子爵令嬢の回顧。(2)
※引き続き、ビアンカ・フォン・ディーボルト視点です。
「……勿論よ。姉さんはマリーちゃんと仲良しなんだから」
冗談めかして言う。反応が少し遅れてしまったのは、王女様という単語と船旅で仲良くなった少女とをすぐに結びつけられなかったからだ。
マリーちゃんは聡明で大人びた子だが、年相応の可愛らしさも持っている少女だ。尊大なところもなく、寧ろ親しみやすい。そんな彼女が王女様だと知らされても、実感は湧かない。
だが、私達を拒絶する街の人間に啖呵を切ってみせた時の顔を思い出せば、納得できてしまうのだから不思議だ。
「そうなんだ」
「そうよ。あんなに可愛い子を、私が放っておく筈ないでしょ?」
「確かに王女様は姉さんの好みだね」
ミハイルは、クスクスと柔らかな笑みを零す。
「本の中からお姫様が抜け出して来たのかと思ったわ」
我ながら、なんて夢見がちな思考だろうと自嘲したが、あながち間違いでもなかった。時に現実は、御伽噺よりも奇妙なものらしい。
「それにマリーちゃんは容姿だけじゃなくて、中身まで可愛らしいのよ。びっくりしたわ。目の覚めるような美少女なのに、驕り高ぶったところが一切ないんだもの」
「うん、王女様は凄いんだ。偉ぶってないのに、偉い」
おかしな言い方だと思った。だが、言いたいことは分かる。
マリーちゃんは、誰も見下していない。貴族も庶民も同じように扱うし、誠意を尽くそうとする。にも関わらず、自分の地位を使って誰かを守ろうとする事を厭わない。
一見矛盾しているそれらを、並立させてしまうのだ。
「王族としての権利を主張しないのに、義務は果たそうと努力する。オレより年下の女の子が、無理して背伸びするんじゃなくて、息をするように自然にやるんだ。凄いと思った。……そして同時に、自分が恥ずかしくなったんだよ」
苦いものを飲み込んでしまったみたいに顔を顰めたミハイルに、私はなんて声をかけたらいいのか分からなかった。
「ミハイル……」
「オレには、他の人にはない特殊な力がある。限定的で使い勝手が悪い力だけど、誰かを助けられる祝福の力。でもオレには、呪いにしか思えなかったんだ」
ミハイルは俯いて、両手を組む。
「助けても、きっと拒絶される。治しても喜んでなんて貰えない。近付くな、化物って罵られるんだ。だったら使わない方がいい。力なんか使わなくても人助けは出来るって、自分に言い聞かせてた」
被害妄想だと、責められなかった。
ネーベル王国の人間は、魔力持ちに厳しい。そして人間は異端を忌避するものだ。それは危険を回避して生き延びる為の本能であり、理性でどうにか出来るものではない。
ミハイルに命を救われた人間がいたとして、全員が全員、感謝を示すとは思えない。否、恐れる人の方がきっと多いだろう。
「でも、結局どう取り繕っても同じ。オレは見ない振りをしてただけ。助けられる命から、目を背けていただけだ」
「っ! そんな事……」
そんな事ないと言おうとして、言葉に詰まる。ミハイルは目を伏せたまま、ゆるく頭を振った。
「あるんだよ。風邪を拗らせて死んでしまった人や、怪我が化膿して命を落とした人が、世界のどこかにいたかもしれない。オレなら助けられたのに」
「世界中の人を助けるなんて無理よ! 理想と現実は違うわ!」
「うん。でも、それは努力した人だけが言っていい言葉だ」
「っ、」
「少なくとも、目を塞いで縮こまって、全部が終わるのを待っていたオレが言っていいセリフじゃない。それに、王女様ならそんな事言わない。助けられたかもしれないのに、自分の力不足で失われた命を前に、『しょうがない』なんて口が裂けても言わないよ」
ミハイルが顔を上げる。風のない夜の湖畔のように、凪いだ瞳だった。
私はミハイルを見つめながら、同じように静かな瞳をした少女の事を思い出す。
マリーちゃんは、失われそうな命を前に、泣いて取り乱しながらも、決して諦めようとはしなかった。一度は折れかけた心を懸命に奮い立たせ、歯を食いしばって立っていた。
仮に――こう前置きしても、躊躇われる言葉だが、もしクラウスが助からなかったとしたら、マリーちゃんはどうしただろうか。
しょうがない、なんて。理想と現実は違うなんて、己を慰めるような言葉を言うだろうか。否、誰かが彼女をそう言って慰めたとしても、きっと頷かなかっただろう。
全力を尽くした自分を正当化したりしない。無力を嘆いて、きっと自分を責める。他の誰も責めずに、自分だけを責め続ける。
「本当に覚悟を決めた人間は、誰のせいにもしない。結果が悪くても、努力が報われなくても、ちゃんと受け止められる。オレもそう在ろうって、やっと思えたんだ」
穏やかな顔をしたミハイルは、静かな声でそう言った。
「誰に拒絶されても、嫌われても、前を向いて進もうって決めた。オレは弱いから揺らぐけど、引き返すのだけは止めようって思ったんだけど……嬉しい誤算がいっぱいあったんだよ」
そこまで言って、ミハイルは可笑しそうに眦を緩める。頬を少し染めて、ちょっと嬉しそうだ。
「友達と先生が出来たんだ。王宮の魔導師長のイリーネ様は厳しい方だけど、凄く優しい。オレをいつも気にかけてくれる。友達……ゲオルクはオレの力を知っても、驚くだけで嫌わないでくれた。それも個性だろうって。実際に力を見せた事はないんだけど、きっと受け入れてくれるんじゃないかって、今なら信じられる」
「そう」
私も釣られて笑う。
可愛い弟の独り立ちは寂しいけれど、それ以上に嬉しい。私がいなくても、もうこの子は一人じゃないんだ。誇らしいと素直に思えた。
「オレ、偏った目で見てたんだね。世界には怖い事と同じくらい嬉しい事があって、オレを拒絶する人がいるように、受け入れてくれる人もいる。なら大丈夫だ。大切な人に拒絶されても、オレは自分を認めてあげられるって……そう、思ったのに」
ミハイルの声が震えて途切れた。
夜空の如き濃い藍色の瞳から、透明な雫が零れ落ちる。雨粒みたいに、ほろほろ、ほろほろと。
理由が分からなくて私が固まっている間に、ミハイルは己の顔を両手で覆う。膝に顔を押し付けるように、背中を丸めた。
「ミハイルッ?」
私は慌ててベッドから下りた。マットが跳ねてクラウスの体が揺れたが、気遣う余裕がない。
ミハイルの前に立った私は、彼の肩に手を置いて、顔を覗き込んだ。
両手で隠れて表情は見えない。でも指の隙間から滴り落ちた滴が、ミハイルの感情を代弁しているかのようだった。
「ミハイル……」
「ぁり、がと、……って」
「え?」
高ぶった感情に掠れた声を、私は聞き漏らした。
もう一度言ってくれと私が請う前に、ミハイルは顔をあげる。
「……っ、」
絶句した。己の目に映ったものが信じられなかった。
哀しげに曇った顔を想像していた。辛さを堪えた、痛々しい笑みを思い描いていた。
だというのに、ミハイルは笑った。
幸福に頬を染めて、眦と口の端を緩めて。嬉しくて嬉しくて堪らないのだと、体現するみたいに。
「ありがとうって、言ってくれたんだ」
大切な宝物を披露する子供みたいな顔で、幸福を噛みしめるように呟いた。
「私の大切な仲間を、助けてくれてありがとう、ミハイルって。王女様は泣きながら言ってくれた。オレの両手を握りしめて、心からの感謝を捧げてくれたんだよ」
ああ、ミハイルは報われたのだ。私はストンとそう理解した。
あの日……父に突き放され、母に怯えられた子供は、やっと欲しい言葉を貰えたんだ。ミハイルが望んだのは尊敬や賞賛じゃない。地位でも名誉でもなく、ましてや金なんかである筈もない。ただ一言、ありがとうって言って貰えれば、充分だった。
「……そう。良かったわね、ミハイル」
私は座ったままのミハイルの頭を、そっと両の腕で抱き寄せた。
自然に笑みが浮かぶ。哀しみではなく喜びが、胸を満たした。僅かばかり滲む寂寞は、いつかきっと幸福に溶けていく。だから大丈夫。
「うん、姉さん。オレ、この力を持っていて良かった」
胸が一杯になる。
いつか。いつか、この言葉を言ってくれたなら。そう思っていた。
まさか、こんなにも早く聞けるなんて想像もしていなかった。
「そっか」
私の後ろに隠れて泣いていた弟は、もう何処にもいない。ミハイルは決然とした光を宿し、一歩一歩踏みしめて歩いていく。道程で、大切な人を増やしていきながら。
「もう、姉さんがいなくても大丈夫なのね」
「……姉さん?」
腕の中のミハイルが、身動ぐ気配がした。でも抱き締める腕の力を込めて、顔は上げさせないようにする。
こんな情けない顔、見せたくない。
「私は駄目な姉さんだわ。貴方の自立を妨げてばっかり。その上、こんなところまで追っかけて来ちゃうなんて、過保護を通り越して重いわね」
私はミハイルを大切に囲い込むのではなく、ちゃんと信じて見守ってあげるべきだったんだ。
やっと分かった。
「鬱陶しかったわよね。ごめんなさい」
「姉さん」
「でも心配だったのよ。ミハイルは純情だから、変な女に捕まっちゃうんじゃないかって気が気じゃなかったわ。でも女の子を見る目があるみたいだし、もう大丈夫ね」
「姉さん」
「これからは、何も言わない。貴方のやりたいように……」
「姉さん!」
強めの声で呼ばれて、腕を無理矢理引き剥がされた。
いつの間にか、力でも敵わなくなっていたらしい。ああ、もう。ミハイルを守るなんて、とっくの昔に不可能になっていたのね。
嬉しい。頼もしい。誇らしいわ。ミハイル。私の大切な弟。
「姉さん……泣かないで」
「……え」
唖然とした声が洩れた。そっと頬に触れたミハイルの手が、滴を掬い上げる。
私は、自覚のないまま泣いていたらしい。どうして。
「オレ、鬱陶しいなんて一度も思ったことないよ」
「……そうね。貴方は優しい子だから」
自嘲に唇を歪めると、ミハイルは少し怒ったような表情になった。
「違うよ。優しいのはオレじゃなくて姉さんだ。泣いてばかりの弟を抱きしめて、ずっと傍にいてくれた。そんな貴方を、オレがどうして慕わないと思うの?」
「ミハイル?」
「大好きだよ。姉さんがいなくちゃ、オレはとっくにダメになってた。貴方が愛を注いでくれたからこそ、今、こうしてここに居るんだよ」
そっと、抱き締められる。硬い感触。
細くて頼りなかった体は、男の子のものになっていた。
「大好きだからこそ、姉さんの重荷になりたくなかったんだ」
「怒るわよ!? 重荷なんて思った事ないわ」
聞き捨てならない言葉に、顔をあげる。睨み付けると、少し高い位置にある顔が、嬉しげに綻んだ。
「うん、知ってる。でもね、オレは姉さんに幸せになって欲しかった。オレの事ばっかり気にして、自分を二の次にする貴方に、自分自身の幸せを考えて欲しかったんだ」
「……だから、何も言わずに家を出たの?」
「言ったら、貴方は止めただろうから」
目を見開いた私を見て、ミハイルは苦笑を浮かべた。
それから、そっと寄り添うみたいに、私の頭に頬を寄せる。
「ねえ、姉さん。オレはもう、貴方の陰に隠れるしか出来ない子供じゃないよ。貴方が幸せになるために歩き出すんだったら、見送れるくらいには強くなった」
なんでそこを、オレが幸せにするって言えないのかしら。
女心……ううん、母心の分からない子。
私の幸せは、貴方の姉である事。貴方と、貴方のお嫁さんと仲良くしたい。貴方の子供を抱かせて貰えたら、もう言うことないわ。
でもそれは、私の幸せじゃないって、貴方は言うのね。
貴方みたいに大切な人を見つけて、増やして。私自身の世界を広げろって、そう言うのね。
強くなったわね、ミハイル。
姉さん、寂しい。でも嬉しいわ。
「オレが、姉さんを任せても大丈夫だって思える人を見つけてきて。沢山意地悪して困らせて、それでも諦めなかったら、ちゃんと祝福するから」
「何よ、それ」
「オレの大事な姉さんを宜しくお願いしますって、笑って送り出してあげる」
ミハイルの赤くなった鼻を、私は摘み上げた。
「弟のくせに生意気よ」
そんな幸せな未来が待っているなら、この胸の痛みもきっと無駄じゃないわね。
私は胸中で呟いて、ミハイルと同じような泣き笑いを浮かべた。
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