50・貴族の住む区域へ
「おい! 何してる、後がつかえてるんだ、さっさと進まないか」
「あ、今出ます! ごめん、ラナさん。橋の手前は道が狭くて、ここまで来ちゃうと一回向こうに渡らないと戻れないんだ。広い場所に出たら戻るから、降りるのちょっと待ってくれ」
チラッと振り向くと、後ろで声を上げたのは、川の向こうへ配達しに行くのだろう、たくさんの積荷を載せた荷馬車に乗った男性だった。そのさらに後ろには、恐らく貴族のものと思われる立派な馬車が停車していて、私達の荷馬車が停車したせいで、軽く渋滞が起きていた。
そして、私は一瞬視界に入った人物に反応し、急いで前を向いた。
「ん? どうした?」
「いいえ、何でもないわ」
私達の乗る馬車はゆっくりと動き出し、渋滞はすぐに解消された。
この際、橋を渡るの良いけれど、もう一度確認したい。でも何度も振り返れば変に思われてしまうわよね。チラッとしか見えなかったけれど、後ろの立派な馬車に乗っていた御者、あれってフィンドレイ家の使用人ではない?
ああ……そうよね、エヴァンがうちの宿に毎日通っていたのだから、それなりに家から近くて通いやすかったのだという事を考えなかった私が馬鹿だったわ。
まさかシンは、それに気付いていたから馬車を降りようと言ったのかしら?
「あ、さっきの質問の答え、まだ言ってなかったな。俺の雇い主は、カルヴァーニ伯爵様だ。あの辺のお屋敷の人達は、貴族でも良い人ばかりなんだ。騎士団のフィンドレイ隊長のお屋敷も途中にあるけど、話に聞くほど怖くないぜ?」
「カルヴァーニ伯爵?」
嘘でしょ、私の友人、マリア・カルヴァーニのお家? そう言えば、いつもうちの屋敷に来てもらうばかりで、彼女の家に遊びに行った事は無かったわ。
それに私の予想通り、エヴァンの家もあるのね。きっと近くまで行けば、どのお屋敷かすぐに分かるわ。
同じ場所に行くにしても、ルートによって、こんなにも見える景色って違うものなのね。今度きちんと、地図で場所を確認した方が良さそうね。宿から歩いて行ける範囲の地理は大体覚えたけれど、王都のどの辺りなのかまでは知らないもの。
「おい、フィンドレイって……まさか本当にあいつか?」
「ええそう、あの方はフィンドレイ伯爵家のご子息よ。うちに毎日通っていたのだから、家が近いと気付くべきだったわ。今頃は殿下の側近として王宮に居るでしょうから、うっかり鉢合わせる事は無いと思うけれど」
「もしかしてと思ったが、本当にそうだったか……。オーナーの様子からして、カルヴァーニ伯爵の事も知っていそうだな。その人は、無害な人物なのか?」
シンは私の事をよく見てるわね。ちょっとした反応から気付かれてしまうだなんて、彼に隠し事は出来ないわ。そのうち、私が貴族の娘だって事にも気付いてしまいそう。
それとも、知らない振りをしてくれているだけで、もう気付いてる?
「大丈夫よ。やっぱり、ケビンの所でお花を買わせてもらうわ。親方さんにもお会いしたいし。良いでしょ? シン」
「お前が大丈夫って言うなら、まあ、俺はついて行くだけだ。危険じゃないなら、予定通り行こうぜ」
「やった、じゃあ、このままカルヴァーニ様の屋敷に向って良いんだな」
「ええ、お願いするわ、ケビン」
馬車は、背の高い建物が続く道を走り、途中の分かれ道を右に入ると、割とすぐに庭付きの屋敷が建ち並ぶ区域に入った。鉄の柵の向こうに目隠し用の針葉樹がずらりと並んで植えられていて、この向こうが庭で、更に奥に屋敷がある。
そして私はすぐにそれを見つけた。エヴァンの家にはもう何年も来ていないけれど、相変わらず庭木の手入れは完璧だった。
「ラナさん、ここが騎士隊長のお屋敷だ」
ええ、知っているわ。
私達の後ろを走っていた馬車は、そこでいったん停止した。そして門が開くと、屋敷まで綺麗に敷き詰められた石畳の通路を進み、馬の蹄の音を高く響かせ、中に入って行った。振り返って見た訳では無いけれど、聞こえる音でなんとなく予想できる。
「ケビンは今まで花の配達の帰りに、うちのおにぎりを買いに来ていたのでしょう? だとしたら、朝の販売を止めてしまってからは、この距離を歩いて買いに来ているの?」
「ははっ、遠いと思うだろ? でも、歩きなら宿までショートカットできるルートがあるんだ。だから平気さ」
私達の住む地域は、背の高い建物が迷路の様に建ち並び、戦になった時には、敵兵が都の中央付近にある王宮まで、なかなかたどり着けないように設計されている。
そして建物の一階部分には、大きな扉があちらこちらにあり、平時はそれが開いていて、自由に通り抜けられるように解放されているのだ。
ケビンはそれを利用して、最短で宿まで来るルートを知っているという事らしい。私もその抜け道を覚えたいと前から思っているのだけど、安全面を考えたら、人通りの多い大通りを歩いた方が良いわよね。でも、何かあった時に逃げ道として知っておいても損は無いと思うの。
「おい、裏道を知りたいとか思ってないだろうな」
「え? まあ、ちょっとね。何かの時の為に知っておいて損は無いでしょ」
「そりゃ、知らないより知ってる方が良いかもしれないが……。じゃあ、俺が今度教えてやるけど、一人の時は緊急時以外使うなよ」
「ウソ、本当に? シンなら絶対そんなの危ないから教えられないって言うかと思ったわ。ありがとう」
シンはしょうのないヤツ、という表情で私に微笑みかけ、私も彼に笑い返した。
突然二人の世界に入られて、いたたまれなくなったケビンは、うおっほん、と大げさに咳払いして、ほんわかと見つめ合う二人の空気をぶち壊し、目的地に到着した事を告げた。
「着いたぜ。ここが、俺の世話になってるカルヴァーニ伯爵のお屋敷だ。立派だろ?」
「そうね、とっても素敵だわ」
私は初めて友人の家に来たというのに、自分の素性を偽って入る事に罪悪感を覚えた。人気者の彼女の事だから、休日はどこかのお茶会に招かれていて、きっとここには居ないわよね。
門が開くと、荷馬車はゆっくりと中に進み、屋敷の方ではなく、その裏に回り、全面ガラス張りの温室の前で停車した。
「親方ー、連れて来たぜー」
ケビンは馬車を降りて馬を繋ぐと、躊躇い無く温室に入って行った。
「立派な温室……ここを借りて育てた花なんて、一体、一本いくらで売ってるの……?」
「普通に考えれば、かなり高価だろうな。これを無償で借りてる訳じゃなければ」