86・甘い空気の余韻
洗面器の水に浮かんでいる氷は、たぶん、氷魔法で出されたものだ。
私がまだ学園に居た頃に、ヒューバート様に頼んで氷魔法を見せてもらった事があるけれど、ちょうどこんな感じの、石器時代の槍の先のような、木の葉の形をしていたのを思い出した。
ここにある氷は既に、水に溶けて角は無くなっているけれど、たぶん元は尖っていたのでしょう。
「なあ、もう、そっちに行っても良いか?」
「あ……ええ、どうぞ」
厨房でスポーツドリンクを作り終え、居間で私の着替えが終わるのを待っていたシンは、チヨが寝室から出てくるのを見て、居間のテーブルセットの所から、私に声をかけてきた。
そしてシンは私の返事を聞き、一応ドアをノックしてから、すぐに中に入ってきた。
「オーナー、喉が渇いただろ。ほら、これを飲め。汗をかいた時は、これが良いんだろ?」
「ええ、とても喉が渇いていたの。ありがとう、シン。いただくわ」
ベッドに腰掛けて渡されたグラスに口をつけると、それは適度に冷えていた。
スポーツドリンクの作り方としてシンに教えたやり方は、お砂糖と塩がよく溶けるようにお湯を使い、しっかり溶かしてレモン汁を加えるというものだったはず。
これは、少量のお湯で溶かしてから冷たい水を足して作ったにしても、なんだか冷えすぎな気がした。
普通なら、精々常温か、体温くらいのぬるさになると思うのだけど。
「少し冷えていて、美味しい」
「ああ、それは良かった。あっと、それはもう必要ないな。片付けてくる」
シンはそう言った後、チラリとサイドテーブルに置かれた洗面器を見て、それを持って行こうとした。
「ねえ、シン。私、あなたと二人きりで話がしたいわ。今日はもう、あなたにも休んでほしいから、明日、私にあなたの時間を少しだけくれない?」
「それは別に良いけど。何だよ? 改まって……」
シンは少し戸惑いを見せたけれど、それを了承してくれた。きっとまだ、何を話したいのか分かってないのでしょうね。
「あのー、お邪魔します」
チヨは今度は慎重に寝室を覗き込んできた。
また、私とシンが先ほどのような事になっているとでも思ったのだろうか。覗き込む時の顔が、何かが起きている事を期待しているように見えた。そして何も起きていないと分かると、チッと舌打ちが聞こえてきそうな顔をした。
「シンは今日、このままここに泊まります? まだ誰かがラナさんに付いていた方が良いと思うんですけど」
「あー、本当はまだ心配だし、朝まで付いていてやりたいんだけどな。この通り、オーナーは快復してるし、後はチヨに任せて、一度家に帰る事にする」
「ええー、帰っちゃうんですか? もう深夜二時ですよ? このまま泊まれば良いじゃないですか。そこに空きベッドもある事ですし」
チヨはシンを帰したくないのか、口を尖らせて彼を引き止めた。
たしかに遅い時間だし、この辺りは治安が良いとは言っても夜道は危険なのだから、出来れば泊まっていってほしいとは思うけれど、私の意識の無い時ならともかく、さすがにこの部屋に泊めるわけにはいかないでしょう。
だからと言って、客室には空きが無いし……。
「もう、馬鹿な事言わないで、チヨ。シンを困らせるものではないわよ。シン、ありがとう。帰ってゆっくり休んでね。明日は……あ、もう今日ね。今日は食堂を臨時休業にするわ。私の都合で申し訳ないのだけど、そういう事にしたから、帰ったらタキにもそう伝えてくれる? 従業員の女の子達には、お昼におにぎりだけ作って売ってもらう事にしましょう。彼女達には、時給制で働いてもらっているから、急に休みにするのは収入が減ってしまって、可哀想だもの」
まだこの国には無いシステムだけれど、私の宿で働く女の子達には、希望を聞いてシフトを組み、アルバイトとして時給制で働いてもらっている。他の飲食店では、万が一残業や早出などさせられても、それは給料に反映されないし、仕事が有ろうと無かろうと、時間いっぱい拘束されて、無駄が多いと思ったからだ。
家の手伝いをしなければならない子も多く、このやり方は好評だった。
「そうか、俺もオーナーを休ませたかったから、食堂は休業にしないかって、チヨと話してたんだ。どうせそうしなかったら、この仕事中毒は休まずに働くだろうしな」
シンはそう言って、私の頭にポンと手を乗せた。
やっぱり、チヨはシンに言われていたのね。いつもなら、絶対に反対するもの。
「じゃあ、俺は帰る。オーナー、しっかり寝るんだぞ。おやすみ、また後でな」
シンは私の頭を軽く撫でて、また、愛おしい者を見る目で私を見た。私はなんだか離れがたい気持ちになったけれど、帰らないでほしいという言葉を飲み込んで、彼をこの場で見送った。
「ええ、ありがとう、また後で。気をつけて帰ってね、シン。おやすみなさい」
別れの挨拶を交わしているはずの私達の間に、何とも言えない甘い空気が漂い始め、その場に居たチヨは居たたまれなくなり、咳払いしてその空気を一蹴した。
「ゴホン! 二人共、私が居る事忘れてませんか? ラナさん、もう寝て下さい」
シンは笑いながら水の入った洗面器を持ち、寝室を出て行った。まだ眠かった私は、チヨに布団をかけられて、いつの間にか眠りについてしまっていた。
翌朝目が覚めると、私の寝室にはチヨとシンとタキの三人が居た。チヨとシンは普通だったけれど、タキは青ざめて心配そうに私の顔を覗きこんでいた。
「タキ……?」
「あ、おはよう、ラナさん。勝手に寝室に上がりこんだりして、ごめんね。深夜に帰ってきた兄さんに話を聞いて、居ても立ってもいられなくて……でも、妖精達が助けてくれたんだね。もう無理しちゃ駄目だよ」
「どうしてそれを知っているの? 妖精に助けてもらった事は、まだ誰にも話していないのに」
そう言えば私は、いつ妖精界に連れて行かれたのかを知らないままだった。私の予想では、シンが気付かないほど一瞬の間に移動して、またすぐ戻ってきたのだと思っていたけれど、そうではなかったの?