魔王の玉座と丸くなった猫
古城ヴァレンタイン城。
断崖絶壁の上に立つ格式の高さを伺わせる石レンガ造りのこの城は、その城自体が纏う邪悪な魔力によって過去幾度となく魔王降臨の際に魔王城として使われたいわく付きの城である。
城はその強大な魔力によって魔王を助けその力を極限まで高める力を持っているが故に、降臨した魔王はこの城に居を構える事が通例となっていたのだ。
何人もの勇者、英雄達が魔王との死闘を繰り広げたこの城は未だに作られた当初の姿を残していた。
これだけ危険な城である。人々がその存在を許す事があるはずもなく、過去幾度にも渡って人々はこの城の取り壊しを試みた。
しかし、城の纏う魔力によってその城壁はおろか調度品の一つに至るまで破壊する事は叶わない。
次第に取り壊そうという者もいなくなり、城の事は次第に忘れられ放置されるのが常の事であった。
魔王が出現した時だけ、魔王城として脚光を浴びる城。
最後に魔王が出現してからすでに二百年あまりが経過している事もあって、人々は平和という美酒に酔いしれ魔王城の事など完全に忘れさっていた。
そんな忘れられた城。
魔王なき魔王城の現在の主となっているのは――。
「にゃーん」
魔王城の深奥。
玉座の間と呼ばれる部屋には、茶トラから白、黒、灰、三毛に至るまで多種多様の猫達が思い思いの体勢でくつろいでいる。
見渡す限りの猫、猫、猫。
魔王が倒されてからの二百年の間に、すっかりと猫が住み着いてしまい魔王城は猫屋敷へと姿を変えていた。
◇◆◇
全くこいつときたら。
魔王城の一番奥に置かれている魔王の玉座と呼ばれる、金細工の施された優美な姿をみせる豪奢な椅子は怒っていた。
理由は城に住み着いた猫である。
最初は一匹のみすぼらしい猫だった。
城に足を踏み入れた今にも死にそうな猫を玉座は気まぐれに城の魔力を使って回復してやった。その時にはすでに直近の魔王が倒されてから百年と数年が経過しており、魔王が降臨する気配も一向にない。
誰も足を踏み入れる事のない古城は正直に言えば体温に飢えていた。
それ故に、久方ぶりの客人である傷ついた猫を必要以上に歓待してしまったのだ。
室内は猫が好むように温かくし、毎日フルコースを振舞い、天蓋のついた豪奢なベッドを寝床として与えた。
城を体とするならば玉座は頭脳である。
城の全てを管理している玉座にとって、それは造作もない事だった。
しかし、それがよくなかった。
ある時、気がつくと城の中の猫が二匹に増えていた。
そして、また気がつくと城の中の猫が四匹に増えていた。
しばらくしてから確認すると、四匹だった猫は二十四匹に増えていた。
それから数年すると、猫は百匹に増えていた。
今となっては数える事もめんどくさい。
いつの間にか城の中は猫の居ない場所を探す方が難しい程だ。
猫達は食べ物を食い散らかすし、そこら中で爪とぎはするし、若い猫とならばすぐにじゃれあってそこら中を駆けずり回る。
いくら魔法で簡単に城の中は片付けられると言っても限度というものがある。
猫達が来てからというもの城の中は毎日が運動会だ。
もはやかつての魔王城と恐れられた面影など欠片もなく、ここまで毎日が騒々しいとかつての静寂が恋しくなるというものだった。
とはいえ、まだそれはいい。
確かに猫達の暴挙は目に余るが、そこはまだ我慢できる。
玉座が怒っているのは、一匹の茶トラの子猫の事だった。
玉座は自分の上に乗って丸くなってスヤスヤと寝息を立てている茶トラの子猫に、意識を集中する。
まだ生後三ヶ月といった所だろうか。
幼い姿ながらも身体能力はかなりのものがある。
まさに遊びたい盛りのやんちゃ者である。
そして玉座の上が気に入ってしまったらしく、あろう事か玉座の上を寝床にしてしまったのだ。昼寝をする時も、夜眠る時も玉座の上に飛び乗っては丸くなって眠る。
実の所、これだけ城内に猫がいながら玉座の上に乗ってくる猫というのは一匹もいなかった。おそらく猫といえども玉座が纏う邪気を無意識に感じ取っていたのだろう。
何しろ玉座は本来魔王が座るべき椅子である。それが纏う邪気、魔力は城内の他の家具や調度品の比ではない。座っただけで魔王の力は数倍にも増し、城の魔力の恩恵を最大限に受ける事が出来る。
それ故に、この玉座の間は常にこの魔王城における最終決戦の場であったのだ。
獣ほどその手の事には敏感だ。
玉座の品格の高さを無意識に自覚し、敬意を払っているのだなと感心していたのだが。
「にゃぁ」
玉座の上で茶トラの子猫が寝返りをうつ。
この茶トラは、まったくそんな事はお構いなしだった。
玉座に飛び乗ってきたかと思えば、張ってある布で爪とぎはするわ。肘置きは齧るわ。お漏らしをされた事だってある。
当然魔法で即座に修復したが、魔王の玉座でお漏らしをするなど言語道断であろう。
おい、聞いているか茶トラよ。
「みゅぅ」
茶トラの口元から垂れた涎が、玉座に張られた布に染み込んでいく。
ふむ、聞いていないようだ。
茶トラよ、ご飯の時間だぞ。
玉座が食堂のベルをリンリンと鳴らすと、茶トラはパチリと目を開いて玉座から飛び降りると食堂へと掛けていった。
なんという現金な猫であろうか。もう茶トラの事など知らぬ。と玉座は嘆息するのであった。
それからしばらくしての事だった。
いつもなら食後の昼寝に来るはずの茶トラが姿をみせなかったのだ。
どうしたのだろうかと玉座はやきもきするが、すぐに茶トラが来ないなら椅子に毛がつかなくて好都合ではないかと思い直す。
クリーニングに使う魔力も馬鹿にはならないのだ。汚れないなら汚れないに越した事はない。
しかし、その次の日になっても。その次の日になっても茶トラは姿をみせなかった。
いよいよ、玉座は不安な気持ちになってきた。
そこの白猫よ。茶トラを知らぬか。
「にゃー」
目の前で玉座を見つめていた白猫に訊ねると、やや高めの鳴き声が返ってきた。そう言えば、この白猫はあの茶トラの母猫ではなかったか。
もしや茶トラの身に何かあったのか。
玉座がどうしたのかと訊ねても「にゃー」と返事を返すばかりで埒があかない。はやる気持ちを抑えながら玉座は意識を研ぎ澄ますと、城内の隅々にまで視界を広げていった。
玉座にとって城内など体内も同じ、その気になればどこでも見る事が出来るのだ。
どこかで怪我をしたか、排水溝に落ちたか、それとも城壁から足を踏み外したか。
玉座は城内の隅々まで視界を広げていった。
そしてついに茶トラを見つけた。
見れば、茶トラは応接室の椅子で眠っているではないか。
なんという事だ。この魔王の玉座という極上の椅子がありながら、他の椅子に浮気するなどとは。玉座は歯噛みした。
魔王の玉座として生まれてこの方、彼は自らこそが極上の椅子であるという自負を持っていた。それが一匹の子猫によって踏みにじられたのである。
それから玉座は来る日も来る日も茶トラの事ばかりを考えた。
肉体改造にも取り組み、より猫が心地よく眠れるように布を替えてみたりもした。
そして数日が経ったある日、茶トラは何食わぬ顔で玉座に飛びのってきたのだ。
その時の玉座の歓喜の程はまさに天にも昇る気分であった。
しかし、玉座は悟られぬように平静を装いながら自らの上で眠る茶トラを見守る。
茶トラはすりすりと口元を玉座に擦りつけたかと思うと寝返りをうった。すでに玉座の上は猫の毛にまみれている。
いつもなら文句の一つでも言う所だが、今日は気分がいいので許してやろう。
しかし、このふてぶてしさ。まさかこの茶トラが次代の魔王という事はあるまいな。
いや、さすがにそれはないだろう。
玉座は即座に自らの思考を振り払うと苦笑する。
「うにゃぁ」
茶トラが気持ちよさそうに丸くなる。
まったく随分と振り回されてしまった。猫とはなんと自分勝手な生き物なのだ。
そう言いつつも、玉座の心は晴れやかだった
次の魔王が現れるまでは、しばらくはこの茶トラが仮の魔王という事にしておこう。
丸くなった猫を抱きながら魔王の玉座は密かにそう思うのであった。
◇◆◇
「にゃーん」
断崖絶壁に立つ古城ヴァレンタイン城。
幾度も魔王の居城となった魔王城からは、今日も賑やかな猫の鳴き声が聞こえてくる。