あなたを選んだのは、間違いでした〜買い物好き令嬢、婚約破棄したら人生が輝き始めた件〜
「……やっぱり違うわね。“これじゃなきゃ”って思えないの」
ミレイユ・グランディール伯爵令嬢は、鏡の前でラベンダー色のドレスを身にまとい、静かに首を振った。
色は綺麗。流行も取り入れている。けれど心がときめかない。
だから――「いらない」と決めた。
「またそれかよ。試着だけして買わねぇとか、店員も可哀想にな」
後ろのソファで足を組んでいたのは、婚約者であるリオネル・マルシェ伯爵家の三男。
金髪に蒼い瞳、誰もが振り返る美貌の持ち主――だが中身は、空っぽだった。
(……どうして、こんな人に一目惚れしたんだろう)
ミレイユは胸の奥でつぶやいた。
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十五歳のとき、初めての夜会でリオネルを見た。
月明かりの下で一人立つその姿に、ミレイユの心は一瞬で奪われた。
“誰よりも綺麗”――それだけでよかった。
中身なんて、後から好きになればいいと思っていた。
けれど、それは甘すぎる幻想だった。
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その夜、夜会に参加したがリオネルの姿が見えず、ふとした気まぐれで庭園の奥を歩いていたミレイユは、温室の影から話し声を耳にした。
そして、見てしまった。
侯爵令嬢リリー・フォンテーヌの首筋に、赤紫のキスマークがくっきりと浮かんでいるのを。
「ねえ、本当にミレイユと結婚するの? あんな真面目で堅物な女、つまんなくない?」
リリーの甘えた声。それに答える、リオネルの吐き捨てるような声。
「真面目なだけで、可愛げもないし、話してて楽しくもねぇよ。顔も平凡だしな」
(……え?)
温室の壁の向こうで、リオネルは笑った。
「でもまあ、あいつ鈍いし。こうしてお前と会ってても、気づくわけないって。現に今までバレてねぇし」
リリーがくすくす笑う。
「じゃあ、結婚したらどうするの? 私のこと、切り捨てるわけ?」
「まさか。結婚したら、あいつを領地の離れにでも住まわせて、お前は本邸に呼ぶさ。家の体裁さえ保てりゃそれでいい」
(…………)
何かを叫ぼうにも、声が出なかった。
涙も出なかった。代わりに、胸の奥が静かに冷えていく。
“愛されてない”どころか、“道具としてしか見られてなかった”――
その事実が、ミレイユの中の最後の灯を吹き消した。
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「リオネル・マルシェ伯爵令息。あなたとの婚約を、ここにて正式に破棄いたします」
サロンの中央。ミレイユは、涼しい声でそう告げた。
リオネルは目を見開き、冗談だろと言いたげに笑った。
「……何言ってんだ? 俺、何かしたか?」
(あなたがしてきたこと、全部よ)
ミレイユは静かに微笑む。
「あなたって、“見た目だけ”だったのね。中身は空っぽで、醜いわ。婚約者を侮辱しながら浮気するような人間とは、人生を共にできません」
「……待てって、ミレイユ――!」
「さようなら。あなたの本性を知れてよかったわ。もう、いらないの。あなたなんて。」
ドレスの裾を払って背を向けた彼女に、リオネルは手を伸ばそうとするが、その腕は空を切った。
彼女はもう、決して振り返らなかった。
ーーーーーーー
「ミレイユ様、リオネル・マルシェ様と正式に婚約破棄されたと伺いましたが……本当ですか?」
数日後、社交界はざわついていた。
「ええ。本当よ」
サロンの中央で、ミレイユは淡々と答える。
その表情に迷いはなく、むしろ晴れやかだった。
しかしその一方で――
「おい……なんで俺の出資話、全部断られてんだよ!?」
リオネルは怒りを露わにして商会の事務所を叩いた。
だが、返ってきたのは冷たい視線だった。
「マルシェ様。私どもはグランディール商会と長年お付き合いがありまして……そちらとの信頼関係を第一にしております」
(ミレイユの家……!)
婚約中は、彼女の名がすべての“鍵”だった。
商談も、人脈も、ミレイユが後ろにいたから成り立っていた。
だが今や、彼は“ただの貧乏貴族の三男”。
その上、浮気の噂は社交界中に広まっていた。
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「ねえリオネル、聞いたわよ? それでさ、私たちもう会わない方がいいと思うの。」
「な、何言ってんだよリリー、お前は俺の味方だろ?」
「味方? 何言ってるの、ただの遊びでしょ?」
「ふざけんな! お前が本気だって言ったから──」
「……本気で信じるとか、冗談やめてよ。あなたみたいな“中身スカスカの男”と将来を考えるわけないじゃない」
リリーは冷笑して去っていった。
残されたリオネルの美しい顔には、初めて“怒りでも虚勢でもない、本物の後悔”が浮かんでいた。
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数週間後。リオネルが舞踏会に顔を出すと、貴族たちの視線が冷たかった。
「あれが噂の……グランディール家の令嬢を利用して浮気してた男ね」
「見た目だけはいいのに、中身が伴わないって最悪の例だわ」
「彼に味方する商会は、もうどこにもないって話よ」
リオネルが話しかけようとしても、皆はすっと視線を逸らした。
かつて“彼の顔だけ”を見ていた人々は、彼の信用が失われるとともに離れていった。
“顔”など、使い捨てられる装飾品にすぎなかったのだ。
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「……なあ、ミレイユ。もう一度話せないか?」
城下の喫茶室。リオネルは珍しく丁寧に頭を下げていた。
「俺、本当に間違ってた。お前のこと、大切にすべきだったって今になって──」
「遅すぎるわ」
ミレイユは一切の感情を浮かべず、冷静に言った。
「あなたは、自分のために私を“飾り”としてしか見ていなかった。都合が悪くなったから戻りたいだなんて、虫が良すぎるわ」
「……本気で言ってるのか……? 俺を捨てて、誰と──」
その言葉を遮るように、後ろからひとりの男がミレイユの隣に歩み寄った。
黒髪に知的な眼差し。王室経済局の若き理事、セドリック・ラズフォード。
今や、ミレイユの新たな婚約者だった。
「ミレイユ嬢に近づくのはおやめください。彼女は私の、大切な婚約者ですので」
リオネルは、立ち上がれなかった。
あまりに格差のある“新たな現実”を前に、彼はようやく理解したのだ。
失ったものは、美しい見た目などでは二度と取り戻せないと。
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その後、リオネルは社交界から姿を消した。
家に戻っても、父は「無駄飯食いが」と言い放ち、家族は彼を見下すようになった。
頼ってきた顔も、愛想も、金の力にはならない。
利用してきた人脈はすべて切れ、金策も尽き、彼は離れの屋敷に追いやられた。
ミレイユを追いやるつもりだった“離れ”で、自分が独りで朽ちていくとは、当時のリオネルは想像もしていなかっただろう。
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昼下がりの庭には、初夏の風が優しく吹き抜けていた。
ラズフォード公爵邸の南の芝庭では、花々が揺れ、子どもたちの声が楽しげに響いている。
「見てママ、ぼくが描いたドラゴン、羽が三枚あるんだよ!」
「わたしはママとパパが王宮にいる絵にしたの。お花もいっぱい描いたのよ」
「ルイのはこれ! おっきいケーキ!」
「ふふっ、どれも素敵だわ。ありがとう、エドワール、セシリア、ルイ」
ミレイユ・ラズフォード――グランディール伯爵家の令嬢だった彼女は、今は優しい夫と三人の子どもに囲まれて暮らしている。
長男のエドワールは勉強熱心でしっかり者。
次女のセシリアは礼儀正しくて可憐な娘に育ちつつある。
末っ子のルイは、毎日新しい言葉を覚えるたびに家中を笑わせてくれる。
「どうやら私の居場所は、完全に子どもたちに奪われたようだな」
穏やかな声がして振り返ると、セドリック・ラズフォード――彼女の夫であり、公爵家の当主が歩いてくるところだった。
「パパ!」「お帰りなさい、パパ!」「キスしてー!」
「おやおや、まずはママにご挨拶しなさい」
「えぇ、それができたらケーキを出してあげましょう」
笑い合いながら、家族みんなが集まる午後のひととき。
この何気ない日常が、ミレイユにとってかけがえのない宝物だった。
セドリックの隣に腰を下ろした彼女は、少しだけ目を細める。
思い出すのは、ほんの少し昔のこと――
あの頃の自分は、ただ「綺麗な人」に惹かれて、恋をした。
けれど、どれほど尽くしても、心を尽くしても、返ってきたのは嘲笑と裏切りだった。
「真面目で面白みがない」
「可愛くない」
「取り柄がないから、浮気しても気づかないだろう」――
温室の陰で聞いたあの言葉たちは、今でも忘れてはいない。
けれど、それらの痛みさえ、いまでは「選び直す勇気」をくれた思い出になっていた。
(あのとき、婚約を破棄して、本当によかった)
あの選択がなければ、今の家族も、この穏やかな午後も、手に入らなかった。
「ミレイユ、どうした? 静かだな」
「ううん、ちょっと幸せを数えていただけよ」
「それなら私も一緒に数えよう。……君と出会えたことが、その最初だ」
「……あら、素敵なこと言って」
ミレイユは微笑みながら、夫の手にそっと自分の手を重ねた。
子どもたちの笑い声が風に乗って広がり、テーブルには焼きたてのケーキの香りがふんわりと漂う。
この場所、この時間、この空気。
それは、かつてどんなドレスや宝石よりも欲しかった“本当に似合うもの”だった。
そして今、確かに手の中にある。
──本当に欲しかったのは、こんな幸せだったのだ。
完