70 この指先を伸ばして
「自分が思うより、君は魅力的なんだ、まだ信じられないか?アリエッティ」
リチャード様が優しい声で言った。
わたしの大好きな声。
優しくて、深い響きがあって。
12歳で神殿に入って、右も左もわからずにオロオロするわたしをここまで導いてくださった。
本来なら行事のたびに家や領から捧げられる貢物で、恥ずかしくない格好をしなければならなかったのに、その後ろ盾のないわたしを、実力で見返すんだと励ましてくださった。
この声に導かれて、わたしはここまできた。
だけど、大好きなあなたも、わたしを一番に選んだのではなかった。選ばれるはずはない。そう分かってたけど、それでも。
セシリアの美貌と身分に隠れて、ローズの才能に隠れて。
みんな大好きで、心から尊敬する人たちだけど、わたしは、わたしを一番にしてくれる何かが欲しかった。
そのために、次こそは、と自分を奮い立たせて。
家族に顧みられないちっぽけな女の子が、努力したことで幸せになりました。
そんな夢物語に、わたしはなりたかった。
リチャード様。
結果はここです。
わたしは巫女姫になれなかったし、望まれて嫁ぐこともできなかった。
歌姫だったわたしを、認めてくれた人は誰もいなかった。
歌姫としてしか居場所がなかったわたしは、歌姫として認めてほしかったのに。
「君の不幸は、天才が揃いすぎたことだ」
俯くわたしにリチャード様が言った。
「たまたま、君の周りは大物過ぎた。セシリア姫にしても、ローズにしても、突出した才能があり過ぎた。周囲の人間がわかりやすく、納得できる歌としての表現力。歌を研鑽し、競っていくならこれほどわかりやすい実力の差はないくらい、彼女たちは才能があった。不幸にも、その才能が同じ年代に重なってしまった。そして、その代でこのような企みが起こった。これも女神の意思なのだろう」
そう、わたしの周りは天才だった。
これこそ歌姫、と思わせる人たち。
美貌と美声のロメリア様。異次元の作曲をするセシリア。絶対音感と表現力のローズ。
抜きん出た力は女神の力を実感させるに十分だと思った。
わたしにもきっとその力がある。
そう信じていたかった。
「努力が報われない天才の前に、深く傷ついていたことは知っているよ。だが、それは歌姫の間だけ。それが過ぎれば、君の才能は花開くだろうと思っていた」
リチャード様の言葉に思わず顔をあげた。
「君の性格、その才能。与えられた環境の中で決して折れず、女神の意思を表現できる不覊の魂。そして、手段を狭めない柔軟さ。これはここにいる歌姫時代にはわかりにくい才能だ。だが、歌姫としての真髄をわたしは認めていたんだよ。」
わたしの才能・・・・・・。
わたしは常に2番手だった。声楽でも演奏技術でも、頂点を与えられたことはなかった。だけど、ここにいるわたしの姉妹のために、たくさんの取りまとめをして円滑に進むように気を配っていた。
歌姫の一人一人が心から楽しんで歌えるように。
それは単なるお節介で、わたしがわたしの環境を良くするためにしていた自己満足のつもりだったけど、それも才能だと認めてくれるの?
「女神の加護を忘れているカービングには、君の教義の深さと柔軟な発想が必要だと思った。だから巫女姫降嫁を望んだカービングに君を勧めたんだ。だが、カービングの欲しがった巫女姫は、祈りの力ではなかったらしい。私の大切な歌姫を傷つけた報いに、本物の歌姫とは何かを見せつけようと思った。さすがは私のアリエッティだ。致命傷をつけてきたんだ」
ハハ!とリチャード様が笑った。
清々しいくらいの笑いに、この方も相当腹を立てていたんだと分かる。
でも、わたしは怒れないわ。
もう怒りも湧かない。ただ苦しくて。
繋がれた手が痛い。
振りほどきたいのに。
離さなければいけないのに。
「この子の実力は十分だ。そう思うだろう、カービング卿」
「・・・・・・ええ、アギネルズ神官長。民に喜びの歌を歌わせる歌姫。彼女以上に歌姫を愛し、歌の女神を体現したものはいない。カービングの民は彼女がいなければ、女神の恩寵を思い出せなかった」
ヨシュア様が苦々しく肯定した。そして、ますます強くわたしの手を握った。
「そうだ。だが、見る目を疑われたわたしも流石に腹が立った。だからコテンパンにやってくるといいと思ったんだ」
コテンパン・・・。リチャード様、何かわたしのこと、勘違いしてますよね。
「今はそれ以上に君は傷ついている。誇り高い君を傷つけた相手を、本当は許したい。そう思ってるんだろう?」
リチャード様が優しく話しかけてきた。
ああ、やめて。リチャード様。
許したくない。とても苦しいの。
だって、だってここで許したら、わたしは何のためにあんなに恥をかいたの?
誤解や無知だけで許したくない。
わたしはとても傷ついて、家族にまで見放された。
歌姫という自分の居場所を、あの性悪アリシアにいいように利用されたことを、簡単に許したくない。
全ての元凶はこの人。ヨシュア様。
「アリエッティ」
ヨシュア様がわたしに跪いてきつく手を握りしめた。
聞かせたくなかった。
分かってる。多分、ヨシュア様は何もご存知なかった。
王都で大事に育てられて、辺境のあの荒廃を立て直すのに奔走されていたこの方が、歌姫の矜持なんて知るはずがない。
そんな事情もだんだんと分かっていたけど、それでも許したくなかった。
だって、ごめんの一言で許せるほど、わたしは。
「いくらでも詰っていい。一生、わたしのことを罵ってくれ」
一生?それは嫌よ。こんな苦しい気持ちを抱えたまま、一生、生きていきたくない。
お願い、そんな顔しないで。ヨシュア様。
どうして怒っているのに、そんなに泣きそうなの?
「側にいてくれ。あなたと離れるなんてできない」
ああ、もう、ほんと、やだ。
許したくない。
幸せを授ける歌姫に、こんな屈辱と失望を与えたあなたを、わたしは許してはいけない。
だけど、こんなに苦しい。
「もっと早く、こうやって跪けていたら、あなたをこんなに悲しませることはなかったのに。でもどんなことを言っても、言い訳に過ぎない。最初にあなたを傷つけたのは、わたしの無知だ」
知らなかったでは済まない罪。
あなたの無知でカービングの民は、不幸せになる。
なってしまったらいいじゃない。
だって許したくないのだもの。あの可哀想なアリエッティをわたしは裏切りたくない。
「あなたでないと、ダメなんだ。わたしも、カービングも。」
「・・・許さない」
吐き出された言葉が苦くて。
ああ。
こんなことを言うためにわたしの声はあるんじゃない。幸せの祈りを紡ぐためにある歌姫の声。
だけど。
可哀想なあの時のわたしを、こんな簡単に捨てたくない。
ヨシュア様が優しくわたしの手を包んだ。
大きな硬い掌。
許してはいけないという心と裏腹に、その手に縋りたくて振り解けない。
「それでもいい。ほかの誰かのものになるくらいなら、一生わたしを憎んでくれ。わたしはこの手を、離さない」
ヨシュア様の翠の瞳が揺れる。
わたしに懇願して。それでも、その目に燃える意思の光は揺らがない。
心を射抜く眼。
わたしの恋心はとっくの昔にこの方にはお見通しで。
あと、一歩。
この指先をあなたに向かって伸ばせば、わたしの手を掴んでくれる?
わたしを一番だと言ってくれる?
わたしの心の声に応えるように、ヨシュア様が強く手を握った。
「・・・わたしを、幸せにしないと、許さないんだから」
花開くように美しく笑ったヨシュア様の目から、一筋の涙が溢れた。