After Days:いつか実る夢のために、もう一度
転天4巻&コミカライズ2巻を祝しての短編です。
手塩にかけて育てたものが実った瞬間は、鼻歌を歌い出したくなるような喜びに満たされる。
王城の庭園、その一角というには似付かわしくない小さな農園。あくまで小規模に、景観を邪魔しない程度のささやかな自分だけの庭。
かつて国王だった者――オルファンス・イル・パレッティアは満足げに息を吐いて、たわわに実った野菜を見つめた。
「ふむ、今年の出来はどうだろうか」
毎年、様々に条件を変えたり、或いは敢えて同じにすることで生育の様子を記録していく。
地道で進展も簡単には望めない研究だが、これこそが自分の肌に合っているのだとオルファンスは内心で呟く。
実った実の大きさ、時期、味や品質、数など気になったことは何でも記録していく。
その集めた記録を見比べて、変化があった場合の状況を考える。その地道な作業の何と楽しいことか。
毎年一歩ずつしか進めなくても、確実に前に進めているという手応え。
その先に何があるのかも見えないのに、ただ前に進めている手応えに満たされている自分にオルファンスは苦笑を浮かべる。
(我ながら重症だな……肩が随分と軽くなってしまったのが原因だろうが)
紆余曲折あって王位を次代の娘たちに引き継いでからというもの、娘たちが落ち着くまではオルファンスも補佐として政務に関わっていた。
それも次第に落ち着いていき、自分の時間を取れるようになってからオルファンスは農業の研究を始めていた。
これはあくまでオルファンスの個人的な趣味だ。ここで取った記録が何かに大きな影響を及ぼすとは、オルファンスも思っていない。
それでも、かつて国王の責務で忙殺されていた頃に比べれば自由な時間が出来た今、自分がやりたいと思ったことをやろうと思った。
自分だけの庭でささやかな作物の研究と、庭園の手入れ。最初は恐縮していた庭師とも、最近は穏やかに会話を交わせるようになってきた。
その際、オルファンスよりも年老いていた庭師から若返ったようだと言われた覚えがある。それを聞いた時、オルファンスはあまりにも複雑な心境だった。
(シルフィーヌにまでからかわれたからの……まだ私とて三十代なのだぞ? これもそれもグランツが悪いのではないか。そもそも、何故老けんのだあやつは……)
親友であり忠臣であった男、グランツ・マゼンタのことを思い、オルファンスは溜息を吐いた。
今も女王となった義娘ユフィリアと政治上で鍔迫り合いをしているのだろう。何故、自分の娘に対してあんな性格が悪そうな振る舞いをするのか。
いや、実際に性格がねじ曲がっているからだろうな、とオルファンスは結論を出す。
「グランツが真っ当な奴であれば、私は王になどなっていなかっただろうからな……」
オルファンス・イル・パレッティアは優れた国王ではなかった。
元より王位など継承することがない筈の身分だった。若い頃はそれこそ、さっさと臣下になり、領地を貰って農業の発展と研究に時間を注ぎたかった。
そんな王としての心構えがない自分が国王になってしまったのも、時の流れであった。
オルファンスの父は、苦悩を抱える王であった。貴族の腐敗によって民から不満の声が上がっていた故に。
そんな中で、平民の盗賊が貴族の落とし子で魔法を扱って略奪行為を働いていたという大事件もあり、民たちの不満と怒りは爆発寸前であった。
そんな民たちの不満を押し留めるように行った政策は、しかして伝統に固執する一部の貴族から猛反発を受けた。
その旗頭となったのが――まさか自分の兄だとオルファンスは夢にも思わなかった。
兄、といってもオルファンスは交流した覚えがなかった。オルファンスは日陰者であり、王族でありながら土いじりを好むことから兄からも関心をもたれていなかったからだ。
それでも王族であることには変わりない。父王の苦悩を知っていたからこそ、オルファンスは兄がクーデターを起こしたなどと、到底受け入れることが出来なかった。
だが、オルファンスに出来ることなどあまりにも少なかった。魔法の腕でも、武芸の腕でも兄に敵うことはない。何一つ比べても、あの兄に敵うことなんてなかったとオルファンスは確信している。
それでもオルファンスが政争に勝利することが出来たのは、親友であるグランツ・マゼンタと妻であるシルフィーヌ・メイズ・パレッティアがあってのことだ。
「私をただの人として扱ってくれたのはお前だけだ。お前に仕える理由など、それだけで十分だ」
グランツは、ただ恩義のためにオルファンスに仕えてくれた。才能に溢れすぎて、様々なしがらみに搦め捕られた自分に正直に接してくれたという理由だけで。
「貴方の優しさも、思いも正しい。その正しさに力が足りないというのなら、私が貴方の力になるわ」
シルフィーヌは、正義のためにオルファンスを支えてくれた。民を虐げてまで貴族の優位性に固執する必要はあるのか? と思い、兄に与した実家を正すため、自分という旗頭が折れないように側にいてくれたのだ。
三人で駆け抜けた動乱の青春だった。その後、待っていたのがままならない日々だったとしても、あの日々は掛け替えのないものだとオルファンスは思っている。
それはきっと、グランツとシルフィーヌだって同じだろう。だからこそ、自分たちが向かっている未来は同じ方向を向いていると確信出来ている。
結果的にとはいえ実家を自らの手で滅ぼし、行き場がなくなったシルフィーヌに懇願するように妻となって貰い、公爵の座を引き継いだグランツを右腕にして采配を振るった。
しかし、上手くはいかなかった。貴族たちの足並みを揃えるために奔走しても、成り行きで国王になったオルファンスに心の底から忠誠を捧げてくれる貴族は少なかった。
国王になってからの日々は、底無し沼で藻掻いているような思いで生きていた。
何をしてもうまくいかない。臣下の信用を得ようとしても、派閥間の争いによって育てようとした芽が潰れてしまう。
ただでさえクーデターで有力な貴族が減っている中、誰一人欠かしたくなどないのに、切り捨てる者を選ばなければならない日々。
切り捨てた者の中に、娘さえも含めてしまう自分にオルファンスは反吐が出そうだった。
うつけ者、キテレツ王女と呼ばれようとも娘であるアニスフィア。その奇行を止めることを諦めたのも、何も変えられなかった自分に対する諦観を直視したくなかったから。
前に進もうと、成果を出さなければと、一歩間違えれば衰退まで一気に転がり落ちる国を支えようと藻掻き続けた。その藻掻く途中で、大事なものを取りこぼしていたことにも気付かずに。
そして、息子であるアルガルドを永遠に喪うところだった。振り返れば無能という言葉でも足りない愚かな国王だったと、オルファンスは自分を評する。
そんな不甲斐ない自分の負債を背負わせてしまった娘たちには申し訳ないと、オルファンスは心の底から悔いている。
誰の苦しみにも気付かず、ただ自分が苦しいと藻掻いていた。本当にどうしようもないろくでなしだ。
それでも、今でもこの国は続いている。王位を譲ってからは良い方向に変わりつつある。
そこまで国を滅ぼさず、繋ぐことが出来た。せめて、それだけでも自分が王であった価値があると信じたい。少なくもオルファンスはそう祈っている。
「それで人よりも植物を育てる方が、やはり素直で可愛いと思ってしまうのはいかんと思っているのだがな……」
成果が実りという形で返ってくるので、王であった日々に比べると満たされてしまっている。それはそれでどうなのだと、オルファンスは苦い溜息を吐き出す。
そんなことをオルファンスが思っていると、遠くから声が聞こえてくる。手を振りながらこっちに向かってくるのは、娘であるアニスフィアだった。
アニスフィアだけではない。他にもユフィリアや、彼女たちの従者であるレイニとイリアまで付いてきている。
「父上ー! 今年も実ったと聞いてご相伴に与りに来ました!」
アニスフィアは、オルファンスの育てている野菜の実りを密かに楽しみにしている一人だ。
こうして実りの時期を迎えると、そのお零れを食べにやってくるのだ。まったく、と溜息を吐きつつも、オルファンスは微笑みを浮かべてしまう。
どこに収穫したての野菜をそのまま生で食べたがる王族がいるというのか。我が娘ながら変わり者だと、そう思わざるを得ない。
「今年の出来はどうですか?」
「そう変わりはない。それでも気になったところは……」
アニスフィアとユフィリアはオルファンスのささやかな研究結果を熱心に聞いてくれている。
その真剣な様子に、自分も下手なことは出来ないなとオルファンスは気を引き締めてしまう。研究が続くのは楽しいからだけではなく、こうして真面目に聞いてくれる二人の存在も大きい。
「それじゃあ、実食だー! 一番乗りー!」
よく水で洗った収穫したてのキュウリにかぶりつくアニスフィア。それに釣られるように他の三人もキュウリを口に運んでいる。
きゃいきゃいと姦しく感想を言い合っている姿は年相応で、楽しそうに見える。その姿を見て、オルファンスはいつから自分たちがこんな青春じみた思いを喪ってしまったのだろうと考える。
アニスフィアもユフィリアも、それぞれ立場があって忙しいだろうに。それでも自分たちとは違い、人生を楽しむことを忘れていない。
(……あぁ、本当に情けないな。私は)
人生を楽しまなければ、膿んでいくのは当然だ。
辛いことばかりで、水も養分も得られなければ花とて枯れる。自分という花はいつから枯れ始めていたのだろうか。
枯れていなければ、もっと違った未来があったのだろうか。この光景に、遠く離れていってしまったアルガルドもいたのだろうか。
「父上! 父上も食べましょうよ、今年も良い出来ですよ!」
「う、うむ。えぇい、ぐいぐい押し付けるでない!」
ぼんやりとしていると、アニスフィアが手に持ったキュウリを押し付けて来る。それに眉を顰めながらも、アニスフィアたちに倣ってキュウリを口に運ぶ。
程良い食感と、爽やかな瑞々しい味。それが口の中に広がっていく。あぁ、美味いな、と咄嗟に思ってしまう。
「うむ、良い出来になったな」
「ですよね!」
「義父上、ご相談なのですが、もう少し記録を詳細に書いて頂いて、他の農業が盛んな領地の領主や、農家の方々にも見て頂くのはどうでしょうか?」
「うむ? ユフィリア、何故突然そのようなことを?」
「義父上はこの庭の生育に魔法を使っていますから。今後、何かの参考になるかと思いまして……」
「まぁ、魔法で作物を育てているのは私ぐらいのものだとは思うが、まだそこまで有用な記録だとは思えんぞ? もっと幅広く条件を設定して、詳しく調査せねばならんだろう」
「えぇ、ですのでその取っ掛かりとして。もう少し政務が落ち着いたら、義父上に品種改良などの研究して欲しいと考えていますので、良ければ考えておいてください。……夢だったんですよね?」
「……ユフィリア」
「あ、勿論私も賛成するよ! 誰かがやらなきゃいけないことなら、やっぱり父上に始めて欲しいよね!」
いつから夢を忘れていたのだろうか、と思っていたところで、かつての夢を差し出される。
あぁ、なんて出来すぎた話だろうか。そんな思いにオルファンスはそっと目を伏せる。
「……まったく。好きにコキ使えとは言ったが、休ませるつもりがなさそうだ」
もう一度、夢を始められるなら。まだ遅くはないのだろうか。
起きたことはなかったことには出来ない。それでも、人は前に進むことが出来る。
それなら本当にやりたかったことを、またもう一度始めても許されるだろうか。
そう思いながら、もう一度手に持っていたキュウリを囓る。そのままで食べるのも、やはり悪くない、と。
王族としては相応しくはないけれど、自分はこれが好きだったのだな、とオルファンスは振り返る。
「……やはり美味い。教えてやれば良かったな、アルガルドにも」
王族として縛られてばかりでは見えない世界があるのだと。そんなことを教えるのはあまりにも簡単だった。そんな簡単なことですらしてやれなかったのだと、後悔に胸が痛む。
「アルくんにも食べて欲しいよね。でも、アルくんは多分来いって言っても来ないだろうしなぁ……あ、そうだ! だったら運べばいいんじゃない!?」
「鮮度を保った状態で運送が出来れば可能になりそうですが……」
「じゃあ、エアバイクの後ろに小型の冷蔵箱をつけたらどうだろう?」
「……それなら出来そうですね?」
「よーし、じゃあ魔巧局で試作して、そのままテストでアルくんのところに届けに行く! 一石二鳥!」
アニスフィアがまた勢いを増して、何かを始めようとしている。その様を見たユフィリアたちが苦笑を浮かべつつも、止める気配はない。
あぁ、まったくもって騒がしい。……いや、賑やかと言うべきなのだろうな、とオルファンスは思う。
(もう一度、ここからか。人生はまだ続くのだ。ならば、何度でも粘り強くやってみよう)
美しい花のように咲き誇る人生ではなくても、雑草のようにしぶとく逞しく。
これから踏みしめていく大地が、荒れて乾いた大地にならぬように。
それが自分に出来ることなのだろうから。
* * *
「――という訳で、運んできたよ!」
「……本当に貴方は馬鹿なんだな、姉上」
アルガルドは嵐のように訪れて、満面の笑みを浮かべているアニスフィアに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、溜息を吐いた。
アルガルドの横から覗き込むようにアクリルが顔を出して、その尻尾を揺らせた。その視線はアニスフィアが運んできた野菜の数々に向けられる。
「これがお義父さんの育てた野菜なんだ。よく持ってこれたね……あ、美味しい」
「でしょ! ほら、アルくんも!」
「……そのままでか?」
「父上もオススメの食べ方だよ!」
「何をやってるんだ、元国王ともあろう方が……」
「あと、これ手紙。父上からだって」
「……父上から?」
アニスフィアが差し出した手紙に、アルガルドは恐る恐るといった様子で手紙を受け取る。
ゆっくりと封を解き、その中身を確認する。……そして、アルガルドは深く息を吐いて。手紙を閉じた。
「……まったく、父上も姉上に毒されてきたな」
「なんて書いてあったの? 私、内容まで知らないんだけど」
「姉上には内緒だ」
「えーっ! なんでさ!」
――美味しいと思ったなら、また送ろう。気に入ったなら、苗も渡そう。
――こんなささやかな贈り物も出来なかった。だから今からでも、お前に。
――どうか健やかにあれ 私の息子、アルガルドへ
「……意外と、美味いものだな」
噛み締めた味は、瑞々しさを損なわず。潤いは染み渡るように、その心へと届くだろう。
荒れ果てた地に、潤いと実りを。それは、きっと――誰よりもオルファンスが願っていた願いなのだから。