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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』肆ノ章 恋煩い(承前)③

  ⑩ 日向鶴来


「……そうか、無理もないな」

 薄暗い廊下の陰で、僕からの報告を聴いた俊輔は暗鬱な声で言った。弥四郎は抜き身の刀を引っ提げたまま立ち、こちらに(さわり)が来ないか見張りを続けているが、彼の顔もまた陰気に淀んでいる。

「お胡尹、大丈夫かな?」

 僕は、彼女が駆け去って行った(かわや)の方を見る。彼女はまだ僕の着物を身に着けているので、他の客が用を足しに来ても顔をまじまじと見られたりしなければ外見的には正体が露見する恐れはないだろう。

 だが今、この「夢遥かの世界」の主観となっている雪さんが真っ先に排斥したいと望んでいるのは、彼女なのだ──。

「少しそっとしておいてやろう。大丈夫、魔と戦うような状況になれば、どんなに落ち込んでいてもあいつはちゃんとやる。のほほんとしているようで、そういうところはしっかりしているんだ、お胡尹は」

 俊輔は寂しそうに(わら)った。


 心渡りを終えた時、僕とお胡尹──正確には僕の心が同居したお胡尹──と顔を合わせていた雪さんは錯乱状態となった。突如暴かれた深層意識の記憶に、目の前で幼馴染のお胡尹を名乗る少女の姿があった事、それが否定しようもない事実であるという事は、誰よりも彼女自身が分かっていたからだ。

 しかし、彼女にとってこの夢の世界には──お胡尹も朝直さんも、存在するはずのない者たちだったのだ。その矛盾が、彼女の精神に多大な負荷を掛けた。それ程、この「二人が居ない」という事は夢の大前提だったのだ。

 ──最初からお胡尹と猛が居なければ、自分は彼らと自らの狭間で呻吟する必要もなかったのだろうか。

 記憶の中の雪さんの心理には、確かにそのような思考が含まれていた。当然、彼女はそれを、僕が幻月を憎むような表層意識の気持ちで感じていた訳ではない。むしろ彼女は、その思考を必死に打ち消そうとしているかのようだった。

 だがそれは、どうしようもない程に雪さんの”(うら)”の願いだった。それが反映された結果、この「夢遥かの世界」には仮想体(ゆめまぼろし)としてのお胡尹と朝直さんが存在していない──そう考えれば、一応筋は通る。

 そして、僕には誤算があった。

「ゆっちゃん……嘘だよね? お願い、嘘って言ってよ……」

 お胡尹は、僕が彼女の肉体に戻るや否や呆然とそう呟いた。

 他者の心と語り合うという本来の性質上、他人の肉体に宿っている間、僕の心は完全に剝き出しの状態となる。それは、僕が雪さんの心から持ち帰った報せ、そしてその内容から推測出来る僕自身の考えが、直接的にお胡尹の心に流れ込むという事を意味していた。

 お胡尹は全てを知る事となった。自分には記憶がない、苛烈な夢患いの制御訓練の果てに心を失ってから、雪さんたちと仲良くなるまでに何があったのかを。事故とはいえ、自分が父親を焼殺してしまっていたという事実を。京に行った雪さんと朝直さんが背負った運命を。

 そして──自分たち三人の絆の終わりを。

 錯乱する雪さんが魔を生み出し始めた時、僕はこれ以上彼女と接触を続けるのは危険だと判断し、お胡尹には内心で詫びながら体の主導権を簒奪して部屋から逃げ出した。(かわや)に立つ振りをして廊下を堂々と移動しながら俊輔と弥四郎に矢文を送り、彼らには裏口から早蕨(さわらび)屋の店内に潜入して貰った。

 最初に、最も採るべきではないと考えていた手段だった。結果的に、事前の予想通り用心棒や見かじめの香具師(やし)を大量の魔に化さしめてしまった。

 騒ぎが広がる前に弥四郎の「時柵(ときしがら)」でそれらの動きを止め、僕たちは店内を隠れながら移動した。万全を期すのであれば一旦外に出て仕切り直すべきだったが、そうすればその間にも魔は増殖を続け、再び店に入って雪さんに会うのは困難になる。何としてでもこの一回で彼女の夢惣備(むすび)を成功させるのだ、という目標は、状況がどれだけ悪く変じても、僕の中でも、俊輔の中でも揺るがなかった。

 そしてつい先程、俊輔に運ばれていた元の体に僕が戻った後、体の主導権を取り戻したお胡尹は泣きながら駆け去ってしまった。

 それを迂闊だと責める事は、誰にも出来なかった。


「猫(だま)しか……最初はそんな媚薬めいた法、手にして喜ぶ者の方が多いのではないかとすら思ったが、知れば知る程因果だ」

 俊輔は独りごつと、例によって涙声で一部始終を語り終えた僕に「ありがとう」と言った。「毎度(つら)い思いをさせる。だが、色々と分かった」

「今回は明確に、幻月は雪さんを狙って行動したんだね」

「ああ、彼女の猫瞞しは男女の交合に直結する法。霊能者の交配という『夢遥かの世界』の従来の目的からすれば、高天原たちも是非とも確保したい能力ではあったんだろうな」

「雪さんが、五歳まで成長速度が著しく遅かったというのは?」

「それも、猫瞞しの性質によるものだろう。彼女が例の『凄まじい恐怖の体験』をするまで法に気付かれなかったのは偶然ではない。そういう事になる危険を回避する為の(ことわり)的な辻褄合わせだったんじゃないか」

 俊輔の言葉は、普段より遥かに聴き取りづらかった。

 共に戦ってきた仲間があのような状態なのだ、正直なところ僕も泣き出したい。普段から徹底して──時には冷徹ともいえる程に──現実主義者の彼でも暗くなる事は無理もないが、話しているうちに僕は段々違和感を覚えてきた。どうも、俊輔が落ち込んでいるのはお胡尹への同情だけではないような気がする。

 彼は──自身を責めてはいないか。

 僕には、彼の態度からそのような意味合いが感じられた。

「あの、俊輔……」

 僕が言いかけると同時に、彼は「銀券騒動の事だけど」と言った。

「嘘のような話だが、実際にあった事だ。言うまでもないが、俺はその当時まだ天照寮に居た。これは近年、太政官による執政が(まず)くなっている事を示した事例の代表格として神祇官の間でも取り沙汰されていて、俺の耳にも当然入っていた。……本来であれば太政官と神祇官は、権力闘争などやっている場合じゃないんだ。それは、確かに朝廷をも操る天照道は意図的に全土に百鬼連をばら撒いて、民をその毒や恐怖で縛りつけている。それでも俺は、たまたま祭祀を司る役割として天照寮に居ただけであって、殊更(ことさら)に神祇官側の人間だった訳じゃない。そもそも神子は、どの派閥にも属さないんだから」

「お前だったら、太政官たちにも容喙出来たと?」

 弥四郎はずっと緘黙(かんもく)していたが、ぼそりと厳しい声色で口を挟んだ。

「俺に悲観的になるなと言っておきながら、お前がそんなどうにもならない事を後悔してどうする?」

「弥四郎、俺は」

「お前が気付かなかっただけで、あの高天原は当時から天照寮に居た。神子とはいえ元は呪祷官だったお前が、その桎梏から自由になれたとは思えない。どだい無理な事だったんだよ、それは」

「そんな言い方──」僕はつい彼を窘めようとしたが、

「悪意はない」弥四郎は素早く遮った。「喩えの話だが、俺たちは過去を変えられるか? 死んでしまった者たちを生き返らせられるか? 当然出来ないが、それは当たり前の事だ。恥も責めも、殊更に負う必要はない」

「……そっか」

 僕は、彼の言おうとしている事を理解した。俊輔はまだ自責の言葉を口に出す以前だったが、僕はそれを口に出させないよう彼の背に手を置いた。

「弥四郎の言う通りだ、俊輔。雪さんの猫瞞し、佐武公胤重の失策と失踪、花の病の事、色々不幸はあったけど、お胡尹たちの運命を狂わせたいちばんの要因は奥州凶作だった。天災だ、俊輔が気に病む必要はない」

「……そう思うか?」

 彼は微かに笑ってから、「すまない」と言った。「身内の事で、精神が脆くなってしまった」

「気にするなよ。それよりも、夢惣備を完遂させなきゃ」

 自分で言い、僕は「そうだ」と思う。ここで雪さんの魂を救えなければ、彼女たち三人の出会いは本当に悲劇だったという結論で終わってしまう。だが僕はやはり、千与さんや兵部さんの時と同じく、彼女の記憶の中で見た事が出来事の全てではなかったような気がするのだ。

 ──雪さんの願いは本当に、お胡尹と朝直さんとの出会いをなかった事にしたいというものだったのか?

 ──朝直さんは、本当に雪さんへの想いを病と共に失ったのか?

 後者の疑問に関しては、そうは思えない、というのがほぼ確信的だった。それでは彼が最後に客として雪さんと会ったのよりも後に、彼が早蕨屋襲撃の報せを聞いて彼女を必死に逃がそうとした事の説明がつかないように思う。

 僕は考え、幾つか確かめねばならない事がある、と胸裏で呟いた。

 その為にはお胡尹と話さなくてはいけないが──。

「本当に、大丈夫かな……」

 僕は、彼女の駆け去って行った暗がりの方に視線を向けながら独りごちた。その独白は口の中に(わだかま)り、舌先で微かな苦味を持った。

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