蜥蜴の真実
鰐のように長い顔に、鹿のように長い角。
蛇の様な巨大な体。
獅子のような鬣に、鯉のような髭。
鍵爪が生えた爪に握られた珠は、先ほど皇太子が持っていた物よりも何倍も大きくなっていて。
愛蘭は、伝説通りの龍の勇ましい姿に、思わず息を飲んで見惚れた。
まさか、本当に龍が存在しただなんて。
(……そうだ、翠は……)
すぐに我に返った愛蘭は、慌てて周囲を見渡した。
周囲にいた兵士は皆一様に倒れ臥し、意識を保っているものは、愛蘭を除いては、皇太子と鈴華だけだった。
他の兵士同様、龍の気によって気絶してしまったのかと、倒れ臥す兵士達全てに視線をやるものの、あの目立った異形の巨体はどこにも見つからない。
蜥蜴は一体、どこへ行ってしまったのだ。
愛蘭がそう思った瞬間、龍が口を開いた。
「……そうだ。……全て、思い出した」
龍の口から響いた声に、愛蘭は目を見開いた。
愛蘭は、この声を、知っている。
誰よりも良く、知っている。
知らない筈がない。
「……翠?」
愛蘭が誰よりも愛する、蜥蜴の声なのだから。
改めて、愛蘭は龍を見据えた
姿、形は、まるで違う。
「……三百年前、俺は誤って天から落ち……地面に叩きつけられた衝撃で、龍の珠を割って、本来の姿と、記憶、龍の力の多くを失った……そして、目が醒めた時、珠の大部分を手にした最初の王によって、従属を強いられた……」
だけど、この声は。
この金色の瞳孔が細長い目は。
覚えがある、鬣のような髪は。
凹凸がない鼻は。
翡翠色の、鱗に覆われた肌は。
「……三百年前、俺は、龍だった…!! ……地を這う蜥蜴ではなく、空を翔ける天龍だったんだ……!!」
紛れもなく、愛蘭が良く知っている蜥蜴のものだった。
「……そうか。歴代の王がいくら探しても見つからなかった残りの珠の欠片を、既にお前は手にしていたのか。……だからこそ、お前は私の命令を、破ることが出来たのだな……」
唖然として何も言えずにいる愛蘭の傍らで、最初に口を開いたのは皇太子だった。
その言葉に、龍は……龍になった蜥蜴は、その金色の瞳を皇太子に向けた。
「皇太子……お前は、知っていたのか…?」
「知っているに決まっている……私の先祖がしたことだ。王になるものならば、皆、先代から教えられていることだ。お前の正体も、珠が全て揃えば、お前が龍の姿に戻ることも。……そして、珠が奪われれば、従属の制約が解けることも。全て知っていて、私はお前の主の座を受け継いだんだ。……お前を従え、国を私が望む形に変える為に」
そう言って皇太子は自嘲気味に笑って、握っていた刀を放った。
「だが、お前の呪縛が解けた今、そんな野望は全て意味がなくなった。国一つくらい簡単に滅ぼせる力を、お前が取り戻した今となっては。……蜥蜴、否、偉大なる天龍よ。お前を三百年も縛り続けた人間を恨んでいるだろう? ……だが、その咎は全て、王族である私の者だ。民は、関係ない。……滅ぼすなら、私、一人に留めてくれ」
「そんな‼ 龍飛様‼」
「鈴華……お前は、下がっていろ。……天龍よ。王として、どんな責めも甘んじて、受けよう。……だから、どうか私以外の人間を、傷つけないでくれ」
皇太子……彼の名前が、龍飛だということを、鈴華の言葉で愛蘭はようやく思い出した……は、駆け寄ろうとする鈴華を制すると、その場に膝をついて、地面に顔を押し付けんばかりに頭を下げた。
それは、通常の王族ならばけして行わない、最大限の謝罪を示す、礼だった。
全ての自尊心を捨て、ただ自らの民を守る為に、彼は蜥蜴に頭を下げたのだ。
蜥蜴は、そんな龍飛の行動を、ただ静かに見下ろしていた。
「……勘違いを、しているようだが、そもそも俺は、国にも民にも、危害を与えるつもりは、ない……」
紡がれた蜥蜴の言葉に、龍飛は驚愕を露わに、顔を上げた。
「しかし、私の先祖はお前を……」
「……そもそも、天に落ちたのは、俺自身の過ちだ。……その結果、何が起こったとしても、その原因は、俺にある。……恨む気なぞないし、そもそも、俺は、お前自身からは、たいしたことを、されていない。……先祖に対する復讐を、お前に対して行うのは、理不尽だろう……」
先ほど自身が兵士達に痛めつけられたことは、蜥蜴にとっては数にも入れていないようだ。
そんな蜥蜴の心の広さに改めて感嘆すると同時に、それが大したことではないくらい、今までずっと辛い目に遭い続けたのだと思うと、愛蘭は苦い気持ちになった。
「……それならば、何故、お前は私を他の兵士同様、気絶させなかった? 私を、生きながら嬲りたかった為ではないのか?」
「違う……俺はただ、お前と取引を、したかっただけだ」
「……取引?」
「そうだ……」
そこで蜥蜴は、愛蘭に一瞬だけ視線を向けた。
すっかり風変りした蜥蜴から向けられる、変わらない優しい瞳に、心臓が跳ねた。
「皇太子……では、ないのか。……新王。もしお前が、俺に償いたい気持ちが、あるのならば……俺に、愛蘭を、くれ。……それさえ叶えてくれるなら、俺はお前の即位を、後押ししてやる」
突然出された自身の名前に、愛蘭は呼吸を忘れた。
今、蜥蜴は、何と言った?
愛蘭を、どうすると、言ったのだ?
「っ……しかし、愛蘭は、鈴華を殺しかけた罪人で……処刑をしなければ、示しが……」
「……処罰としての、愛蘭の死が重要ならば、龍である俺に、生贄に差し出したことに、すればいい……突然現れた俺が、罪人である愛蘭を噛み殺したとでも、何とでも脚色すればいい……」
「しかし……」
躊躇う龍飛に、蜥蜴の視線はきついものに変わる。
「……新王よ。提案という形を取っているが、今の俺には、お前を殺すのも、気絶させるのも、簡単なんだ……それでも、お前は俺を、比較的人間らしく扱ってくれた、数少ない王族だったから……だから、できるだけ平穏に、事を運びたいと、提案の形をとっているだけなんだ……」
蜥蜴の口から発せられた言葉は、脅し以外の何ものでも無かった。
龍飛は、しばし顔を歪めて唸った後に、項垂れるように頷いた。
「分かった……愛蘭のことは、お前が好きにすればいい」
その言葉を聞いた瞬間、蜥蜴の顔は、表情が読みにくい龍の顔でも明らかに分かるくらい、明るいものになった。
「……聞いたか、愛蘭…⁉……これで、お前は、自由だ。……お前は死ななくて、いいんだ」
興奮を隠しきれない声でそう言った蜥蜴は、笑うよう目を細めながら、愛蘭を見つめた。
「生きられるんだ、愛蘭…っ…一緒に、生きられるんだ…っ‼!……愛蘭、俺と一緒に、天上に、行こう。俺の、国に、一緒に!!」
(生き、られる? 翠と一緒に、生きられる?)
それは紛れもなく、愛蘭が望んだ未来だった。
どんなに諦めようとしても、捨てきれなかった唯一の望みだった。
それは、思わぬ形で、叶った。
本来ならば、大喜びで受けるべき誘いなのだろう。
それなのに、愛蘭は首を縦に振ることは出来なかった。
「……どうした? 愛蘭。……龍である俺と、共に行くのは、嫌か……?」
「……違う。翠。そうじゃない。そうじゃない」
不安そうに尋ねる蜥蜴の言葉を、すぐさま否定した。
蜥蜴の正体が人間ではなく龍だったことなんて、些細なことだ。
どんな姿だろうと、どんな力を持っていようと、愛蘭にとって蜥蜴は蜥蜴だ。
世界で一番、愛しい存在だ。
蜥蜴と一緒に生きられるのならば、どこへだって行く。
天の国に行く条件が、例え一度死ぬことだったとしても、構いはしない。
どんなことだってする。どんな試練だって、受け入れて見せる。
……けれども。
「……私は、罪人だ……私利私欲の為に妹を殺しかけた、悪党だ。翠、お前に優しくしたのだって、最初はただお前を誑かして脱獄を協力させがたい為だけだった。ずっとずっと、お前を騙し続けていた……そんな私が、お前と共に生きる資格があるのか? 愛するお前と、共に生きることが、許されるのか?」
罪深い自分が、幸福になる資格なぞあるのだろうか。
愛蘭には、分からなかった。