですね」
「新鮮じゃないと腹痛くなるだろ、貝」
先頭を歩くテオドール様とサミュエルは、このマルセル領に来てから随分仲良くなったようだ。
毎日一緒に市場へと出かけて行く姿は、領地の使用人たちも皆目を丸くしていた。
次期侯爵であるフリオン子爵が買い出し、という事実には誰もが驚くだろう。だが、この国の騎士団や魔術師団は実力主義な所もあるため、エリート街道まっしぐらであるテオドール様も魔術師団で地方へ行く時は買い出しもするらしい。
ちなみに、野宿も普通にするらしく自炊も出来るらしい。
それを聞いた時は更にまた驚いてしまった。
私は人混みの中、前を歩くテオドール様とサミュエルを見失わないように離れない距離で後ろを歩く。
更に後ろにはロジェが周囲を注意深く観察しながら歩いている。
すると、視線の先に米や瓶に入った調味料らしき物、それに見たことのない豆も置いてある、どこか異国の雰囲気を出す不思議な店を発見する。
「あら、あそこに売っているのは何かしら?」
「ん?どこ⋯⋯あぁ、あれが今日の目玉でもある⋯⋯確かどっか東の方から取り寄せた珍しい食材ってやつじゃん?
なぁ、そうだよなサミュエル」
私が一つの店を指差して、前を歩くテオドール様に声をかける。すると、テオドール様は私への返答をしながら、隣を歩くサミュエルの方に視線を向ける。
ところが、サミュエルの反応がない。
あれ?
私もサミュエルの方へと顔を向けると。
サミュエルは呆然と立ち竦んでいた。
「どうしたの、サミュエル」
サミュエルへと声をかけるが、私の声は全く届いていない。サミュエルはフラフラと人にぶつかりそうになりながら、先程の店へと向かって行く。
思わず私とテオドール様は互いに顔を見合わせ、首を傾げてしまう。
「とりあえず追ってみるか」
「えぇ」
私たちはサミュエルの後を追い、テントの前へ進む。そしてサミュエルの後ろに並んだ。
当のサミュエルは、豆を何個か確認しているようだ。
すると、突然サミュエルは急にガクッと力が抜けたように倒れ込む。辛うじて両膝、両手を地面につけて体を支えているようだ。
「わっ!」
その急な行動に私は驚いてしまい、思わずビクッと肩が上がる。
「おい、サミュエル!」
「ど、どうしたのかしら?」
何が起きたかはわからないが心配になり、サミュエルの様子を見ようと覗き込む。
すると、サミュエルはボソボソと何かを呟くように口元を動かす。
「どうしたの?聞こえないわ」
「⋯⋯ず⋯⋯き⋯⋯いず⋯⋯ようやく⋯⋯」
「え?」
「大豆、小豆!」
「え?」
「何故ここに⋯⋯ようやく⋯⋯ようやく会えた⋯⋯ようやく」
またテオドール様と顔を見合わせてしまう。
「ダイズ?」
「アズキ?何だそりゃ」
「行き別れた兄弟に再会した、みたいな反応ですね」
「あいつ、肩震えてるぞ。泣くんじゃないか?」
「⋯⋯よっぽど会いたかったのかしら」
サミュエルのただならぬ様子に、顔は引きつり、つい一歩後退りしてしまう。
ちなみに、その行動は私だけではなくロジェも半歩後ろに下がったのを横目で確認した。
一体どういうことかしら。
ダイズもアズキも何だかわかないが、もしかしたらここにある商品のこと?
「えっと⋯⋯買っていきたいのかしらね」
「はぁ⋯⋯ラシェル嬢、ここは俺が見とくからロジェ連れてその辺眺めてきていいよ」
テオドール様は深いため息を吐くと、未だ「麹⋯⋯あと麹が必要⋯⋯味噌?いける?マジ?⋯⋯えっ、餡子?⋯⋯これ現実?」などと自分の頬を抓りながら呟いているサミュエルを遠い目で見つめている。
うーん。確かにこの様子だとまだまだかかりそうね。
この状態のサミュエルを残しておくのも心配だけど、店の前にずっと大人数でいるのも迷惑よね。
「えーと、いいのでしょうか」
「この分じゃ当分ここを離れることはないだろうな。とりあえず、回ってきたらここに集合で」
「あっ、はい」
「ロジェ、ラシェル嬢のこと頼んだぞ」
「はい、勿論お守り致します」
話を振られていたロジェを振り返る。すると、テオドール様の言葉に深く頷き、力強く返事をしている。
「では、少し回ってきましょうか。ロジェ、付いてきてくれるかしら」
「はい」
後ろ髪を引かれる思いではあるが、実は先程通り過ぎたお茶の店が気になっていた。
そのため、テオドール様の有難い申し出を受け、ロジェと共に歩みを進めた。
あっ、あそこだわ!
紅茶の缶が何種類も並び、他にもガラス瓶の中に色鮮やかなジャムが沢山並ぶ店を見つけた。
とても可愛らしい!サラに買って行ったら喜んでくれるかしら。
その店に進もうと足を進める。
すると、ピンッとスカートを引っ張られる感覚があった。
あれ?
何かに引っかかった?
チラッと視線を横へと動かす。
すると、そこにはスカートを握りしめる女の子がいた。多分、四歳か五歳ぐらいかしら。
茶色の髪を二つに結び、瞳に涙を溜めながらも必死に泣くのを我慢しているようだ。
「どうしたの?」
女の子を怖がらせないように私はしゃがんで視線を合わせる。だが、キツく唇を噛み締めた女の子は黙ったまま。そして、答えない代わりに私のスカートを握りしめる手は更にギュッと強くなった。
「迷子になったの?」
「⋯⋯」
「えっと、誰と来たのかしら。お母さん?」
そう私が聞いた瞬間、女の子は噛み締めた唇を開けて我慢していた涙も目から溢れた。
その直後
「うっ、うっ、うわーーーん!」
大泣きした。
えっ、私?私が泣かせたのよね?
ど、どうしたらいいのかしら!?
「だ、大丈夫よ!大丈夫、きっと大丈夫!」
何が大丈夫かは分からないが、慌てる私の口からはそれしか言葉が出なかった。