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決意

 淑女教育の一環として、カレンはあらゆる学問を修めてきた。歴史、法律、紋章学、薬草学、古典文学、そして各国の言語。

 それらは全て、王太子妃となるための「飾り」でしかなかったはずだ。けれど、今となっては、それが唯一の武器だった。


 自室に戻ったカレンは、まず自分の身体を清め、新しい衣服に着替えた。毒の影響はまだ色濃く、立っているだけでも眩暈がする。けれど、心は不思議なほど澄み渡っていた。

 絶望的な状況であることに変わりはない。敵は王太子とその取り巻き、そしておそらくは義妹とその背後にいる誰か。味方は、いない。信じられる者もいない。


(けれど、望んでこの道を選んだのだもの)


 二度目の生という安易な救済を、自ら蹴ったのだ。この困難こそが、カレンが己の足で立つための試練だった。


(私を陥れた手口は、あまりにも周到。偽の証拠、計算された証言。……あれだけのことを成し遂げるには、相当な知識と人脈、そして資金が必要。必ず、どこかに綻びがあるはず)


 例えば、カレンの筆跡を完璧に模倣した手紙。あれは、ただ似ているだけではない。ヴァルラン家に古くから伝わる、特殊なインクの配合まで再現されていた。その配合を知る者は、ごく限られている。

 例えば、義妹が証言した「呪いの儀式」。その儀式に使われたとされる道具や文様は、古代魔法に関する、極めて難解な文献からの引用だった。そんなものを読み解ける人間が、あの義妹の周りにいるとは到底思えない。


(書庫へ行こう。私に残された最後の武器は、そこに眠っているはず)


 カレンは、侯爵家の広大な書庫へと向かった。埃っぽい静かな空間。幼い頃から、カレンにとっては何よりの遊び場であり、学び舎だった場所だ。


「まずは、敵を知ることから始めましょう」


 静かな決意を胸に、カレンは古文書の棚へと、震える足で、しかし確かな一歩を、踏み出した。


 書庫の静寂は、今のカレンにとって何よりも心安らぐものだった。窓から差し込む光が、空気中を舞う無数の埃をきらきらと照らし出す。ここは知識の聖域。そして、これから始まるカレンの戦いの、唯一の武器庫だった。


 ふらつく身体に鞭打ち、カレンはまず、父の書斎から持ち出した一件の書類を広げた。断罪の場で突きつけられた、カレンの筆跡を模した「王太子殿下への呪詛を誓う手紙」の写しだ。指先でなぞれば、そこに込められた悪意が伝わってくるようだった。


「インクが違う……」


 一見して、それはヴァルラン家に伝わる秘伝の調合インクに見えた。黒の中に微かに深い藍を混ぜ、光の加減で紫紺にきらめく、美しいインク。

 しかし、カレンの目には、その僅かな違いが分かった。本物のインクは、原料に使う特定の鉱石の影響で、乾くとごく僅かに甘い香りを放つ。だが、この写しからは、インク特有のつんとした匂いしかしない。偽物だ。


 問題は、その偽物が、本物と寸分違わぬ色合いを再現していることだった。ヴァルラン家のインクの調合方法は、代々当主とその後継者にしか伝えられない最高機密。その文献は、この書庫の最も奥、鍵のかかった書架に保管されているはずだ。


 カレンは、書庫の管理者である老執事に鍵を開けさせ、奥へと進んだ。ひやりとした空気の中に、古い羊皮紙の匂いが満ちている。目的の書架を見つけ、埃を被った革表紙の文献を手に取った。ページをめくると、最後に閲覧した者のサインが記されている。日付は、半年前。サインは、父であるヴァルラン侯爵のものだった。


(お父様以外に、この半年で閲覧した者はいない……)


 ならば、なぜ。父が自ら、娘を陥れるためにインクの情報を漏らしたとでもいうのだろうか。

 ……いや、それはない。父は娘を見殺しにはしたが、自ら積極的に貶めるような、そんな気概のある人間ではない。彼は常に、保身と恐怖に苛まれている。


 カレンは思考を巡らせた。文献そのものが盗まれた形跡はない。だとすれば、考えられる可能性は二つ。一つは、父が誰かに強要され、あるいは騙されて、情報を漏洩した。もう一つは、この書庫に、父以外の誰かが侵入した、ということ。


 次に、カレンは義妹が証言した「呪いの儀式」について調べ始めた。彼女が語った儀式の内容は、大衆が想像するような生贄や血文字といった、ありきたりなものではなかった。特定の星座の配置の下、古代語の呪文を唱え、稀少な薬草を調合して対象の髪を燃やすという、非常に複雑で専門的なものだった。だからこそ、王宮の魔術師たちも「真実味がある」と判断したのだ。


(あの子が、独力でこれほどの知識を得られるはずがない)


 義妹のセリーナは、カレンとは対照的に、勉学よりも着飾ることや夜会に夢中な少女だった。難しい本を手に取ることなど、生涯で一度もなかったはずだ。必ず、背後に指南役がいる。


 カレンは、書庫の片隅にある異端とされる魔術や呪術に関する書架へ向かった。貴族の令嬢が決して近づかない、禁書に近い領域だ。カレンも、これまでは知識としてその存在を知るのみだった。


 数多の文献の中から、義妹が語った儀式と酷似した記述を、カレンはついに一冊の古文書の中に見つけ出した。それは、数百年前に滅びた小国の、一部の王族のみに伝えられていたという秘術に関するものだった。解読には、古代語だけでなく、特殊な暗号知識も必要とするという。


(これだわ……。これを読み解ける人間が、セリーナの背後にいる)


 貸出記録を確認すると、その古文書は、この十年間、誰にも手に取られた形跡がなかった。つまり、犯人はこの書庫の記録に頼らず、別の場所でこの知識を手に入れたか、あるいは記録を残さずにこの書庫へ侵入したかのどちらかだ。


「いずれにせよ、手掛かりは掴んだわ」


 カレンの瞳に、鋭い光が宿る。犯人像が、ぼんやりとだが輪郭を帯びてきた。ヴァルラン家の内部情報に詳しく、高度な専門知識を持ち、そしてカレンを憎んでいる人物。



 その日から、カレンの生活は一変した。昼夜を問わず書庫に籠もり、膨大な文献を読み解いていく。食事は盆に乗せられたものを機械的に口に運び、やつれた顔には隈が深く刻まれた。だが、その瞳の光は、日増しに強くなっていった。


 屋敷の使用人たちは、そんなカレンの姿を遠巻きに眺め、囁き合った。


――お嬢様は、ご心労で少しおかしくなられたのでは。

――いいや、まるで学者のようだ。

――あんな鋭い目つきをなさる方だっただろうか。


 かつての穏やかで心優しい令嬢の姿は、そこにはなかった。あるのは、目的のためには全てを切り捨てる覚悟を決めた、一人の戦士の姿だった。


 変化は、父である侯爵にも伝わっていた。彼は何度か書斎から出てきて、書庫の扉の前を躊躇いがちにうろつき、結局は何も言えずに戻っていくのだった。娘の変貌ぶりに恐怖を感じながらも、その気迫に、ほんの僅かな希望を見出しかけている自分に気づき、狼狽していた。



 調査開始から数日が経ったある夜、カレンは侍女のアンナを自室に呼んだ。


「アンナ。貴方に、頼みたいことがあるの」


「な、なんでございましょうか、お嬢様」


 怯えるアンナに、カレンは一枚の金貨と一枚の紙を渡した。


「これで、街の酒場へ行ってきてちょうだい。身なりは平民のものに変えて。そして、そこに書いてある噂話について、それとなく探ってきてほしいの」


 紙に書かれていたのは、義妹セリーナの最近の動向や、彼女と親しい貴族の名前、そして断罪劇の後に急に羽振りが良くなった人物はいないか、といった調査項目だった。


「わ、わたくしに、密偵のような真似をしろと……?」


「嫌かしら? ああそうだった。貴方は、私が罪人だと思っているんだったわね。ならば、この頼みを断って、父に報告することもできるわ。そうすれば、私は今度こそ修道院送りか、あるいは……」


 カレンの言葉は、静かな脅迫だった。アンナは、青い顔で震えながら、金貨と紙を握りしめた。


「……かしこまりました。お嬢様の、仰せの通りに」


「ええ、お願いね。貴方だけが頼りだわ、アンナ」


 最後に添えられた言葉は、かつての優しいカレンのものだった。その一言が、アンナの心を縛り付ける最後の楔となった。

 カレンは、自分が冷酷になっていることを自覚していた。だが、感傷に浸っている余裕はなかった。信じられる者がいないのなら、利用できる者は全て利用する。それが、今のカレンのやり方だった。


 アンナがもたらす情報と、書庫での調査。二つの歯車が噛み合い始め、カレンは徐々に陰謀の核心へと近づいていった。

 偽インクの材料と思われる稀少な鉱石を、最近になって密かに購入した商会の名。義妹セリーナが、夜会を抜け出して頻繁に会っている、さる子爵家の次男の存在。そして、その子爵家が、かつてヴァルラン家との領地争いで敗れ、没落したという過去。


 点と点が、線で結ばれていく。しかし、決定的な証拠が足りなかった。子爵家の次男が、なぜ古代の秘術に関する知識を持っているのか。その一点が、どうしても解明できなかった。該当する古文書は、このヴァルラン家の書庫と、あとは王立図書館に一冊あるのみのはずだった。


(王立図書館……。あそこなら、何か分かるかもしれない)


 今のカレンは、事実上の幽閉状態にある。毒殺未遂で修道院送りこそ有耶無耶になっているものの、屋敷から一歩も出ることは許されていない。

 カレンは、再び父の書斎の扉を叩いた。


「お父様。お願いがございます」


「……なんだ」


 憔悴しきった顔で、侯爵が顔を上げた。


「王立図書館へ、行く許可をいただきたいのです」


「馬鹿を言え! お前を外に出せるわけがなかろう!」


「いいえ、行かなければなりません。これは、ヴァルラン家の名誉を回復するための、最後の手段なのです」


 カレンは、これまでの調査で突き止めた事実を、冷静に、論理的に父に説明した。偽インクのこと、義妹と子爵家の繋がり、そして謎の古文書の存在。侯爵は、最初は半信半疑で聞いていたが、カレンの言葉の重みと信憑性に、次第に顔色を変えていった。


「……分かった。ただし、条件がある」


 数時間に及ぶ説得の末、侯爵はついに首を縦に振った。


「護衛を二人つける。そして、図書館以外へは一歩も立ち寄ることを許さん。それでいいな」


「感謝いたします、お父様」


 カレンは、深く頭を下げた。心からの感謝ではなかった。取引が成立したことへの、安堵に過ぎない。


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