ローゼマイン視点 アレキサンドリアの噂と領主執務室
本編終了後のアレキサンドリアの一コマ。
旧アーレンスバッハ時代、次期領主とされていたディートリンデは領主の執務をあまりにもこなさず、王命の婚約者であるフェルディナンドに丸投げしていた。それがアレキサンドリアになっても続いていて、王命の婚約者が今も全ての執務を握っている。そのため、「一度手にした大きな権力を手放したくないのだ」と噂されている。
アレキサンドリアの領主執務室で一人の文官がアウブに意見を述べていた。執務中に文官が出入りするのは全く珍しくない。だが、資料の提出を終えても自分の部署に戻らずに訴え出る文官は珍しい。
「神殿教室ですが、店員の教育もできない商人を貴族の専属にする必要はありませんし、目をかける商人のところに教師を派遣して教育するのは貴族の役目です。彼等の仕事を奪うことに繋がります」
「では、教師を神殿に派遣してください。良い教師だと判断できれば神殿で雇いましょう」
領主執務室に来て神殿教室は必要ないと訴える彼の言葉に、わたしは執務机で席に着いたまま笑顔で回答した。大したことを教えないのに高いお金を払わなければならない教師がいると訴える平民の商人と、教師の雇用をできる限り守りたい貴族のどちらにとっても問題のない完璧な回答だと思う。
だが、彼が望んだ回答ではなかったらしい。文官は顔を顰めて一つ息を吐いた。その反応にわたしの背後に立つ護衛騎士のシュトラールと文官として会話を書き留めているハルトムートがピクリと動く。
……もうこの人を領主執務室で見ることはないだろうな。
わたしを舐めた態度を取った貴族は、直接顔を合わせる場に出入りできなくなるらしい。別に処罰するわけではないが、それとなく遠ざけると聞いた。未成年の女性がアウブだから多少は仕方ないと思うけれど、感情を秘めることもできなくて領主一族に対する態度として失格と言われれば反論はできない。
……早めにお許しが出るといいね。
そう思いながら文官に退出を促そうとしたところで、彼は顰め面のままで再び口を開いた。まだ訴えは終わっていなかったらしい。
「神殿教室に加えて、神殿図書室もあると伺いました。アウブがそちらに尽力するならば、城にあれほど大きな図書館など必要ないのでは?」
……はぁ!?
目の前の文官が何を言っているのかわからなくて、わたしは目を瞬かせた。本はどんどん増える。本棚なんてあっという間に埋まるし、気付いたら本棚に収まりきらない本が床に積み上がるものなのだ。
「大きな図書館は必要ですし、新しく作る図書館を最大限大きくするのは当然でしょう。フェルディナンドに止められなければもう少し大きくできたのですが……」
またしてもわたしの反応が自分の予想と違ったのか、やや困惑した様子で文官が大きな図書館が必要ない理由を説明し始める。
「部外秘の資料は誰でも入れる図書館に置けませんし、頻繁に使う資料を仕事場から距離のある図書館に置かれると困ります。執務には資料室があれば充分ではありませんか」
わたしは思わず「何を言っているのかわからない」顔になってしまった。あまりにも理解不能で貴族らしい笑顔を取り繕うのも難しい。
「資料室が必要な理由は理解できますが、資料室があれば充分という意見は理解できません。資料室しかなければ、執務以外の時間を本もない状態でどう過ごすのですか? 人間の生活に図書館は必須でしょう?」
「……は?」
相手もわたしの言うことが理解できなかったらしい。怪訝な顔になっている。お互いに理解不能な顔をしていると、そっとハルトムートが背後から声をかけてきた。
「ローゼマイン様、残念ながら世の中には仕事以外で本を読まない者もいるのですよ」
「……騎士にその傾向が多いことは存じていますけれど、彼は文官ですよ。文官なのに大きな図書館が必要ないと言うなど信じられません。……もしかして密偵や影武者では?」
ゲオルギーネやグラオザムの影武者が何人もいたのだ。旧アーレンスバッハの貴族ならば、影武者がいても不思議ではない。わたしが目の前の彼が本物の文官なのか怪しむと、彼は必死でハルトムートに向かって弁解し始めた。
「図書館が必要ないとは申していません。大きすぎると感じているだけです。城に勤める貴族が減ったことで多くの司書を置くことはできませんし、まだ資料や本は少ないことから利用者もほとんどいません。しばらくはアウブが訪れる土の日だけ開館すればよいのではないかと提案しようと思っただけで……」
……いやいや、図書館だよ? わたし以外の人も利用できなきゃ意味ないよね?
ディートリンデが読書に興味を示さなかったせいか、旧アーレンスバッハの貴族は読書に親しみがなさすぎる気がする。図書館都市を目指す以上、この本離れの現状を急いで変えなければならない。そのためには大人より子供達の教育に力を入れるべきだろう。
「ハルトムート、プランタン商会に連絡を。本や教育玩具を揃えるように言ってください」
「クラリッサ、至急冬の子供部屋で使う部屋と貴族院の多目的ホールに本棚を入れてください。冬までに教育環境を整えましょう」
「かしこまりました」
ハルトムートとクラリッサが歯切れ良く返事をしたところで、リーゼレータとフェルディナンドが領主執務室に入ってきた。どうやらリーゼレータがフェルディナンドを呼びに行っていたようだ。
「ローゼマイン様、何やら文官と揉めているそうですが?」
仕事を中断させられたせいか不機嫌極まりないキラキラ笑顔でフェルディナンドがわたしと文官を交互に見る。ひぃっと息を呑んで、わたしはニコリと微笑んだ。
「全く揉めてなんていません。アレキサンドリアの問題点について話し合っていただけです」
「ほぅ、問題点とは? ぜひ共有していただきましょう」
……ヤバい。「勝手なことをするつもりではなかろうな」って副音声が聞こえるよぉ。
キラキラ笑顔なのに目が笑っていない。
「アレキサンドリアを図書館都市にしたいのに本に親しみのない領民が多いようでは困るでしょう? 子供達には本に親しみを持ってもらいたくて貴族院の寮や冬の子供部屋に本棚を設置するように命じただけです」
「神殿教室、神殿図書室、城の図書館など、無駄が多すぎます。予算の振り分けについて再考をお願いしたいと思いまして……」
わたしと文官が訴えると、フェルディナンドは顔を顰めてこめかみを指先でトントンと叩き始めた。
「問題点の共有さえできていないようですが?」
「旧アーレンスバッハの貴族が本を嗜まないせいで、図書館の価値を理解できないのが問題なのです。人手が足りないならば、貴族院のように専属の司書を一人置いて補佐する魔術具を置けばよいと思います。土の日しか開館しない図書館なんて論外です」
わたしが図書館の重要性について話し始めると、フェルディナンドはハッキリと顔を顰めて文官を睨んだ。
「其方はアレキサンドリアにおける図書館の意味を理解できていないらしい。まずはそれを理解できるようにハルトムートの補講を受けるように。ローゼマイン様、人手不足には図書館の魔術具を作って対処するので、執務をお願いします」
図書館について気持ちよく語っていたわたしは、むぅと唇を尖らせる。図書館の利用者を増やすのは喫緊の課題だと思う。せっかく図書館を作っても、その価値を領民がわからないのでは困る。
……ハッ! いいこと思いついた!
「資料室があるから図書館へ行かないならば、資料室を図書館に置きますか? 立ち入りを制限できる書庫を作れば部外秘の資料も置けますし……」
「資料探しと称してアウブが図書館へ行き、戻ってこなくなります。資料室は現状で」
……あぅ。バレた。しょんぼりへにょんだよ。
提案を最後まで述べる前に真の目的を見抜かれて却下されてしまった。
「さて、ハルトムート、クラリッサ。其方等は優先度を理解せよ。アウブの望みを何でも最優先で叶えれば良いのではない」
「私はいついかなる時もローゼマイン様の望みが最優先です」
ハルトムートが真顔で反論した。フェルディナンドはそれにキラキラ笑顔で頷いた。
「側近である文官の役目はアウブの我儘を推し進めるのではなく、執務の補佐だ。アウブの望みを執務の補佐より優先させるならば、其方等を神殿図書室と城の図書館の司書に任命することにしよう。アウブの側近として主の大事な図書館を最優先にできるのだ。それならば文句はあるまい」
素晴らしい案ではなかろうか。ハルトムートとクラリッサに図書館を任せられれば、「土の日だけ」なんて言わないだろう。神殿図書室も任せられるならば神殿教室の様子もよくわかるだろうし、商人達とのやり取りもよくわかると思う。
幸いなことに、アウブの文官は多い。旧アーレンスバッハのことをまだよく知らないわたしにはフェルディナンドが選んだ多くの文官が付いている。最近ようやく彼等にも慣れてきた。ハルトムートを神殿図書室に派遣するのは適材適所ではないだろうか。
「わぁ、ハルトムートとクラリッサが司書になれば、わたくしの図書館がとても充実しそうですね」
わたしがフェルディナンドの案を褒めると、ハルトムートとクラリッサは「ひっ」と息を呑んで首を横に振り、司書を辞退する。
「ローゼマイン様、我々は司書ではなくローゼマイン様の補佐をしたいのです」
……ぬーん。わたしはアウブより司書になりたいけどな。
思ったよりハルトムートとクラリッサはわたしの側にいたいのだと必死に訴え、執務に戻っていった。一人くらいは執務より図書館を優先してくれてもいいのだが、わたしの側近達は執務の方が好きらしい。残念だ。
ハルトムートとクラリッサが執務に向かうのと同じタイミングで文官もスッといなくなってしまった。執務机に残されたわたしは傍らに立つフェルディナンドを見上げる。
「でも、フェルディナンド。アレキサンドリアの子供達が本に親しめる環境を作るのは喫緊の課題ですよ」
わたしが訴えると、フェルディナンドの笑顔にキラキラが増えた。グッと体が屈められたせいで、フェルディナンドの笑顔の圧が間近に迫ってくる。
「寮も子供部屋も使うのは冬です。それまでにできればよいので、喫緊とは言えません。側近達の前に、まずはアウブに優先度を叩き込む必要がありそうですね」
「……はひ。お仕事を、します」
わたしはそっと視線を下に向けてフェルディナンドの笑顔の圧から逃れる。ハァと一つ溜息が聞こえた。
「図書館の魔術具を作製して図書館を毎日開けておくので、そこはご安心ください」
退室するために歩き出したフェルディナンドの背中に、わたしは「はい!」と元気に返事をして執務を再開する。
……よーし、頑張ってお仕事を終わらせるぞ!
アレキサンドリアになっても、領地の執務は全て王命の婚約者が握っている。その噂は正確ではない。領地のためには王命の婚約者がアウブの手綱を握っている方が良いのだ。
本日が『本好きの下剋上』連載開始日なので、何となく思いついたSSを書いてみました。
ちょっと疲れたので現実逃避……。