22 王太子視点
『領地に戻ろうかと思っています』
マルセル侯爵家から帰宅した後、私はひとり執務室の椅子に座っていた。何をする訳でもなく、ただボーっと座るのみ。
手をつけなければいけない仕事を横目で見るが、やはり積まれた書類に手が伸びない。
ハァ、つい小さなため息が出る。
ダメだ。
顔を両手で覆って瞳を閉じる。
だが、浮かぶのはラシェルの顔だけ。
自分はどうしてしまったのだろう。
未だかつて、こんなに漠然とした不安を感じたことなどない。
領地に戻る⋯⋯か。
彼女にとって良い選択だと思う。
体調が回復してきたことで、やりたいことも出来るようになった。
それこそ、街に出て屋台を巡り、カフェに入り、食堂で好きなものを注文する。
きっと、それらのことはラシェルにとって初めての経験なのだろう。
そして、また瞳を輝かせて嬉しそうな笑顔を見せるのだろう。
そう考えると、温かい気持ちになる。
だが同時に、何故こんなにも胸の奥が苦しく痛むのだろうか。
彼女は、ラシェルは。
領地に帰っても、また王都に⋯⋯私の元に帰ってきてくれるだろうか。
そう考え、思わず力なく首を振る。
いや、自信がない⋯⋯。
自信がないなど、今まで感じたことがない。
足りない所があれば足りるよう努力すればいい。
自分が望まない答えがあるのなら、望むように動かせばいい。
そんな風にしか考えたことがない。
だが、今はその努力もどうしたらいいのかなど分からないのだ。
──コンコン
「シリルです。テオドール様がお見えです」
「あぁ、通してくれ」
執務室のドアをノックする音が聞こえ、椅子の背にもたれていた身体を真っ直ぐへと戻す。
ドアの向こうから聞こえるシリルの声をぼんやりとした頭で聞き、条件反射のように返事をした。
ドアが開き、いつものように黒のローブを纏った幼馴染みが部屋に入室してきた。
こちらをチラリと見ることも挨拶もなく、部屋の中央にズカズカと進んだ。
そして、置かれているソファーにドカッと座り込むと長い足を組んで、こちらに視線を向けた。
するとテオドールは、目を少し見開き口角を上げる。まるで《面白そうなものを見つけた》と言いたげな表情だ。
「へぇ、何かあったんだ。何?お前がそんな顔をするなんて、原因はラシェル嬢だろ?」
「⋯⋯話す気分じゃない」
「うわー、何拗ねてんの。えっ、病なの?恋の病なの?」
テオドールはソファーから立ち上がると私の方向へと進む。私の目の前まで来ると、机に片手をつき、まじまじと私の顔を覗き込んだ。
私はその視線から逃れるように顔を背ける。
「うるさい」
「子供っぽいな。やっぱ遅い初恋だから?」
ニヤニヤと目の前で揶揄うように笑うテオドールに、つい不機嫌な顔つきになる。
だが、こいつの前でそれをどうにかしようとは思わない。
それにしても、初恋か。
初恋⋯⋯そう、確かに初恋だろう。
それを自覚したのは、割と最近だ。
ラシェルとマルセル侯爵家の庭園を散歩した時、私の世界が変わった。
急にモノクロのものが色鮮やかになった。
花々が色鮮やかに映り、空の青さが際立つ。
そして、ラシェルの微笑みに釘付けとなる。
周りの声など聞こえず、ラシェルの心地良い声だけが耳に入った。
あぁ、これが恋というものか。
ストン、と胸に落ちてきた。
だが、その気持ちを持て余したのも事実だ。
あれから、仕事の合間、眠りにつく間際、食事の際、ふと彼女のことが頭を過ぎる。
この本は好きだろうか。
この菓子は好みであるだろうか。
体調は崩していないだろうか。
少しでいい、顔が見たい。
会いたい。
きっと、彼女のことを本当に想うのであれば。
彼女の望む婚約解消をした方が⋯⋯その方が彼女は穏やかに過ごせるのだろう。
王太子の婚約者という立場は、今のラシェルにとって負担でしかないだろう。
彼女は望んでなんかいない。
今までだって、ラシェルが病気になる前は彼女のことを真っ直ぐにも見なかった男だと自分のことを思う。
もっと、最初から彼女自身の良さに気づき、愛するやつはいるだろう。
彼女の望む物を与えることができ、彼女を大切に出来るもの。相応しい者は他にもっといるのだろう。
だが、そう考えてはいても⋯⋯そうしてあげることが出来ない。
離してやれない。
そして、そんな自分が嫌になる。
自分が一番、彼女を苦しめているのかもしれない。
「それで、魔力枯渇の原因を探すのは継続するの?」
「あぁ、それはもちろん」
「俺もその現象は気になるから、今まで通り手伝うよ。でも、闇の精霊について調べる方が先だ」
「そうだな。闇の精霊について、教会がどう発表するかでラシェルの生活も変わる」
「⋯⋯彼女、領地に帰るんだったな」
領地に帰る⋯⋯その言葉に視線を上げ、テオドールの顔を見る。あぁ、知っていたのか。
すると、俺の考えなどお見通しとばかりにテオドールは肩を竦めてみせた。
「今は王都にいるより良いんじゃない?」
「⋯⋯私も良い選択だと思っているさ」
「じゃあ、快く送り出しなよ」
頭がカッと熱くなる。
机に置こうして握り締めた手に力が入り、ドンッと大きな音が出る。
「分かっている!」
「あぁ、お前は分かっているよな。
分かっていて、彼女が離れていくことが怖いんだよな」
机に置いた拳がフルフルと震える。
だが、すぐに力が抜けた。
そして、自分の声とは思えない酷く弱々しい呟きが口から出る。
「どうすればいい⋯⋯」
「笑って送り出しなよ。
それでさ、お前は今まで通り彼女の為に魔力枯渇の原因を探せばいい」
「それはもちろん続けるさ」
「選ぶのは彼女だ。
それでもさ、彼女が困った時に一番先に駆け付けられるよう準備すればいいよ」
その言葉に目線を上げる。
視線の先には、揶揄うような顔ではなく、心配そうに笑う友の顔があった。
「お前、良いやつだな」
「あぁ、俺もそう思う。自分みたいなやつがいれば結婚するのにって」
その言葉にハハッと笑い声が漏れた。
「そうだな。でもお前の言う通りだよ」
テオドールは安心したかのように笑うと、何も言わずに一つ頷いた。
「とりあえず、ラシェルの護衛に私の手の者を一人追加するよう侯爵に頼むよ」
「は?」
「だってラシェルが危険な目にあった時、それが分からなかったらすぐに助けられないだろ?」
私の言葉に目の前のテオドールはポカンとした顔をしている。
何を呆れた顔をしてるんだ?
でも、そうか。そうと決まったら、選定をしなければ。
かなり腕の立つ者でなければいけないな。
あいつにしようか、それともあいつか。
何人もの候補を頭の中で思い浮かべる。
その様子を未だ呆けていたテオドールは、ふと我に返った様子でハッとした表情をする。
そして、また腹を抱えて笑い始めた。
「ハハッ、そうだな。それがお前だわ」
「⋯⋯なんか失礼なやつだな」
そうだな。
とりあえず、彼女の世界が更に良いものになるように応援しよう。
そして、未だ消えない不安からは⋯⋯とりあえず目を逸らす。
やらなければいけないことなど山積みなのだ。
だが、ラシェルが領地に行く前にしておかなければいけないことが一つあるな。
その事に気づいた私は、テオドールが帰ったらまずラシェル宛に手紙を書く事を決めた。