『夢遥か』参ノ章 天読み(承前)⑰
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琴が、天読みの真実と陸姫の死にまつわる一部始終、そして辰彦の”血の名誉”回復の計画について共有し、同志となったのは二人の夫である景吾、蔵人、彼女の傍に仕える呪者の巍城、そして国家老の采女だった。
采女に関しては琴の強い推しによって同志に加えられた者で、血統書の著述を行う上で味方にせねばならず、また戦で他の皆が城を出ている時、様々な事を取り仕切る彼とは事情を共有しておいた方が良いという事だった。辰彦も別段不服がある訳ではなかったが、自分を牢に入れた彼を心から同志として認められるようになるには暫し掛かりそうだと思った。
無論、この計画の主旨が琴への復讐にある──その事は彼女本人と巍城以外には伝えられていないが──以上、皆を本来使うべき意味で”同志”などと呼べる事はないのだが──。
しかしまた、辰彦は采女に限らず琴を取り巻く男たちに関しては一様に狐疑や本能的な嫌悪感を感じざるを得なかった。その狐疑とは、琴がきちんと自分と交わした約束通りに貞節を守っているのか、という事だった。
采女は既に老齢に差し掛かっていたので、その点に関しては心配要らないと思っていた。だが、役柄上の夫たちはともかく、まだ四十になったばかりで、妻子も娶っておらず、呪者の身分であまりに琴に献身的な巍城は気になった。
思えば思う程、彼は「榛名家」ではなく琴個人を主人とし、それどころか主従関係を越えた慕い方をしているようだった。常に夫たちと共に彼女と行動し、彼らが居ない所で辰彦が彼女に毒を吐く度本気で怒るように窘めた。
ある時辰彦は彼と二人きりになった時、身の潔白を証明する為に誓約をしては貰えないか、と、直接彼に詰め寄った。
その際巍城は、業を煮やしたように辰彦に言った。
「あれ程縛めて尚、あなたに未だに榛名家の男児という矜持がおありならば、見苦しい嫉妬はお控えなされよ」
「嫉妬?」
それは辰彦にとって、言葉の綾として看過する事の出来ない台詞だった。自分が琴の肉体を貪るのは、彼女を辱める為に他ならない。それを、自分が彼女から心をいいように弄ばれているような言い方をされる事は我慢ならなかった。
その上、それを発したのは巍城だ。景吾たちと同じではなく、自らの彼女への怨恨を明確に認知している彼である。辰彦には、その言葉の使い方があまりに陰険な、皮肉めいたものに感じられた。
「心外ですね。姫様が淫奔な女になられる事が、臣下として見過ごせぬだけですよ」
皮肉には、皮肉を以て報いた。巍城は無言で辰彦を見た後、「私には今一つ分からぬのです」と言った。
「あなた自身の恨みは措いて、我が問いにお答え頂きたい。あなたは姫様を、どのような女子として捉えておいでなのです? 姉妹としてですか? それとも、妻にし得る外女としてですか? 殊更にあなたのみの事を申し上げようとしているのではございませんよ。ただ、多くの場合姉妹に対し淫心を催す事はないでしょう。どれだけ女としての美しさを理解出来たとしても」
「そう仰るあなたはどうなのです、巍城殿? 主従とはいえ、あなたは宇角の男。私などよりもずっと、彼女を外の女と認識し得るはずだ」
辰彦がそう言った時、彼は急に黙り込んだ。
それは、自分が論破したという事ではないようだった。彼はやや睫毛を伏せ、何かを口にすべきかどうかを逡巡するように間を置いた後、再度開口した。
「私としても、忠義を疑われては黙ってもいられません。故に打ち明けます。……私は、女を愛する事が出来ません。我が師であった宇角鳳輦殿が石蕗の君に奉仕されていた頃、私は綾姫様専属の臣でありました。綾姫様は私のその事を知るが故に、琴姫様の傍に居る事を許されていたのです。彼女の亡き後も私の忠義は琴姫様にのみ捧げられ、それは変わっておりません。その事を証明する為、男のものも切除しておりますれば」
その告白は、少なからず辰彦に衝撃を与えるものだった。
辰彦は直感的に、巍城の言葉が真実であるという事を悟っていた。琴が嫡家に迎えられた時に便宜を図った彼は、その時既に先代から当主に仕える立場を委譲されていたが、もしも辰彦に相伝の法が受け継がれていたとしてもその真の忠義は琴に向けられていたのではないか。そう考えさせられた。
「では、何故あなたは」
咄嗟に言葉を取り戻し、辰彦が口に出来たのはその問いだけだった。
「あの夜、私を助けたのです? 風聞の恐ろしさはあなたもお分かりのはずだ、私が生きて、命を顧みずこうして舞い戻って来る事が、琴姫様の立場を危うくするものだとは考えられなかったのですか?」
「……私の口から、申し上げる事は出来ませぬ」
「そうやってあなたは、いつも万事を自らの中で完結させようとする」
辰彦は吐き捨てた。巍城は「しかし」と付け加えた。
「私は姫様が除くべき隘路と定めたものならば、力を尽くしてそれを除きます。あなたが今こうして生存を許されているのも、ひとえに姫様の意思でありそれに背馳するものではございません。ゆめゆめお忘れなきよう」
彼はそれだけ言い、馬鹿げた話はもう終わりだとばかりに立ち、部屋を出て行こうとした。
「しかしそこに、あなた自身の意思があるとすれば!」
辰彦は懸命に彼の背に声を掛けた。
「そこまで綾姫の忘れ形見に尽くそうという気持ちこそが、あなたが綾姫に役柄を超越した心の抱き方をしていた証左なのではありませんか?」
「……勝呂殿。あなたは、そのようにしか人同士の結びつきを信じる事が出来ないのですね」
彼は敷居を跨ぐ直前で足を止め、こちらを振り返った。そこに浮かんでいた表情は怒りというより、憐れみのようだった。
「可哀想なお方だ」
* * *
秘密を共有する同志の中で、辰彦はやはり自分は疎外されて然るべき人間なのではないか、と思う事があった。
天読みの血脈を、人知れず嫡流に戻す為の同志。表、律の側から見れば、それが成し遂げられる前も後も何ら変化はない、記録にすら残らない活動。しかしそれが辰彦自身の琴への”悪意”から始まり、彼女と巍城を楔に景吾、蔵人、采女を結びつけていると考えれば、辰彦のみが疎外感を感じるのは当然の事ではあった。自分が彼らと真に同志で在ろうとした時とは、彼らが辰彦の”悪意”を知る事になり、明確に敵となる時を意味していた。
辰彦は、なるべく琴自身の月の巡りを把握して媾うよう努めていた。琴は最初に自分に対して体を開いた時から、およそ生娘とは思えぬ執拗さを見せ、辰彦は少なからず驚かされた。同じ力で、しかし男としての肉体的な力にものを言わせて、彼女の調子に取り込まれぬようにと意識してその肌身を貪る中で、思いがけず自分の選んだ道の峻厳さを思い知った。
──何かが足りない。
喩えるのならば、肺腑に痰が落ち込みながら、咳をしても手応えがないような感覚だった。力一杯尽くしてもそれにどうしても空虚感が伴い、次もまた同じ感覚が伴う事を承知していながら繰り返さねばならないような。
無論その足りない何かとは、本来在るべき愛情などという恥ずかしいものではないだろう。端からそのようなものを琴に与えようとは思っていなかったし、彼女からそれを得ようとも思っていなかった。
その正体の知れぬ空虚感は、六人の”同志”の中で否応なく味わう疎外感と似ていた。寂しさ? それを表白したい訳でもないはずだが──。
年が明けて間もない頃、朝廷で「神呼ばいの儀」が行われる睦月晦日を過ぎ、如月の上旬だっただろう、一人の神祇官が琴を訪って来た。天照寮からの遣いという事は当然、用は駿河領主としての彼女にではなく、「占縁の宮」の宮司としての彼女にあるはずだった。
琴はその遣いとの面会に於いて、その頃既に表向きは懐刀として通っていた辰彦に外すように言い渡し、それとなく采女に目付けを頼んだ。采女はあからさまに、自分が監視している事をこちらに示唆する形でそれを実行した。
結局、神祇官と琴が何について話し合い、どのような結論に至ったのかは分からずじまいだった。
会見が終わり、庵原の城を後にする時、神祇官は琴の命令で見送りにやられた辰彦にだけ聞こえるような声で言った。
「おぬしは果報者よな」
辰彦が何を言われたのか咄嗟に分からず、聞き返す暇もないうちに彼は立ち去って行った。
それは心からこちらを羨んで言っているようにも、皮肉であるようにも受け取れる言葉だった。琴が彼に、辰彦に関する事を何か言ったのではないか、と推測したが真意は明らかにならないままだった。
采女が離れた後、辰彦は密かに琴と巍城の話す声を聴いた。
「よくぞ、訴えを通されました。ご立派であらせられましたよ」
「ありがとう、巍城。……これで、良かったのですよね?」
「ええ、あとは天照寮の返答を待つのみ。しかし、油断なされるな。事と次第によっては、天照頭・物部堅塩が敵になるやもしれませぬ」
「分かっています」
その時の琴の声には、いつも辰彦を遇い、近い者たちに戯れ掛かるような軽佻浮薄な調子はなかった。極めて真面目で、かつ自分には決して見せる事のない憔悴めいたものまで感じられた。
「覚悟は出来ていますわ。けれど、兵部はこれで私を許して下さるでしょうか?」
「姫様が、そこまでお憂いになる必要はございません。このような状況になるまで収拾をつけられなかった責任は、私にも」
「あなたもよく、私に色々と尽くしてくれましたわね」
「何の。亡き綾姫様の遺志にござりますれば」
「お母様、ですか」
琴は、母上、という呼び方はしなかった。
「あまり、お母上様をお恨みになられませぬよう。姉妹のようにご成長あそばされた陸姫様を欺く事になると、綾姫様が迷われなかった訳ではありません」
「ええ……しかし、心ばかりはどうにもなりませんもの」
「ならばこの巍城の事も、お恨みですか?」
「………」
彼女は真剣な声色の巍城に数拍黙り込んでから、
「ほんの少しだけ、ね。勿論、有能な腹心であると思う気持ちにも、変わりはありませんけれど」
穏やかに言った。巍城のほっと息を吐く音が聞こえた。
「安心致しました」
辰彦はそれ以上を聴かず、静かにその場を後にした。一体何があったのか及びもつかなかったが、何かが胸奥でずきずきと疼くようだった。
寂しさではない孤独感か、と思った。