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夢遥か  作者: 藍原センシ
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『夢遥か』参ノ章 天読み(承前)⑬


          *   *   *


 林の中、移転された(やしろ)の跡地と思われる潰れかかった建物の、雷にでも打たれたかの如く真ん中にひびの入った(きざはし)に腰掛けているうちに、父との刀合わせで(ほとぼ)った体が冷まされていった。

 半ば土に埋没した石畳の枡目を例によって数え、木々の影が方向を変えるのを眺めているうちに肌寒さを覚えてきたが、堪えた。意地でも、自分から皆の所に戻る気はなかった。誰も来ないならば、本当に自分は家の中で要らない存在と見做されたという事だろうと考えた。

 階の亀裂を挟み、反対側の隅の方に浮浪者と思われるぼろぼろの身形(みなり)をした人間が座り、三角に立てた膝を抱えてその谷間に額を(うず)めていた。

 着物の前が開かれている分、熱はどんどん奪われた。空は俄かに曇り、木々が伸ばす影が薄らいで次第に見えなくなる。雪が降るのだろうか、と思い、このまま日が暮れたらどうしようと不安になった。

 そうなれば凍死してしまうのではないか、という不安と、凍死するのならばしてしまえ、という自暴自棄な気持ちが心中で同居していた。

 砂利を踏み締める音が近づいてきたのは、何刻の後だっただろうか。その足音はある程度まで近づくと、急に速度を上げてこちらに寄って来た。辰彦が顔を上げずにいると、

「辰彦、帰りましょう」

 琴の声が頭上から掛けられた。仰向くと、果たして彼女が立っていた。

 辰彦はやや(しば)し彼女を見上げた後、「嫌だ」と視線を逸らした。

「わしが目障りなら、殊更(ことさら)に構わなければいいのだ」

「あら、私はあなたの事、目障りだなんて思わなくってよ。父上は確かにやりすぎ感が否めなかったけれど──」

其方(そなた)が彼を父上などと呼ぶな!」

 辰彦はつい声を荒げてしまった。琴ははっとしたように身を引いてから、声を掠れさせる。「ご……ごめんなさい……」

 彼女の思いがけない反応に、辰彦は慌てた。自らの言動が完全に彼女に対する八つ当たりだという事を悟り、深く恥じ入ると共に自らを(いきどお)ろしく思った。だが、素直に謝るのには歪んだ矜持が邪魔をした。

「其方は何故、わしに構うのだ? 放っておけば良かろう、わしは出来損ないで、ただ(いたずら)に母の胎を(すりへ)らし、榛名の禄を食むだけの(ごく)潰しじゃ。其方も、かかずり合わぬ方が奇異の目で見られずに済むぞ」

「何故と言われても……私、あなたをきょうだいだと思う気持ちを捨てる事は出来ませんわ。辰彦が好きなんですもの、しょうがないでしょう」

「冗談も休み休み言え。それは、憐れみか?」

「憐れみ?」

「其方、自らがわしのように、皆に疎まれていればわしに関わったりはせぬのだろうが。わしより優遇されて、ちやほやされておるから、犬に餌でもやるくらいの気持ちでわしに絡むのだろうが」

「やれやれ、すっかり毒が回ってしまっていますのね」

 琴は、心底困ったように息を()いた。

「嫌よ嫌よも好きのうちとは言いますけれど、それとは真逆ね。私は本当にあなたが好きなのに、どうしてそう臍曲がりな取り方をするのかしら。それじゃあ本当に好きな時、何と言ったらいいのか分かりませんわ」

「いい加減にせねば、この太刀で斬ってくれるぞ。もううんざりだ、あんな家がどうなろうと知った事ではないわ。其方を斬ってわしも死ぬ」

 面倒臭くなって乱暴に言った時だった。

 (おもむ)ろに、階の向こう側に座っていた浮浪者が呻いた。眠っていたところを起こしてしまったか、と思い、咄嗟に口を噤む。しかし、次に起こった事は辰彦が予想だにしなかった事だった。

「ウウウウウ……アアッ!」

 ()()は緩慢に頭を持ち上げつつ唸り、首を有り得ない角度に曲げて辰彦と琴の居る方を向いた。その肌がどす黒く半分腐りかけ、綻びた綿のようになっている様に、胸郭の内側で心の臓がざらりと顫動する。()()は赤い双眸を爛々と輝かせ、急に素早い動きで宙空を舞い──飛び掛かって来た。

 浮浪者などではない。

「怨霊!?」

「お琴、下がっていろ!」

 咄嗟の事だった。辰彦は立ち上がり、琴を突き飛ばすと、彼女の前に立ち塞がって刀を抜く。妖はこちらが無防備な子供だと思い、油断していたのか、抜き放たれた刀を見て空中で動きを止めた。

 辰彦から一(けん)程離れた場所に着地する。姿勢を低め、威嚇するように唸りつつ歯をガチガチと鳴らす。

 本能的な恐怖が心に萌芽した。正段の構えを維持し、切っ先で妖を牽制する。

 背中に隠れた琴が、怯えた声で辰彦の名を呼んだ。辰彦は「大丈夫だから」と彼女に囁きつつ、顳顬(こめかみ)を伝う汗を感じる。

 次にどうすれば良いのか、判断がつかなかった。

 刀を抜いた瞬間、相手が警戒して攻撃を中止したのは幸運だった。だが、膠着状態をいつまでも続ける訳にも行かない。そう思いながら辰彦が動けないでいるのは、こちらが先に攻撃に出、剣の素人であると見抜かれる事で、(かえ)って敵に積極的に襲い掛かっても問題のない相手だと気取られてしまうのを恐れる為だった。

「お琴、忍び足で離れろ」

 辰彦は、視線を妖に固定したまま囁いた。故に、「えっ?」と掠れた声を出す琴の表情は窺えない。

「離れろって?」

「わしの背に身を隠したまま、木立に入り込むのじゃ。そのまま、身を隠しつつ逃げろ。絶対に振り返るな」

「待ってよ、それじゃあ辰彦は?」

「わしの事は心配要らぬ。其方(そなた)の身の方が案じられる」

「ふざけている場合? 怨霊と戦うなんて」

「このような事、ふざけて口に出せると思うか!」

 声を抑えて、しかし()れのあまり満腔の苛立ちを込めて言葉を放った。琴がびくりと震えるのが分かる。辰彦は懇願の口調になり、更に言った。

「逃げてくれ。頼む」

「………」

 琴は息を詰めて黙り込んだ後、

「人を呼んで来るわ」

 そう言って駆け出したようだった。足音を立てぬよう気を配っているのか、踵を上げた草鞋(わらじ)が砂を擦るようなザッザッという微音が耳に届く。

 妖が、気味の悪い動作で体を横に動かした。辰彦の背に隠れた琴がその場を離れようとするのを察知し、丸腰の彼女が自分から離れれば狙いやすいと考えたらしい、飢えた者が食物を前にしたかのように、蛆の湧いたような口の()をぴくぴくと震わせて涎を垂らす。

 辰彦は、妖の視線から琴を隠すように相手の動きに合わせて摺り足で体を回す。しかし、それで最初に立っていた場所に空間が出来た時、

「ウアッ!」

 待っていましたとばかりに、そこに妖が飛び込んだ。

 爪の伸び、骨張った蛇頭のような指が琴の白い太股に突き立てられる。

「させるかっ!」

 辰彦は一声叫び、刀を逆手に振り被った。宙を滑るように跳んだ妖の腰に刀を突き刺し、背の中央に膝から体重を掛けて組み伏せようとする。が、肉弾戦になれば六歳児の体格が大人の男が変じたらしい怨霊に敵う訳がない。

 妖が体を捻り、関節をおかしな方向に曲げながら辰彦の両肩を掴んだ。歯茎まで露出した牙を鳴らし、こちらの頭を齧ろうとしてくる。辰彦は膝から股にかけてを可能な限り開き、敵の胴を左右から圧迫しつつ両腕を目一杯に伸ばす。怨霊の首を絞め上げ、その牙を懸命に自分から引き離す。

 海辺の(あざ)れたような腐臭を漂わせ、その牙が空気を噛んだ。

 琴は木立に入る直前で振り向き、さっと血色を変えた。

「辰彦!」

「馬鹿っ! 逃げろって言ったのに!」

 毒()き、身を起こして逆に敵を拘束(かため)るつもりで背筋に力を込める。妖は首を絞められたまま目茶苦茶に両腕を動かし、こちらの顔や胸元をがりがりと引っ掻く。断続的な鋭い痛みと共に、頸動脈を切られるのではないかという恐れに膝が浮くような気がしたが、堪えて絞め続ける。

(死んで堪るか……俺が、お琴を守らないといけないのに……)

 そのような思いが膨れ上がり、頭蓋(とうがい)の中で破裂せんばかりに感じられた。

 ぱらぱらと血の雨が降る視界の奥で、琴が目に涙を一杯に溜めながらこちらを見ているのが確認出来た。彼女が、自分などの為にそのような顔をするのを、心底おかしいと思った。

 おかしいと思うのに、自分の目からも痛みや恐怖ではない理由で涙が出てきてしまうようだった。

「誰か! 誰か助けてくれ!!」

 恥も外聞もなかった。辰彦はそう、喉も裂けよとばかりに叫んでいた。

 刹那、

退魔剣(タイマケン)!」

 刀軌の光芒が、空中を(はし)った。それが妖の胴に袈裟懸けに刻まれ、上の部分がずるりと滑る。どさりと辰彦の上から転がり落ちたその体に、何処からか飛来した呪符がびしりと貼りついて黒煙を噴出した。

 ──助かった?

 荒い息の中でそう思った時、突然柔らかな触覚が肩周りに生じた。

 琴が、転がるようにして飛びついて来たのだった。こちらの肩口に(うず)められた彼女の顔から、熱と共に着物に染み込んでくるものがある。

 辰彦が恐る恐る見下ろすと、彼女は顔を押しつけて声を殺しながらも、大粒の涙を零して慟哭していた。辰彦、ごめんなさい、という言葉が、何度も繰り返し耳を打った。

 父が、妖を両断した刀を鞘に納めているところだった。駆けつけた采女が、彼に駆け寄っている。母は何処に、と思った瞬間、辰彦と琴はいきなり一緒にその腕の中に抱き締められていた。

「辰彦……お琴……良かった……!」

 陸姫は、それまで決して自分に見せる事のなかった感涙に咽んでいた。

 気が付けば、辰彦の目からも同じものが溢れていた。

「ごめんなさい、母上……ごめんなさい……!」

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