88・これ以上、ドキドキさせないで
シンが私に秘密を教えると言うので、このまま耳元でこっそり話すのかと思いきや、私からスッと体を離し、廊下に繋がるドアを睨みつけた。
私がどうしたのか聞こうとすると、シンは私の唇に人差し指を押し当て、黙っていろと目で制した。
そしてドアの前まで忍び足で向かい、そっとドアノブに手をかけ、ガチャッと一気にドアを開けた。
「ひゃあっ?」
するとドアの向こうから、分かりやすく聞き耳を立てていました、というポーズのままでチヨが倒れこんできた。
シンはそんなチヨを無表情のまま片手でキャッチし、ジロリと見下ろした。
「えへへ、もう食事は終わった頃だと思って、食器を回収しに来ました。でもドアの前まで来たら中が静かになったので、もしかしてこれは入っちゃ駄目なタイミングかなーって。だってー、昨日は私が邪魔したせいでシンとラナさんはチュ……モガッ」
シンに口を押さえられ、チヨはそれ以上何も言えなくなった。チヨの後ろには、うっすらと笑ったタキが立っていた。
「僕は止めたんだけどね。ハハハ……で? 兄さんは、病み上がりのラナさんに、何したのかな?」
タキは笑顔を浮かべているのに、どこか冷え冷えとした空気を纏っていた。このタイプは怒ると怖い。シンはタキから視線を逸らし、眉間にシワを寄せてチヨを見下ろした。
「……別に? チヨが何か見間違えたんだろ? 変な事口走んな、この馬鹿チヨ!」
チヨはむぎゅっと片手で頬を挟まれ、口を数字の3のようにされながら、それでもなお言い訳を続けようとした。
それはほとんど、何を言っているのか分からなかったけれど。
「ふふふ、チヨ、食器を片付けに来たのでしょう? はい、これ、よろしくね」
私は使い終わった食器を載せたトレイをチヨに手渡し、チヨの頬を無遠慮に掴むシンの手を外してあげた。
「シン、チヨは年頃の女の子なのよ? 可愛いからって、こんな扱いはやめてちょうだい」
「お、おう」
「チヨも、何の確証も無いのに、人前でそんな事言うものではないわよ? タキが本気にしたらどうするの」
「はい、ごめんなさい」
「タキは、チヨのこういう発言をいちいち真に受けないように、ね?」
「うん、勿論わかってるよ」
私はニッコリ笑って、チヨを回れ右させて背中を押し、そのまま廊下に出した後、パタンとドアを閉めた。
「ああああ、どうしよう、タキ。私、ラナさんの事、怒らせちゃったんでしょうか? 何度も邪魔したから……」
ドアの向こうから、こんなチヨの声が聞こえてきたので、私は少しドアを開けて、二人に顔を見せた。
「ごめんね、言うのを忘れていたけれど、今、シンと大切な話をしている途中なの。だから、私達が部屋を出てくるまではここには近付かないで、そっとしておいてね」
私がもう一度顔を見せた事で、チヨはホッとしたように笑顔になり、私に向かって元気に返事をした後、チラリとタキに哀れむような視線を向けた。
「はい! わかりました。タキ、行きましょう」
タキは私に何か言いたげだったけれど、少し寂しそうに微笑んで、チヨの後に続いた。
「あ……二人の事を聞くのだから、タキも一緒の方が良かったかしら……?」
私がそう呟くと、シンは後ろからドアを押して、パタンと閉じてしまった。
「二人揃ってたって、一緒だろ。あいつには、俺の事でまだ話してない事もある。まあ、座って茶でも飲みながら、ゆっくり話そう」
「そう……なの。あ、座ってて? 今、お茶を入れ直すわね」
私がクルリと振り返ると、シンはまだドアに手をついたままで、奇しくも壁ドンのような体勢になってしまった。
見上げれば、すぐそこにシンの顔があった。シンも私を見下ろしていて、私はどうしていいか分からずに、気まずさからフイッと顔をそむけてしまった。
昨日から、シンとの距離がとても近い気がする。そんな風に優しく見つめられると、胸の奥がキュッとなるの。私の心臓の音が、あなたにまで聞こえてしまいそう。
お願いだから、これ以上私をドキドキさせないで。
「……綺麗だな。お前のまつ毛は、髪の毛と同じ色だったのか。いつもこのままでいてほしいけど、お前はエレイン・ノリスだと気付かれるのが嫌なんだよな。あいつも探し回ってるし、仕方ねーか」
シンはそう言ってドアから手を離し、私をエスコートするようにその手を背中に回して、テーブルセットまで連れていった。
私はまた、昨日のような事が起こるかもしれないと少し期待していたのか、何だか肩透かしを食らった気分だった。
シンは私を席に座らせると、手際よくお茶を入れてくれた。
この部屋には小さなキッチンがあって、そこで簡単な料理くらいならできるようになっているのだけど、私がさっきお茶を入れる為に沸かしたお湯は、もうとっくにぬるくなっていたはずだった。ところがシンはポットを火にかけ直さないまま、残っていたお湯でお茶を入れた。
なのに、カップからはしっかりと湯気が立ち上っている。
「シン……あなた、使えるのは氷魔法だけではないの? 二種類の魔法を使いこなせる人は他にも居るけれど、氷魔法使いが火も使えるなんて、聞いた事もないわ。あなた、一体何者なの?」
シンはカップをテーブルに置き、私の前の席に座った。その表情は穏やかで、これから何か、自分達兄弟の秘密を語ろうという雰囲気ではなかった。
「俺は何者でもねーよ。この国で生まれた、料理人のシン。実は俺のばあさんが、とんでもない力を持った巫女だった……らしい。俺が生まれる前に死んじまって、会った事も無いけどな。その力を、俺とタキは受け継いでいる」
とんでもない力を持った巫女……私には一人だけ思い当たる人物が居る。その人は、とても謎めいた存在で……。でも、もしもシンの言っているのがその人の事だとしたら、世が世なら、シンとタキは王族だったかもしれない。
私がそんな事を考えていると、シンは着ていたシャツの上のボタンを外して、そこから首に下げていた物を引き出した。
「あ! それ……」
私は慌てて神父様に頂いた黒曜石のペンダントを取りに行き、シンに見えるようにテーブルの上に置いた。
「はあ? 何でお前が……!? これはアルテミの黒曜石だぞ。どうしてお前までそれを持ってるんだよ?」
シンは驚いて、私がテーブルに置いた黒曜石と、自分の黒曜石とを手に持って見比べた。ペンダントトップのデザインがまったく同じで、石の大きさこそシンの物の方が大きいけれど、細工の仕方から見て、同じ所で作られたものである事は間違いなかった。
「私の曾祖母がアルテミの貴族だったの。これは曾祖母が身に着けていた物のようだけど、持っていたのは、すぐそこの教会の神父様よ。巫女様をお助けしたお礼にと、私にくださったの」
「いや、だけど神父様がどうして……」
「神父様はアルテミ出身で、避難する時にこれを私の曾祖母から譲られたらしいわ。困ったら、お金に換えなさいと言われてね。だけど神父様は大切に持っていてくれたの。その神父様を介して、曾祖母の物が私のもとに巡ってきたのよ。不思議な縁よね」
シンは私の話を聞き、あまりに予想外の事で戸惑っているようだ。しばらく考えた後、困惑した表情を浮かべて私を見た。
「はは……俺がお前を驚かせるつもりが、こっちが驚かされた……。その神父様は、これをただのお守りだと思っていたんだろうな。これは、アルテミの神殿に入るための通行証みたいな物らしい。今はもう水の底だし、持っていても、本当にただのお守りでしかないけどな」
神殿に入るための通行証……? 私の曾祖母は霊力を持っていたのかしら? 魔力は無かったと話に聞いていたけれど、霊力の事は聞いた事が無かったわ。元々アルテミは霊力を持った人が多くいた国だもの、曾祖母も、もしかしたら巫女として神殿に仕えていたのかもしれない。
だからこれを持っていたのよね。それとも、巫女様のお世話をしていたとか。そっちの方がありえるかしら。
「ねえ、あなたのおばあ様は、強力な霊力や魔力を持った巫女だったという事は、アルテミのお姫様だった……という事?」
シンは頷いてそれに答えた。
「アルテミが水に沈まなければ、俺も王族だったんだけどな。でも、今こうして俺たちがここに居るのは、国が無くなったお陰なんだ。お前だって、ひいばあさんが国を出なければ、この世に存在しなかったかもしれない。そう思うと、なんか複雑だよな」
「そうね。でも、私達のような人は、たくさん居るわ。国土は失ってしまったけれど、こうして血は受け継がれているもの。悲しいばかりではないわ」
シンとタキはアルテミの巫女姫の子孫だった。つまりはアルテミの王族。
他国がその力を欲して戦が起こるほどの存在だったのだから、それを受け継いだ彼らが、霊力も魔力も、そのどちらも隠すのは当然の事だわ。
今はこの国の民となってひっそりと生活しているけれど、強すぎる力は恐怖の対象とみなされるか、囲い込んで利用されるのか。私はこの国ではそんな扱いをされるとは思いたくないけれど、サンドラの例をみれば、今はどちらに転ぶかわからない。
私の女神の力も、もしも誰かに気付かれでもしたら、もうこの国を出て、旅をして生活するしかなくなるのでしょうね。無理かもしれないけれど、その時は、シンとタキとチヨにも付いてきて欲しいわ。
「シン、話してくれて、ありがとう。あなた達の秘密は、一生心に秘めておくわ。ところで、タキに内緒の話って、なんだったの?」
「あいつには、俺は氷を出すしか出来ないと思わせてる。本当は、ばあさんと同じく全部出来るんだけどな。タキは魔法どころか、何も出来ない期間が長かっただろ? 俺と自分を比べて、卑屈になってほしくなかったんだ。今はお前のお陰で自信を取り戻し始めてるし、そのうちあいつにも打ち明けるつもりだ。だからそれまでは、内緒な?」
シンは悪戯っぽく笑い、私に向かって不器用なウインクをしてみせた。
できないなら、やらなきゃいいのに。
シンのウインクはほとんど両目を瞑ってしまっていて、普段クールな彼が見せた事のない、お茶目な一面を垣間見てしまった。