『夢遥か』序章 色葉巡り②
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宵宮、前夜祭とは奇妙な行事だな、と、幼い頃から思っていた。
神代の英雄ミコトが下ったという中原──京とその周辺地域──の具体的な位置については諸説あるが、多くの場合和泉と紀伊の国境であるこの地がそうだという認識がなされ、朝廷の天照寮でもそれを正史として扱っている。天孫降臨祭は、その伝承を語り継ぐ為の祭祀だった。
八千代の昔、蘇古常百鬼率いる百鬼連との争いは勇者ミコトの働きによって結びを迎えた。ミコトは創世の女神・天照と契約し、日出国に疫病と不和をもたらした百鬼連を黄泉津国へ封じた。その後彼は天照の子として神々の系譜に連なり、勅命を受けて再び中原に降臨し、大地の再生を行った。それにより、地力に乏しく、飢餓と風土病の蔓延していた日出国は実りに富むまほろばとなった──。
秋嵐塾では、建国神話と天孫降臨祭についてそのように教えられた。世の人々を救った勇者ミコトに感謝を捧げ、来月に控えた稲刈りが豊作である事を祈る行事。そして同時に、子供たちに娯楽を与え、同時にその祭りを伝えるのがこの宵宮の主旨だという。
つい数年前までは、僕や多くの同胞たちにとってそれはお伽話に近かった。天照道の信仰は規律ある生活の指針であり人々の心の拠り所、また朝廷が神託を下し、全国を統治する為の下地だった。秋嵐塾や寺子屋の学童たちも、山精木魅たる妖を鎮めるのは呪者の役割であり、学問や刀剣を学んでいるのは来るべき百鬼連の復活に備えてというよりも国同士の戦を念頭に置いている為だと思っている。
しかし近年、封印された百鬼連の妖──意思を持ち、徒党を組んで特定の目的の為に動く妖が姿を見せ始めている。野侍や、彼らに”妖憑り”した堕ち武者の危険度も徐々に上がっていた。
ミコトと天照は、今でも天津国に坐すとされる。彼らは地上の民の呼び掛けに応えて復活し、再び荒み始めた世を正す。この地に於ける天孫降臨祭は今や、伝統や慣習を超越して、現実問題としての重要な意味を持っていた。
乱世の始まりは、常に災害や飢饉など人の意志のかかずらわぬところからやって来る。不安や、極限状況に於いて他者を蹴落としてでも自らが生き延びる、という心理から人心の荒廃が始まる。
京に隣接する山城国で怪事件が多発するようになり、京の警護が増強される今の守護役は、最も本番の”戦”に動員される可能性が高いものだった。その時期に元服して、最初の務めである守護役に赴く事になろうとは、僕たちには少なからず恐れを抱かざるを得ないものがあった。
武士としての心構えも、矜持も、秋嵐塾では早い段階で身に着けさせられた。それでも僕たちの日常は、乱世の事など想像も出来ない程に平和だった。戦うという事を恐れ、目を逸らしたくなる程に。
それは、自分が戦わざるを得ない状況が──百鬼連による災厄が再び起こるかもしれないという事が、信じられない為でもあった。
だから僕は、今年の宵宮に思う事はただ一つだった。
転瞬でも沙夜と一緒に居る時間が長く続くように、という──。
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道冥先生の兄である呪者晋冥老師の管理する、憑き物落としや呪術療治、寺子屋などが行われる社。
その境内は、敷物を広げ風除けを渡した沢山の出店やいつもと炎の色が違う鮮やかな灯籠の光、人々の陽気な声で賑わっていた。敷地を囲む森との境目に、明日の本祭りで神楽に使用する異形の妖を模した人形が横たわり、紙垂の取り付けられた縄が張り巡らされている。
明日、村の武士たちは特別誂えの装束に身を包み、勇者ミコトの下に集った古代の英雄たちに扮して百鬼討伐の神楽を舞う。その舞は夜通し続き、道冥先生は還暦を過ぎていながら主役たるミコトの役で毎年最も激しく動く。それは達人である先生が薬師一刀流の技のみならず、身体の面でも全く衰えを見せない事について、現役の武士たち皆に畏敬の念を抱かせるものだ。
「大人の人たち、あんまり見えないね」
沙夜が、百鬼の人形を見ながら言った。
境内に入る頃には日はすっかり暮れ落ち、夕焼け雲も既に山の向こうに見えなくなっていた。それでも無数の提灯と出店や屋台の光は煌々と灯り、それは夏の日差しよりもずっと明るく感じられた。
「親子連れは、もっとゆっくり来るのかもね」
僕は、人混みを見回しながら応じる。
夜になると涼風の吹くこの場所も、各店の上げる熱気や人いきれにより昼間と遜色ない程に暑い。けれど、それは決して不快な暑さではなかった。心踊るような、浮足立つような心地だ。
「本祭りで役がある人たちは、支度が終わったら村長のお屋敷でお酒を飲むのかもしれない。壮行の宴で力をつけて、明日の祭りに備えましょう、みたいな」
ややもすると、宵宮の習わしもそういった目的で催されるようになったのかもしれない、と僕は思った。天孫降臨祭は儀礼的な本祭りよりも宵宮の方が子供には楽しめるものであり、彼らが皆出掛けた後では大人たちが自分たちだけで前日の酒宴を開く事が出来る。
僕たちにも、そちらの方が都合が良かった。
行き交う人々は殆どが同年代の若人たちだったが、その光景は美しかった。涼しげな色や、草木の紋様に彩られた浴衣の行き交う様は、季節の移ろう模様を実際に目の当たりにしているようだ。
「えっと……はぐれると困る、よね?」
沙夜の指先が、微かに僕の手の甲に触れた。
僕は自然に、掌を彼女の方に回す。
幼い頃から毎年、これも習わしであるかの如く僕たちは手を繋ぐ。最初の頃こそ大真面目で、人の多い宵宮の中、迷わないようにと二人で話し合ってそうするようになったのだが、今では何となく気恥ずかしい。
心なしか沙夜の声も、年々仄かに恥じらうような色が混ざり、徐々に濃くなっていくような気がする。
「……人目は気になるけど、毎年の事だもんね。皆分かってると思うよ」
「まあ、そうだよね」
僕はぎこちなく、彼女の差し出してきた手を取る。依然、指を絡めるような繋ぎ方はしなかった。
とはいえ、それ程長時間僕たちが人混みの中に留まっている事はない。揃いのお面や団扇、食べ物などを買って、的当てや金魚掬いなどで遊んだら、社の裏の森陰に移動するのが例年だった。
山道を少し登った所に築山があり、それは神籬とされている樹齢千年の古木の根を這わせる為だった。その下にある洞は幼い僕と沙夜の隠れ家で、今でこそそこには入れなくなったものの、宵宮の最後を飾る花火──「穂灯り」はその築山から村でいちばん大きく、綺麗に見えた。
戌三つまでには移動を開始したい。それまでに何処をどう回るべきか、考えるのは僕の役割だ。
僕も沙夜も、お小遣いは少ない。沙夜は秋嵐塾の学童であると同時に奉公人なので僕よりも稼ぎはあるが、一昨年から去年にかけて年の離れた弟たちが次々と生まれた為──彼女の生みの母は三年前に病で他界し、修成公は天照道の神託により後妻を娶ったのだが、知人だった事もあり継母と沙夜の関係は草双紙に描かれがちな荒んだものではなかった──、駄賃の殆どは父の扶持米で支払われる俸禄を補う為に使うようになった。
(こういう時こそ、男らしいところを見せなきゃな)
僕は、空いている方の拳を握り込んだ。
沙夜が僕を男として好いていてくれるのかは措くとしても、彼女が僕を一介の武士として尊敬してくれている事は確かだった。これは自惚れではなく、実際に彼女の行動が示している。昨年生まれた下の弟・鶴丸の名を提案したのは彼女だそうだが、上の字は僕の名前に由来するそうだ。僕はこれを聞いた時、女性としての沙夜に対する想いとは異なる理由で喜びを感じた。
「じゃあ、最初は──」
僕が、口を開きかけた時だった。
不意に誰かが、僕の背中にぶつかって来る。体に力を入れていない時に思いがけない方向から来た衝撃に、思わず蹈鞴を踏んでしまう。繋いだ手諸共沙夜を引き倒しそうになり、慌てて踏み留まった。
「うわっ!?」
「ああ、悪い悪い」
声と共に、反対方向の手を掴まれる。声変わりが遅く、未だに少しざらついている僕とは異なり、過渡期を完全に通り終えた若々しい男子の声。
握られた手の先を見ると、そこにはやはり若い男性が立っていた。まだあどけない少年の面影を残し、僕よりも一、二歳程度年上ではないかと思われる。落ち着いた空気を纏い、灰黒色の無地の浴衣と同色の鼻緒の雪駄が妙に似合っており、ぼさぼさの髪が無造作に垂れる側頭部に、祭りで買ったらしい妖狐の面を半ば下がり気味に着けている。
彼は僕たちを見て何か口を開きかけたようだったが、その目線が繋がれたこちらの手を捉えたらしく気まずそうに何度か咳払いをした。
「……邪魔、しちゃったかな」
僕の手を離すと、青年はもう一度頭を下げ、こちらと擦れ違って人混みの中に消えて行こうとする。
刹那の後、じわじわと羞恥の念が首筋を駆け上がってきた。怪訝な顔で沙夜がこちらを見てくるので余計に顔が熱くなり、僕は去り行く彼に声を掛けた。
「あの──」
僕が声を掛ける──彼が振り返る──ほぼ同時。
須臾の後、
──見つけた……! 君が、夢と現との最後の縁……
突如として、僕の頭の中で声が響いた。
「えっ?」
はっと我に返り、自分と彼の視線が虚空で媾っている事に気付く。
それは、紛れもなく今し方聞いたばかりの彼の声だった。が、頭蓋の中で反響するような不思議な揺らぎを帯びていた。僕はこれと同じ感覚を知っている。
(心渡り……?)
僕の持つ法。しかし、これは自分から使おうとしない限り発動しない。目を見るだけで他者の心を読む法の持ち主は居るようだが、心渡りは覗き見るのではなく他者と心で会話する為の法だ。相手の精神があまりに強靭だったり、気が漫ろだったりすると意図しても発動しない事もある。
──向こうから、心渡りを試みられた?
僕がそのような事を思った時、既に彼の姿は消えていた。
「鶴来君? 鶴来君、大丈夫?」
沙夜が、袖を軽く引いてきた。僕はそれで気付く。
「あ、ああ……何だったんだろう?」
「今の人が、どうかしたの?」
彼女は小首を傾げるようにして覗き込んでくる。
「いや、知らない人だったけど……」
心渡りをされた気がする事については、口には出さなかった。
知らない人であるのは当たり前だ。僕の同年代の者たちとの交流は、塾と家の周辺といったごく狭い範囲だった。寺子屋では武士の家系ではない子供たちが読み書きを習っているが、塾とは真反対の位置であるが故にそちらの学童とはほぼ顔を合わせる事がない。
「それなら、まあいっか。私たちも行こう、時間なくなっちゃう」
沙夜に手を引かれ、僕は頭を宵宮の出費と時間の勘定の方に戻す事にした。