子爵令嬢の驚愕。
※ビアンカ・フォン・ディーボルト視点です。
「おい、見えたぞ! もうすぐだ」
船員の声に反応して、私は顔を上げる。
彼が指差す先、陸が見えた。起伏の少ない赤い大地が視界に広がる。目を凝らせば、町の存在に気付く。
当初目指していた、フランメ南東の港町ブラオではない。もっと南寄りに位置する港町だ。ブラオに比べて規模は小さく、設備に不安はあるけれど、致し方ない。
クラウスは、生死の境を彷徨っている。ヴォルフの的確な指示と薬のお陰で、持ち堪えてはいるものの、いつ容態が急変してもおかしくない。
いくらヴォルフが優秀であろうとも、船の上では出来ることにも限りがある。水や布、薬も既に尽きかけていた。
状況は絶望的。けれど、誰も悲観はしていない。今の自分に出来る事を全力でやろうと、駆け回っている。怪我人も、さっきまで泣いていた我侭お嬢様も含め、全員が。
それは、何故か。
問われれば、皆が同じ答えを返すだろう。
彼女が、諦めていないからだと。
「もうすぐだって、クラウス」
クラウスの手を握る少女……マリーちゃんは、語りかける。
『兄さん』ではなく『クラウス』と名前を呼んでいることに、彼女自身が気付いているかは分からないが、周りの人間は薄々察している。彼等が本当の兄妹ではないだろう事を。
育ちの良さそうなマリーちゃんと、剣の扱いに長けるクラウス。たぶん良家の子女とその護衛、それが二人の正しい関係。
だが、今、そんな野暮な指摘をする人間は一人もいなかった。
「頑張って」
祈るような声に、皆の視線が自然とマリーちゃんへと吸い寄せられる。
そして、そのまま視線は縫い留められた。
クラウスの手を握り締めるマリーちゃんの向こう側。水平線から太陽が顔を出す。差し込んだ朝陽が、マリーちゃんの輪郭を浮かび上がらせた。
編み込んでいた髪が解け、潮風が舞い上げる。ブラウンの髪は毛先だけ、彼女の本来の髪色に戻っていた。湯で落ちる染料だったのかもしれない。
キラキラ、キラキラと光を弾くプラチナブロンド。
思わず見惚れた私の耳に、呟きが届く。女神、と誰かが掠れた声で言った。
声は一人のものだったが、きっと同じことを皆が思っている。
マリーちゃんの髪は乱れて、汗で額や首筋に貼り付いているし、顔も手も服も、泥や血で汚れて酷い有様だ。
でも、それでも。その横顔は、何より誰より美しく見えた。
侵し難い空気を纏うマリーちゃんに気圧されたのか、それから誰も彼女に声をかける事がないまま、船は港へと滑り込んだ。
朝の港は、人で混み合っていた。
小さな手漕ぎの舟は多いけれど、大きな帆船は一隻もない。ここはブラオのような交易港ではなく、漁業に携わる人間の為の小さな港なのだろう。深さ的にも、大型の船には向いていない。この船がギリギリなラインだと思う。
見慣れない船が近付いてきた事に警戒し、武器を持つ人間が集まってくる。
船員達は、敵意がない事を示す為に白い布を振った。船を桟橋に寄せると、一人の男が近付いてくる。
四十過ぎくらいの男は、抜き身の剣を手にしたまま、警戒心も顕に船上の私達を睨み付けた。
「命が惜しければ、即刻立ち去れ」
「町に入れてくれ! 怪我人がいるんだ!」
「断る。怪しい船を入れるような馬鹿な真似、誰がするか」
「入港許可証ならある! ……ここではなく、ブラオのだが。海賊に襲われて、怪我人がいる。頼む、助けてくれ」
懇願する船員を見て、男は目を眇めた。面倒事は御免だと言わんばかりの、渋面を浮かべる。
「尚更だ。とっとと出て行け! 海賊がお前らを追って来たら、どう責任を取ってくれるんだ!?」
男の言い分は、尤もだった。
誰だって、自分が可愛い。それに自分の家族や仲間達にまで火の粉が及ぶとなれば、余計だろう。周囲の安全の為には、他人は切り捨てる。非道だとは思うが、理解は出来る。
でも、だからといって引く訳にはいかない。
そして、これ以上、押し問答を続けている時間もなかった。
「か、海賊なら皆死んだわよ……!」
さて、どうするか。そう思案していた私の耳に飛び込んできたのは、若い女の声だった。隣に視線を映すと、我侭令嬢の姿。確か名は、フローラだったか。
「腕の立つ騎士が偶然乗っていて、全員倒してくれたわ。船も燃えたから、追ってくる心配もないわよ」
フローラは、だから何の心配もないのだと、必死に訴える。
そんな彼女の様子に、私は驚きを隠せなかった。
「だから、お願い。私達を受け入れて」
船の縁についた白い繊手も、声も震えている。横顔は青白く、首筋を冷や汗が伝う。
桟橋から見上げてくる男と、男の持つ剣が恐ろしいんだろう。ついさっきまで、命の危険に晒されていたのだから当然だ。
それでも、男から目を逸らさない。
さっきまで蹲って泣いていたのに。震えるだけで、なにも出来なかったのに。一体、この子のどこに、こんな勇気が眠っていたのだろう。
「それを証明出来るのか」
しかし、彼女の懇願は男には届かなかった。
出来る訳がない、と言いたげな表情と声に、フローラは唇を噛み締める。
「それは……」
「さっさと帰んな。可愛らしいお嬢ちゃん」
か弱い少女の懇願をあっさりと退け、嘲笑う。
なんて醜悪なんだろう。
腰抜けが、と胸中で唾棄する。
煽って決闘にでも持ち込んでやろうかと、物騒な考えが浮かぶ。
「か、帰らないわ!」
フローラは迷いを振り切るように、大きな声をあげた。
「わた、わたくしは、グラーツ男爵家の長女、フローラ・フォン・グラーツですのよ!」
胸を張り、フローラは高圧的に言い放つ。
足はガクガクと小刻みに揺れ、腰が引けていたが、それでも頑張って高慢な令嬢を演じた。
「私を拒絶して、許されるとでも思っているの?」
「……へえ、良い身なりのお嬢ちゃんだと思ったが、お貴族様かい」
男は値踏みするような目で、フローラを眺める。
遠慮のない視線に晒され、居心地悪そうにフローラは身動ぎをした。表情からは戸惑いが感じ取れる。家名を言えば、僅かなりとも優勢になると信じていたのだろう。
だが男は、萎縮するどころか動揺すらしない。
「で? 他国のお貴族様が、なんだってんだ?」
「……っ、私の大叔母様は、アイゲル侯爵家に縁のある方で」
「そりゃ凄い。だが、それだけだ」
フローラの言葉を遮り、男は鼻で笑った。
「フランメの貴族なら、無視すれば後々面倒な事になるのも分かる。だが、あんたらは異国の民だ。遠く離れた国にまで干渉出来るほどの力が、あんたの家にはあるのか?」
「……っ、わたくし、は……」
フローラの目に、じわりと涙が浮かぶ。しかし、彼女は泣きはしなかった。
悔しげに言葉を詰まらせながらも、その目は諦めてはいない。必死に言葉を探している。
よくやった、もういい、とその細い肩を抱き寄せて、頭を撫でてあげたかった。あんなにも小憎たらしいと思っていた我侭令嬢に、こんな感情を抱く事になるなんて。人生は分からないものだ。
「男爵だろうと侯爵だろうと、知ったことか。こっちは生活がかかってるんだ。どうしても言うことを聞かせたいってんなら、せめて王族でも連れてくるんだな! そうしたら、医者でも何でも呼んでやるよ!」
鼻を膨らませ、嘲笑うように男が言った。
「その言葉、二言はございませんね」
凛とした声音が響く。
張った訳でもないのに、その声はやけに良く通った。吸い寄せられるように視線が集まる中、少女は背筋を伸ばし、一歩踏み出す。カツン、と硬質な靴音が鳴った。
「……な、」
真っ直ぐに向けられた目に、男は怯む。吐き出しかけた悪態を飲み込み、一歩後退る。
少女……マリーちゃんは、男を睨んではいない。それどころか、静かな横顔からは、怒りも苛立ちも見つけられない。声も荒らげず、表情は穏やかなまま。
だというのに、小さな女の子に、大の男が気圧されていた。
「王族の願いであれば、聞き届けて下さると、貴方はそう仰った。間違いございませんか」
「そ、それがどうした!?」
「間違い、ございませんか」
「っ、……言った。それがなんだってんだ!?」
男はマリーちゃんに気圧された事を恥じるように、噛み付く。
するとマリーちゃんは、綺麗な微笑みを浮かべた。
「言質はとりましたよ」
その笑みは、十三、四の少女とは思えない迫力があった。凄艶、という言葉が頭を過る。
可愛らしいだけの女の子だと思った事はないけれど、それでも予想外すぎる。この子は一体、何者なんだろうか。
沢山のヒントが、あちこちにばら撒かれているというのに、私の頭はまともに働いてはくれなかった。
誰も言葉を発する事も出来ずに見守る中、マリーちゃんは踵を返す。
横たわるクラウスの傍へと戻ると、湯の入った桶を掴んだ。
「ネーベルの王族の特徴、ご存知でしょうか?」
重そうな桶を両手で運びながら、マリーちゃんは問う。
「それは、……当たり前だろ」
男は、言葉を詰まらせながらも答えた。
王族の特徴……しかも他国のものなど、普通は知らない。だがネーベルは、有名だった。遠く離れた国の、小さな町に済む漁師にすら、『当たり前』だと言われる程に。
かの王家は、皆、美しい容姿をしていた。
故に、多くの人達の憧れとして知れ渡る。噂や、吟遊詩人の歌にと形を変えて。
「第一王女についても?」
「そりゃそうだろ。将来は傾国の美姫、間違いなしと言われている方だぞ」
そこでマリーちゃんは、はじめて表情を崩した。
困ったような顔で、それはどうだろう、と小さな声で呟く。しかし可愛らしい表情は、数秒も経たない間に消えてしまった。
どんな? とマリーちゃんは、男の言葉の続きを促す。
「どんなって、確か……白い肌に」
かの人の肌は、新雪の如き白さ。
「青い瞳で」
かの人の瞳は、晴れ渡る空を映した海のように青く。
「波打つ、太陽のようなブロンド……」
その言葉と同時に、マリーちゃんは桶を頭上に掲げた。
制止をかける間もなく、湯が勢い良く彼女の上から降り注ぐ。
その行動に度肝を抜かれた男は、次いで、目の前の光景に驚愕し、言葉を失くした。
東の空に浮かぶ太陽を背に、凛と立つマリーちゃんの手から桶が落ちた。がらん、と響く音を聞きながら、私も彼女の姿に見惚れたまま、呆然と立ち尽くす。
ぽたり、ぽたりと雫を落とすプラチナブロンドは、朝陽よりも眩く。
濡れた肌は、雪花石膏の如き滑らかな美しさ。
額に張り付いた前髪を退かす手の向こう、強い意志を宿す青い瞳が輝く。
マリーちゃんの元の髪色に、薄々気付いていたであろう船員も、マリーちゃんの本来の姿を知っている私でさえも。
その美しさに目を奪われて、声を発する事すら儘ならない。
「ネーベル王国第一王女、ローゼマリー・フォン・ヴェルファルトと申します」
お約束どおり、医者を呼んで貰えますか。
そう言ったマリーちゃんに、誰も反応出来なかった。
マリーちゃん以外の人間が現実に引き戻されるのに、凡そ一分弱の時間を要した。
「っ、アンタが、王女様だって証拠はあるのか!?」
我に返った男は、雰囲気に呑まれている現状を打破するかの如く声を張り上げる。
しかしマリーちゃんは慌てる様子もなく、いいえ、と平坦な声で答えた。
「だ、だったら!」
「ですが」
透明度の高い双眸に見据えられ、男は息を呑む。
「私が本物だった場合、貴方は責任が取れるのですか? ローゼマリー・フォン・ヴェルファルトの大切な人を見殺しにした、重大な罪を贖えると?」
突き付けられた言葉に、男は絶句する。
否と唱えるものは、もう誰もいなかった。
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