After Days:ハルフィスの結婚
「……ようやく今日の分が終わりました……」
がっくり、と燃え尽きるように机に突っ伏して項垂れたのはハルフィスだ。
過去、冴えない子爵令嬢として周りから冷遇されてきた彼女は、以前とは比べものにならない程に出世したと言える。
旧魔法省から分かれた、魔法や魔学の研究を推し進める魔学省へと変わってからというもの、ハルフィスはアニスフィアやユフィリアの直接の弟子という事で一目を置かれている。
そんな彼女が魔学省で地位を賜らない訳もなく、ユフィリアからの無茶振りに応えながらも日々過重労働で頑張っている。
「うーん、うーん……ユフィリア様、無茶振りが過ぎますよ……流石にそろそろ私の処理能力を超えます……」
ハルフィスは決して無能な訳ではない。むしろ勤勉な性質は新たな学問と言える魔学の理解を推し進めるのに十分な才能と言えたし、冷遇された時期が長かったからこそ培った根性と生来の頭の回転の速さは評価に値すると言える。
確かに魔法の腕は魔学が導入された所で大きく変化する訳ではなかった。魔法使いとして見ればハルフィスは下から数えた方が早いだろう。今までの彼女の真価が発揮出来ない環境が問題なのであって、彼女は今や水を得た魚のように活動している。
しかし、だからといって仕事が休み無く降りかかってくれば、如何にこの分野における才女と言えるハルフィスにも限界はある。そして彼女が今の立場で困っている事は、自分の地位だった。
「やっぱり子爵令嬢ですと、ご年配の方々の目が気になるんですよね……」
はぁ、と吐き出した溜息は宙に溶けて消えていく。
ハルフィスの家であるネーブルス家は子爵家である。その地位は貴族として見れば下位である。
幾らハルフィスが有能であっても、ハルフィスを支える人材はハルフィスよりも年齢も爵位も上の事が多い。
だからといって表立ってハルフィスに何か言う者がいる訳ではない。それでもハルフィスにとっては重圧になっていた。元々、ハルフィスは気の強い方ではないのだ。
「……疲れた」
椅子の背もたれに背を預けて、目元を隠すように手の甲を置きながら何度目かの溜息を吐き出す。
その時、ハルフィスの執務室をノックする音が聞こえた。ハルフィスはすぐに姿勢を正して扉へと視線を向ける。
「どうぞ」
「ハルフィス、お疲れ様」
「マリオン様!?」
ハルフィスの執務室に入ってきたのはマリオンだった。突然の婚約者の登場にハルフィスは咄嗟に前髪が乱れてないか触れてしまう。
ハルフィスとマリオンは共に魔学省に席を置く身ではある。だが、担当する部署が違うので日常的に顔を合わせている訳ではない。公私混同をしない為にも、二人が魔学省で顔を合わせる事は少なかった。
「どうされたのですか? マリオン様」
「あぁ。実は、ハルフィスに相談があってだね……私の一存だけでは決めにくくて……」
「? 何か困り事ですか?」
思わず眉を顰めてハルフィスは呟く。最近、忙しさが膨れあがるばかりで頭を悩ませているので、つい過敏な反応を取ってしまう。
そんなハルフィスの様子にマリオンは言いあぐねるように後頭部を手で掻いた。
「困っている、と言えば困ってる。だが、悪い話とは言い切れない。私自身も困惑しているんだが……」
「……?」
「どう切り出したものかと思っていたのだが……ハルフィス」
「はい?」
「アンティ伯爵家に君が嫁ぐ、という話になったら……どう思う?」
「……はい?」
思ってもいなかったマリオンからの言葉に、ハルフィスは目を瞬かせた。
* * *
「――なるほど、それで自分だけで判断が出来なくなって私の所に相談に来たって事?」
「申し訳ありません、アニスフィア様……」
「私自身も、相談に乗って欲しいと思いまして……」
私は突然、相談があるという事でお時間を貰えないかというハルフィスからの一報を受けとり、すぐにイリアを通じて二人を離宮に呼び出していた。
今、私ってばそんなに忙しくないしね。ハルフィスとマリオンが困っているというなら話を聞いてやりたいと思った。本当ならユフィもいれば良いんだけど、今日も忙しくしてるのか帰りは遅い。
「えーと、つまりマリオンは本来、お兄さんが家を継ぐ所をマリオンが継がないか? って話になってるって事だよね?」
「はい。本来であればアンティ伯爵家は兄が継ぐ筈でした」
そう。二人が頭を悩ませているのはマリオンの家であるアンティ伯爵家のお家事情だった。
本来、マリオンは親同士が決めた婚約者であるハルフィスのネーブルス子爵家に婿として入る予定だった筈で。
「お兄さんも元魔法省の?」
「はい。今は精霊省に籍を移していますが」
「それがなんでまた、マリオンに当主を譲るって?」
「兄が言い出したのです。私の方が王室と懇意にさせて貰っているから、と。そこにハルフィスを嫁として迎え入れた方がアンティ伯爵家の為になる、と」
「うーん……」
言いたい事はわからないでもないけど。
マリオンとハルフィスの二人は、ある意味で私とユフィの直弟子とも言える。
そんな二人が次期伯爵となるなら、それはお家としては望ましい事なのかもしれない。王家と懇意に出来るって事だからね。
「でも、お兄さんが元々継ぐ予定だったんでしょう? 良いの?」
「はい……。それなんですが、ハルフィスの為というのが大きいのです」
「ハルフィスの?」
「はい……」
ハルフィスが困ったように眉を寄せながら、小さく縮こまってしまっている。
そんなハルフィスの肩に手を回しながらマリオンは溜息交じりに続ける。
「ハルフィスは現在、魔学省では重役といっても過言ではありません。ですが、まだハルフィスは若いです。そして地位も子爵令嬢と些か、立場と釣り合っていないのです。それなら元魔法省のエリートを輩出した我が家に迎え入れた方が釣り合いが取れるのではないか、と」
「お兄さんがそれを言い出したの?」
「兄は元魔法省では中立の立場ではありましたが、それでも精霊信仰に篤い信者でした。魔学を否定とまではいかなくても、未だ面食らう事も多く、むしろ自分は精霊省で研究や資料整理をして表舞台から降りたいと笑顔で言い切られまして……」
「それでいいの、次期当主でしょ?」
「私も……正直、ちょっと頭が痛くて……」
マリオンがこめかみを押さえながら、そっと息を吐き出す。
「決して兄上も考え無しで言っている訳ではないのです。兄上が迎え入れる予定だった婚約者が精霊信仰に傾倒していた家の出なのです。今回の一件でかなり地位を落としてしまったので……」
「あぁ……」
「本人達の仲は良好なのですが、ここで問題になってしまったのが私なのです」
「今の王家と距離が近いのはマリオンで、お兄さんはどちらかと言えば私が苦手って感じ?」
「それにユフィリア女王陛下も、ですね。家にとって良い縁があるのだから、そちらを立てる方が良いだろうと主張していまして。婚約者のご令嬢も、かつてならともかく今の状況でアンティ伯爵家に嫁ぐのは気が重いと言っていまして……」
それは、なんともまたマリオンが困ってしまうのも納得な話だなぁ。
私とユフィが原因なので、私も微妙な顔になってしまうけれど。私達が派手にやらかさなきゃお兄さんが継いで安泰って感じだったんだろうし。
「お兄さんは家を継がなかったらどうすると?」
「家を出ると言っています。一応、名前だけは残すとは言っていますが……」
「でも、領地を受け継ぐ訳でもないのでしょう? 収入は精霊省だったら良い給料は出るだろうけど……別に婚約者の家に婿に入るって訳でもないんでしょう?」
「はい……」
うーん、なんとも据わりの悪い話になってしまう訳だ。
もしそうなったとして。更にマリオンのお兄さんに仮に子供が出来たとして、受け継ぐ領地がない訳で。あくまで貴族の息子なだけであって、何かお兄さんが功績でも立てない限りは貴族としての立場が保証されるかというと、これが怪しくなる。
領地を継がないのであれば、或いは功績を立てて親からその地位を受け継ぐなどしない限り、子供は貴族として地位を持てなくなってしまう。つまり貴族の子供ではあるけれど、貴族として受け継ぐものがない子供になってしまう。
こういう厄介な立場の貴族の子息は疎まれてしまう訳で。貴族というのは体面や自分の地位を酷く気にする生き物だ。だからこそ、そんな事は耐えられないと婚姻を結んだり、相手の家に入ったりと盛んな訳だけど……。
「それなら、予定通り私がネーブルス子爵家に婿として入った方が纏まりが良いのではないかと言いましたが、私達の立場で子爵家とかおかしいだろう、と兄に言われまして……」
「あー……」
「しっかりと考えた上で答えを出したいと思ったのですが、実はハルフィスに縁談を持ち込みたい貴族も多くて……」
「あぁ……そういう問題もあるのか……」
「父もこの話が決まり次第、当主の座を譲ると言っていまして。それが私か、兄かに拘わらずです。自分はもう表舞台に立つには力不足だと言っていまして……地位があれば、若輩であろうとも発言力を保つ事が出来る。それは兄でも私でも変わらない、と。母も父の意志に添うと……」
「……成る程ねぇ」
私は腕を組みながら考えて見る。この状況を、どう解決したら良いのか。
まず、マリオンが当主になってハルフィスを嫁に迎える。その理由は今の王家、つまり私とユフィと縁が強い二人を立てる事で家を盛り立てていく為。
問題は、本来継ぐ筈だったマリオンの兄の立場。婚約者も含めて納得して家を出るというのなら、問題はないように思える。
両親も納得しているというのならば、マリオン側には問題はない訳だ。問題があるとすれば、ハルフィスか。
「ハルフィスのご両親にこの話は?」
「既にされていたようです。私が嫁入りしてしまうと、ネーブルス子爵家は跡継ぎがいないので……目にかける養子がいなければ、地位を返上する事も考えると。元々、騎士の家系だから気にする事はない、と」
「つまり、両方とも親とも家とも揉めてない。あとは二人の気持ち次第って事かな」
「……そう、なりますね」
「うん、それなら私は良いんじゃないかと思うよ?」
ハルフィスが今の地位で気が引けるというなら、伯爵夫人という地位を得る事は良い事だと思う。ハルフィスを娶ったマリオンも、今までの冷遇されてきたハルフィスを護り続けたというのは一つの美談となるだろうし。
ハルフィスが十全に能力を発揮出来るというのなら、私もユフィも諸手をあげて歓迎する。ハルフィスはやっぱり直弟子だしね、頑張れる立場に必要なら良い事だと思う。
「私はハルフィスを評価してるし、マリオンにだって期待してる。二人が個人的にじゃなくて、アンティ伯爵家として盛り立ててくれるならこれ以上に嬉しい事はない。ただでさえユフィは支えとなる人材を求めてるだろうしね?」
「……はい」
「確かにネーブルス子爵家に跡取りがいなくなる事も、本来伯爵家の当主になる筈だったマリオンのお兄さんを始めとした色んな人に迷惑をかけてしまう。それが心苦しいと思ってしまう二人だって私も知ってる。それだけ迷惑をかけて、自分達が本当にやれるのか、不安になってるだろうな、って予想もしてる」
私がそう言うと、案の定二人は揃って顔を俯かせてしまった。
条件は良い。あとは本人の気持ち次第と言われて、この二人が即決出来ないのは自分への自信の無さもあるんだと思う。ハルフィスは自分への不安から、マリオンは周囲からの期待の重圧から。その比重はそれぞれ違うと思うけど。
思い悩む二人に、私の背から声が投げかけられた。それは黙って会話を聞いていたイリアだった。
「私も支持します」
「イリア」
「お二人の悩みを共感してあげる事は私には出来ません。ただ、私は一点だけ。それがアニスフィア様とユフィリア様の利になる事だからこそ支持します。貴方達の力は確実にお二人を助けます。ですので、どうかそのお力を振るって欲しいと願わずにはいられません」
イリアの言葉を受けて、やや顔を俯かせてしまっていた二人が顔を上げる。
ハルフィスとマリオン、二人の顔を改めて見つめてから私はイリアの言葉を引き継ぐように続けた。
「迷惑かけたって良いじゃん。期待されてるんだよ、二人は。でも、その期待に必ず応えなきゃいけない訳じゃない。だってハルフィス、ハルフィスは私よりも成功出来る自信がある?」
「えっ!? そ、それは……無理だと思います」
「だったら私を頼ってよ。私はハルフィス達がいないとちょっと辛い。ハルフィス達が助けてくれるだけで良い。難しい事は言ってないと思う。話を聞いてくれる、私達の為に考えて動いてくれる。それだけで良いんだよ。そうしたら私は二人を助けるよ。貴方達が魔学の教えを願ったように、ね?」
別に家を背負う責任を自分達だけで背負わなくて良いのに、とは思う。
確かに家族には色んな迷惑をかけてしまうかもしれない。でも、二人の家族だって自分の不利益になるばかりの事を提案はしないと思う。
「それに、今は確かに迷惑をかけるかもしれない。でも、これから先で大きくなって、それでおつりが出るぐらい返せば良いんだよ。期待されるぐらい、私達には未来があるんだから」
「……アニスフィア様」
そうだ。私も、ハルフィスだってもう誰からも期待されず、冷遇されるばかりじゃない。
今すぐには無理かもしれない。時間はかかるかもしれない。でも、周りの助けも望めないような状況じゃない。
今の私がいるのは、今まで私が繋いできた縁があったからだ。それが芽を出すのに時間がかかったけど、だからこそ悲観しなくて良いと思えるようになったんだ。
不安だってあると思う。悩んで当然だとも思う。絶対成功するなんて言えない。それでも私は二人に贈りたい言葉があった。
「きっと、ハルフィスとマリオンなら大丈夫だよ。私はそう信じられるよ」
それは、私の心からの言葉だった。
私の言葉に二人は黙り込んでしまう。先に口を開いたのはマリオンだった。
「アニスフィア王姉殿下、ありがとうございます。……私も、覚悟を決めようと思います」
「マリオン様?」
「ハルフィス」
マリオンが私から視線を逸らして、ハルフィスと向き直る。その真剣な表情を見て、困惑気味だったハルフィスの表情も落ち着く。
マリオンがそっとハルフィスの両手を握る。マリオンの両手が包み込むようにハルフィスの手を握りしめ、マリオンとハルフィスは真っ向から向かい合う。
「結婚しよう、ハルフィス。一緒にアンティ家を盛り立てて欲しい。私は君の今を応援したい。その為に使えるものがあるなら使いたい。その覚悟が、今出来たんだ」
「マリオン様……」
「丸く纏めるなら、やはり私がネーブルス子爵家に婿として行くのが良いと思う。けれど、子爵令嬢という立場がハルフィスを気後れさせてしまうなら、私は君の背を押したい。君を守る為の力を得られるなら兄を押しのけてでも当主になりたい」
マリオンの真っ直ぐな言葉に、ハルフィスはおずおずと視線を上げる。
何かを迷うように視線を彷徨わせて、私を見た後にハルフィスは表情を引き締めた。
改めてマリオンへと向き直って、ハルフィスは僅かに微笑んだ。
「……正直、色んな事が変わって戸惑って、本当にこのままでいいかと迷ってました。私はただの子爵令嬢で、ちょっと前は落ちこぼれと言われていて。誇れる事なんて本当に無くて……」
「うん」
「……でも、今凄く、頑張ってる自分が好きになれそうなんです。凄く楽しくて、充実してて。だから、だからマリオン様。私、頑張ってみても良いですか? 私、自分にも、周りにも認められるような人になりたい」
「あぁ、勿論だ」
「……私で、いいですか?」
「君以外、考えた事なんてないよ」
マリオンの言葉を受けて、ハルフィスが顔を真っ赤にしてしまった。
つい見届けてしまった私はどう反応をしたものやら、と視線を彷徨わせる。するとイリアと目が合う。人差し指を立てられて、悪戯っぽくウィンクされた。
珍しい、と思いながら私もウィンクを返して、しぃ、と人差し指を口元へと持っていった。
二人が自分達だけの世界から戻ってきたのは、ユフィが離宮に戻ってきて二人の様子に目を丸くするまで。それまで二人はずっと手を繋ぎ合っていたのであった。