✢✢単話完結オムニバス✢✢ すはらよすはら 恋の営業妨害
日曜日の昼下がり。
なめこ川は大学の裏地にある洲原池のアヒルボートが残っているかをチェックする。
このボート乗り場は土日のみの営業で、周辺のアパートに住んでいる大学生や、周辺の子連れのファミリーを中心に集客していた。
だけど『恋人と乗ると別れる』という、洲原池悲恋伝説が広まってから急激に利用者が減ってしまったらしい。
ボート会社の経営難を心配したなめこ川は、暇を見つけてはボートに乗るようにしている。
なめこ川はそもそもお独り様なので、噂も何も全く気にする必要がないのだ。
なめこ川はアヒルボートが大好きだった。
ここには手漕ぎボートが3つとアヒルボートが1つのみである。
「やあ、今日も来たね、アヒルちゃん」
いつも、一つしかないアヒルボートを狙ってやって来ては、独りで乗船する風変わりな少女は、従業員に顔を覚えられていた。
「アヒルボート残ってるよ。はい、どうぞ」
まだ学生と同じくらい若く見える、どこかエキゾチックで端正な顔立ちの従業員は、すーい、と池の奥に停まっていたアヒルボートを棒で引き寄せ、慇懃丁寧になめこ川の手を取ってアヒルボートに乗せてくれた。
「君はお独り様だから、心配なんだけど············」
端正な顔立ちの従業員は含みのある目配せをする。
「···········遭難、しないでね?」
こんな小さな池で遭難するはずがないのでは?
と思ったものの、なめこ川はこくりと頷いた。
エキゾチックで端正な顔立ちの従業員は、意味深にふふっと笑う。
「いいけどね。そうすれば僕が迎えに行くから」
なめこ川は、いざ、漕ぎ出した。
「おりゃりゃりゃりゃりゃ!」
従業員はうっとりとその様子を眺めて呟いた。
「勢いはあるっぽいのに、なんてゆっくりなんだろう。はあ、可愛い········好き············」
今日もそうやって、
なめこ川のアヒルボートのえっちらおっちら進んでいく後ろ姿を生温かく見守る時間は、彼にとって約得以外の何物でもなかった。
なめこ川の運転には他にも多々問題があった。
とにかく、コントロールが悪い。
何処へ漕ぎ出したのか、それはなめこ川にも分からなかった。
しばらく宛ども無く洲原池を彷徨っていると、池の奥に一つの手漕ぎボートがぽつんと浮いている。
ぶつかるといけないと、なめこ川はそちらの方向を避けようとするが、まるで水流に引き寄せられるように、ぐんっとぐんっと近づいて行ってしまう。
一直線にその手漕ぎボートへ接近して行き、ハンドルを握りしめたアヒルボートの中のなめこ川はいよいよ南無三と目を瞑った。
ゴツンッッッ······!
結構な衝撃で、ボートとボートはぶつかった。
しかし、········手漕ぎボートには人影がない?
「まさか、もう、死··········」
なめこ川は恐る恐るボートを覗き込む。
「ああっ」
そのボートの舟の底には、見知らぬ背の高い男性が横たわっていたのだ。
「あわわわ···········」
なめこ川は絶対に死んでいると思ったが、そうではなかった。
その背の高い男は、眠り姫のように眠っていたのだ。
まるで男版オフィーリア。
眠り姫のように穏やかな寝顔·········
いいや、負傷兵のように苦しそうに········?
男の顔は無表情で、普通に眠っているのか、苦しんで気を失っているのか、どちらとも察することはできなかった。
「ねえ!おーい!」
なめこ川は、ありったけだが、大きいとは言えない声量で呼びかけた。
応えはない。
やはり心配になったなめこ川は、アヒルボートを乗り捨て、男の乗る手漕ぎボートに、それこそ命がけで何とか飛び移ることに成功した。
これは事件?
それともただの昼寝?
なめこ川が男の頬をペチペチとたたけば、
「ぐっっ、」
次第に、男は苦しそうに顔を歪ませていった。
「苦しそう···········
なるほど。これは事件、ということだね···········」
なめこ川は目をキラリと光らせた。
何よりも救助が最優先だ。
そして、さあ、自分がこの手漕ぎボートを漕いで船着き場へ行こうと、両手にオールを握り締めた。
「ええーーーいしょ!」
しかし、なめこ川の力は微弱で、船は全く進まない。
二人分の荷重のある手漕ぎボートは、なめこ川の漕ぐ力で前に進むには重すぎたのだ。
程なくして、異変に気づいたのだろう、エキゾチックで端正な顔立ちの従業員の男が、ものすごいスピードで、こちらへ手漕ぎボートで救助に向かって来るのが確認できた。
「めちゃくちゃ速い!!」
タイムリミットが迫る。
なめこ川は空を仰いだ。
自分はいつもこうだ。いつも力及ばずなのだ。
今回も、結局は困ってる人に何もしてあげられなかった。
なめこ川は手を合わせて無力な自分を呪う。
なめこ川は、呪文を唱えた。
「スハラよスハラ。時間を止めて·········」
そして···········どういうわけだろう?
パチリ、男は目を覚ました。
「··············ここは、近い未来、遊園地になる。
それをやるのは、この俺だ。
手始めにこの一帯の土地を買い上げてやる············」
そしてとんでもない不穏な言葉を語り出した。
「アヒルちゃんーーーー!こっちへ来て!」
気づけば、もう従業員の手漕ぎボートは到着している。
「どうしたの?もう、他の船に飛び移るなんて危ないからダメだよ?」
「でも·········この人が困っていたので·········」
なめこ川は非難されて、小声でぼそぼそ話すしかない。
「困ってないよ。コイツはとんでもない奴なんだ。
地上げ屋の会社の息子で、この池どころか大学やここ一帯の土地もろとも買い上げるのを虎視眈々と狙っているんだ。ずっと仲間とこの辺りの地形を調査する為に徘徊している。あいつ等はハイエナのような奴だよ」
「え」
「今回だって、ただの敵情視察だよ。
僕は鬱陶しいからボートの使用時間が来ても放ったらかしにしてたんだ」
「でも·········倒れていましたし··········」
「何言ってるの?寝ちゃってただけでしょ!」
そう言って、従業員は男を睨みつけた。
すると、男は苦しそうに唸って身体を起こした。
彼は寝ぼけているだけのただの大学生に見える。
「おや、もうこんな時間か。制限時間をとうに過ぎてしまったな。早く戻るとするか··········」
男はなめこ川が乗っているのに気がつかないのか、ボートの櫂を持って漕ぎ出そうとする。
「ダメだよ。アヒルちゃんは降りて。
ねぼすけの運転は危ないから、僕のボートに乗って。アヒルボートは後で回収すればいいからね」
「えっと、では、そっちに行きますね·····」
なめこ川は従業員の言う事には従わないといけないと思った。しかし、『他の船に飛び移るなんて危ないからダメ』と言われたばかりでもある。
「あ!違った!」
そこで、従業員はなぜか大声を出す。
「僕たちは一緒にボートに乗ってはダメだ!」
「え?」
「僕は君が好きなんだ!
僕はきっと、これから君に告白をする流れだから、
一緒にボートに乗ったらダメなんだ!」
従業員は洲原池悲恋伝説を思い出していた。
「ええ? じゃあ、私はどうしたら········」
「アヒルちゃんは、アヒルボートに乗ってね!」
なめこ川は振り返ると、あの愛しのアヒルボートは随分離れた所で静かにたゆたって浮かんでいる········
「と、届かない」
全く予想もしていなかった。
まさか、自分がこんなふうに窮地に立たされるなんて。
なめこ川は泳げない。
アヒルボートにも乗れない。
男のボートに乗るのも従業員のボートに乗るのも従業員に禁じられる。
「フン、このまま俺のボートに乗っていればいい」
男は幾分目が覚めたのだろう、落ち着いた低い声で言った。
「へ」
「俺はそんなくだらない迷信は気にしないからな·······」
「いや、そもそも、カップルじゃなければ別れるも何も、気にしなくていいです、よね?」
この場所に、ボートの相乗りの心配をしなくてはいけないような相手は、なめこ川には存在しないのだ。
だからどちらにも乗せて欲しいと思う。
「··········フ、なぜなら、その噂を流したのは、他でもない俺自身だからだ」
男はなめこ川の耳元で小さく囁いた。
「!!!お前っ、まさか、うちの営業を妨害するために、あんな悪どい嘘の噂を流したんだな··········!」
耳聡い従業員はそれを聞きつけて、悔しそうに叫んだ。
「仕方ない、では行こう。
君は気にするなよ。これも人助けだからな。
あいつの恋の営業妨害もできるなんて、こちらにも益はあるというものだ」
なめこ川は、不本意ながら自らが人助けされて岸に戻ることになったのだ。
「··········あれ、ど、どこへ向かうんですか?」
気づけば、ボートの船着き場とは明後日の方角へ進んでいる気がする。
「敵の本陣へ飛び込むわけにはいかない。あいつは、あの大学を含むここら一帯の地主の息子だからな。いわば買うか買われるかの、ここは戦場だ。
これからこの池の反対側の俺のアジトへ向かう」
男は勝ち誇ったように言うではないか。
アジトって、例えばアマゾン川の上に潜むゲリラのような?
あの従業員の話も、この背の高いの男の話も、聞いていると全く別世界へ引きずり込まれて迷い込んだような不思議な感覚に陥る。
ここは平凡な片田舎の大学の裏地にある洲原池の上のはずなのに。
「················あそこの、アヒルボートまで送ってもらえますか?」
「んっ?」
「おりゃりゃりゃりゃりゃ!」
日曜日の昼下がりはもうじき日が暮れなずみそう。
なめこ川は、アヒルボートで無事に自分の安全な世界へ帰還する事ができたのだった。