階層外、ポーションマイスター、メルメル・ラメル。その1。約11500文字。
――その日、ポーションマイスターメルメル・ラメルは、ポーション作りの傍ら、いつものように病床の母の看護に携わっていた。
「お母さん、これ、今日の分のお薬ね」
「いつも、すまないね」
「いいの。気にしないで」
ベッドで休んでいる母に、余計な気遣いをさせまいと微笑む。それが、母とのいつものやり取りだ。すまなそうにする顔に、作った笑顔を返す。いつからから、立場が反対になってしまったそれを、欠かさずに。
カーテンを開けて陽の光を取り入れていると、母が苦しそうな咳をする。喉ではなく、肺の底から響いてくるような重苦しい音。嫌な咳だ。もう長いこと肺を病んでいる。これが、自分を女手一つで育ててくれた代償なのか。そうであれば、あまりにひどい仕打ちではないだろうか。
――メルメルの家は代々続く、ポーションマイスターの家系だ。ポーションを作る技法を伝え、癒しが必要な者にその奇跡を与える一族。それは黄兄神トーパーズの慈悲によりこの世に薬草が生まれたのと同時に、その恩恵を広く人々にもたらすため、トーパーズがその精製法を魔術の素養を持つ者たちに伝えたのが、その始まりとされる。
母も祖母から教えを受け継ぎ、そして自分も、その教えを守ってポーションを作っている。
――ポーションは使う人たちのためを思い、全身全霊をかけ、正しく作らねばならない。
それが、ラメルの一族がしかと守ってきた、信念ともいえる一条である。
しかし、自分たちがいくらその教えを守っても、報われることはなかった。正しく、手間をかけて作られたラメルの家のポーションは、祖母の代から量産品のポーションに押され、家は次第に傾き、母の代になってからはそれが顕著になって、いまではラメルの家のポーションも、他の量産品と変わらない扱いを受けている。そればかりか、大手の工房の生産量に圧迫されて、取引先も減る始末。ポーションがいくら貴重品だとは言え、卸し先がなければ金銭を得ることはできない。それは、至極当然のことだと言えるだろう。
……母の世話も終わり、ポーションの作りの作業も一段落着いた。しかし、これでメルメルのやることが終わったわけではない。これから、卸し先に代金の回収に赴かなければならない。そんな、気が重い作業が待っている。
「じゃ、行ってくるから」
「気を付けてね……最近は何かと物騒だから」
「心配しないで、お母さんは横になってていいから」
そう声をかけるが、母はやにわに身体を起こし、
「メル……」
「なに?」
「真面目に頑張っていれば、いつかは報われるわ。たとえいまが辛くても、じっと我慢して堪えていればきっと良くなるから。だから、頑張りましょう?」
「そうなのかな? 本当に、よくなるのかな?」
「ええ。だってこの世界は、神様が見ててくれてるんだもの」
「……そうね。行って来る」
「いってらっしゃい」
「うん」
そう返して、安心してよとまた作った笑顔を向ける。ただ休んだところで治るわけではないが、いまの自分には、そう口にすることしかできなかった。
――真面目に頑張っていれば、か。
「頑張って頑張って、それでどうなるっていうのよ……」
真面目に堪え続けてきた結果が、この状況だ。いくらポーションの品質の向上に力を注いだところで、結局、何も変わらない。いや、むしろますます悪くなっているのではないか。
そう口にした母だって、頑張った結果があれなのだ。
寝る間も惜しんで、あんなに、頑張ってきたのに。
(お母さん……)
だからせめて、せめて母の調子だけでもよくなれば思う。楽な暮らしがしたいなどと、わがままは言わない。だけどせめて、ずっと頑張ってきた母だけは、助けて欲しかった。いい治療を、受けさせてあげたかった。
「もっと高く売ることができたらなぁ……」
ポーションの卸値が安い……とまでは言わないが、決して高くもない。
以前はいまよりももう少し相場も高く、ポーションの出来によって値段の交渉もできた。しかし、ポーション購入先の大手である冒険者ギルドの方針により、フリーダで販売されるポーションが冒険者たちの手に届きやすいようにと、冒険者に販売するポーションの割り引きと売値の均一化が図られてから、歯車は大きく狂いだした。
ポーションの割り引きでは、メルメルたち『個人の小規模な工房』は、大きな痛手を受けることはなかった。価格を下げた冒険者ギルドも、ポーションマイスターたちのことはしっかりと考えていたのか、下げた分の負担は自分たちでするようにショップに助成金を出すという取り決めをして、マイスターたちの負担にはならないように気を遣ったからだ。しかしもう一つ、売値の均一化が、小規模な工房に思いもよらぬ打撃を与えることとなったのだ。
売値の均一化を図ったことにより、確かにフリーダのポーションの価格は一定になった。だがそれゆえ、どれだけ品質のいいポーションを作ったところで、ポーションの卸値が上がる、上げられることもなくなったのだ。
そして、それによって起こったのが、品質のいい小規模な工房の倒産だ。
冒険者へのポーションの売値が一定になったことにより、ポーション一個当たりの卸値も一定化、それによって競争の焦点は質から量へと変化した。そこで、個人の小規模な工房が、ポーションを量産のできる大手の工房に、取引先を圧迫されるという事態になったのだ。
卸し先のポーションショップも、ポーションの仕入れに関しては競争をしている状態だ。数の少ないポーションを如何に大量に仕入れるか、その量が店の生死にかかわる。そこに付け込んだ大手の工房が、自分のところで作った大量のポーションを人質に、卸し先にこう持ち掛けるのだ。他の工房――競争相手からの仕入れを止めれば、優先的にポーションを回すと。それに従わなければ、ポーションは一切卸さない、と。
公認店のような基盤を持たないポーションショップはそれに従わなければならず、であれば個人の小規模なポーション工房は倒産の憂き目を見る。ごく自然なことだ。そのせいでもう随分と、小規模な工房がなくなった。次はどこか。もちろん、メルメルの家もその中に入っている。以前はもっとあった卸し先も、いまは二つだけとなって久しい。ポーションをすべて卸すことができなくなれば、生活が立ち行かなくなるのは目に見えている。
「頑張ったって、もうどうしようも……」
自分が頑張ったところで、大手の専横が止まるわけではないし、いくら良いポーションを作ったところで、このような事態を招いた冒険者ギルドは何も手を打ってくれないのだ。神様が見ているとは母は言ったが、そんなことはない。神様たちは世界の維持にかかりっきりであるため、個人のことを見てやる暇がない。努力を続けていれば誰かがどうにかしてくれるなんて、闇雲に希望を抱いて生きたって、結局何も変わらないのだ。
……やがて一つ目の卸し先に到着すると、店先からくたびれた中年の女性が現れる。
「代金を引き取りに来ました」
「ああ、メルちゃん? これ、今月分ね」
「ありがとうございます」
女性から売り上げを受け取り、礼を言うと、彼女は疲れたような顔を向けてきて、
「メルちゃん」
「はい?」
「その、ちょっと言いにくいんだけどね……」
「え……?」
ふと向けられたのは、罪悪感のにじんだ顔だ。いやな予感がする。いや、嫌な予感もなにも、それは何度も経験したものだ。この表情を見せた取引先に、何度、あの言葉を言われたか。
「――申し訳ないんだけどね、メルちゃんの工房との取り引き、今日限りにさせて欲しいんだ」
……果たして、嫌な予感は的中した。
「こ、困ります! デイマさんのところに卸せなくなったら、うちの工房は……」
「わかってる。でも、こっちも商売なんだよ。ポーションを数揃えられなくなったら、うちだって生活できないんだ」
「そんな……でも、どうして急に」
「イルネス工房の人が、メルちゃんの工房と取り引きを続けるんなら、ウチとは取り引きしてくれないって」
「……また、イルネス工房ですか」
イルネス工房。最近フリーダで急激に規模を拡大している規模の大きなポーション工房だ。いくつもの工房から職人の引き抜きなどを行って、ポーションの大量生産ができる地盤を作り上げ、そのシェアを伸ばしているのだという。いま女性が口にしたように、裏で圧力をかけ、小規模の工房から卸し先を奪い、ライバルを潰しにかかっているのもここだ。
「まだメルちゃんのところはいいよ。ギルド公認のショップに卸せるんだからさ。……そっちは、絶対放すんじゃないよ」
「…………はい」
無理に続けてくれとは言えなかった。無理に続けたところで、いずれはあの手この手を使って取り引きを止めさせられるのだから。
卸し先を一つ失ったあとの足取りは、ひどく重かった。当然だ、このまま取引先がすべてなくなれば、生活は立ち行かなくなる。確かにポーションは貴重品で、常に誰もが欲している状態にあるが、卸し先がショップから個人になると話はまた変わってくる。
個人で売るとなれば、販売先は一般か、冒険者かのどちらかになる。一般は冒険者と違い割り引きがなされないため、ポーションを高い値段のままので買わなければならず、ほとんど買ってはもらえない。反対に冒険者に売るにも、ギルド負担の割り引きされた値段に慣れているため、こちらも買ってもらえない。ならば金持ちはとなるが――こちらはお抱えのマイスターや医者、腕のいい魔法使いに頼るから買ってもらえない。いずれにせよ、ショップを通さない状態でのポーションの販売は不可能に近いのだ。
それでは、定期的な収入は見込めない。そうなれば、工房の維持費はおろか母の薬代も払えなくなってしまうことになりかねないのだ。
そんな未来を思い浮かべると、どうしたって気が重くなる。
「やっぱり、もう……」
大通りの喧噪とは裏腹に、心はひどく沈んでいた。通りを賑やかす元気な声、歓喜の声が、いまはとても耳障りで仕方がない。それゆえ、人が多すぎて通れなくなっているというのは、いまの自分位は好都合だった。だって、静かな道へ逸れることができるのだ。うるさい雑音に、身を浸さなくてもいい。
しかし、それが仇となった。
「あ……」
ぼうっと歩いていたせいで、気付くことができなかった。
路地裏の中の方まで、足を踏み入れてしまっていたことに。
……自由都市フリーダの路地裏の奥は、危険地帯だ。戦いに慣れた冒険者だって、普通は踏み込む前に自制が働く。
――フリーダの中心部へ続く路地裏に一度でも足を踏み入れると、二度と出ることはできないとは、随分前に名を馳せた冒険者の言葉だ。モンスターの蔓延る迷宮を擁する都市の真ん中が、都市で最も危険な場所だとはある意味痛烈な皮肉だろう。
そんなことになっている理由は、ここ自由都市フリーダの成り立ちが他の都市と比べてかなり特殊というところにある。
もとは小規模な城塞都市を改修して作られたこの都市は、神々の威光と冒険者ギルドの発展で、王国の自治州ながら諸国と比肩するほど巨大化したが、その反面それに伴う激しい人口流入と無計画な建設のせいで、街の造りがひどく乱雑であり複雑怪奇となっている。
もとの城砦部分や城下町は中心部に取り残され、増築された部分ばかりがどんどんどんどんと発展していき、賑わいは外側へ外側へと移ろい、それに伴い行政や主要機関も外縁部へ。いつしかフリーダの中心部はスラムとなり、都市の表部分が発展するにつれ、それに比例するように中心部の闇もまた深まった。
――城砦街。それが、フリーダの路地の先にある、混沌。都市法は言わずもがな、陽の光はおろか行政の目、神々の目さえも届かない危険地帯だ。
いまこの薄暗い路地裏からでも良く見える、中心にそびえ立つ、あせて黒く腐食した本城。表側の人間は誰一人として入ったことのないと言われるそこは、常に不気味な紫の光を湛えており、モルタルと混凝土、硬砂岩で作られた使い古しのアパートメントが城壁さながらに取り囲んでいる。この先にある旧市街はまるで迷路のように入り組んでいるとされ、入ったらまず抜け出せないとの言葉は、ここから来ているとされている。
……つまり、奥まで踏み入った者は誰もいないということ。
そしてそこに澱のように溜まるのは、当然あぶれものばかりだ。手前や中ほどならばまだゴロツキやガラの悪い者たちだけで済むが、奥に行けば行くほど、危険な者がひしめいているという。
真っ当なフリーダ市民であれば、見えない境界線から先には絶対に進まない。中ほどまで来てしまえば、それこそ命に関わるのだから。
「は、早くどこかに抜けなきゃ……」
このままではマズいと、焦って震え声を出した、そのときだった。
「そんなに急いでどうしたんだい?」
「ひ――」
突然背後からかけられた声に、背筋と肩が跳ね上がる。おそるおそる振り向くと、そこにはくたびれた革鎧をまとった二人の大柄な男たちが立っていた。
女の独り歩きに親切で声をかけてくれたわけでは――ない。ニヤニヤとした表情には下卑た想像が漏れ出している。薄汚れた革鎧と、手入れの久しい髪。不審さが鎧をまとって歩いているような見た目。路地裏に住み付いた冒険者崩れか。このままでは間違いなく、かどわかされる。
母に気を付けてと言われたばかりなのに、この体たらくとは。
身構えて、後ずさりすると、男の一人が、
「おいおい、ちょっと声かけたくらいで怖がることはないだろ?」
「…………」
答えずにそのまま黙っていると、隣の男が品のない笑い声を上げた。
「ははは、おいおい、お前とは話したくないってよ?」
「けっ、外から入って来る女は随分とすかしてんのな」
「なあ、俺たちとちょっとだけ遊ぼうぜ?」
片方の男が悪態をつく一方、もう一人の男が薄気味の悪い笑顔を向けながら迫って来る。腕を取られそうになるのを察して、腕を引いた。
「い、嫌です!」
「おっと、そう言わずによ。折角こんなところに入り込んだんだ。ここのルールを、みっちり教えてやるよ。へへへ……」
じりじりと迫って来るのを見て、逃げなければと思うも、しかし来た道は男たちによってふさがれている。だが、このまままごついていれば彼らのいいようにされてしまうのは目に見えている。
(そんなの……)
そうなったときのことを想像し、身体が寒くなる。それは絶対に嫌だ。見も知らぬ男どもに、肌を触れさせるなど考えただけでおぞましい。
ならば、一か八か、奥に逃げるか――
「お? どこに逃げるんだ? まさか、奥に行くつもりか? ははっ、やめとけやめとけ。お嬢ちゃんみたいなか弱そうな女が奥に一歩でも足を踏み入れちまったら、それこそ骨も残らねぇぞ?」
「おいおいそれは食われるときの話だろうが? ま、少なくとも無事な状態で外に出ることはできないだろうけどな」
――手足を切られて奥の連中の慰み者になるか。奴隷の首枷を付けられて売り飛ばされるか。生きたまま腑分けされて、薬の材料にでもされるか。怪物どものエサになるか。
笑い声と共に浴びせられる世にもおぞましい話に、足がすくんで動かない。
「俺たちに保護された方が、安全だと思うぜ? ほら?」
「え――?」
なにかを指し示すような男の声に誘われ、奥の闇に目を向ければ、闇の中に赤い点のような光がいくつもいくつも輝いているのが見えた。やがてすぐにそれが、生き物の目だということに気付く。なんの生き物かまではわからない。だが、獣やモンスターのようには思えない――
狙われているのか。自分は。前にも後ろにも、敵ばかり。挟まれた。助かる未来が思い浮かばない。
(い、いや……)
どうすればいいのか。考えても、思いつかなかった。抵抗するにも、ポーション作りにばかり特化した自分の貧弱な魔術では、背後の冒険者崩れにも、目の前の闇の中の何かにも、効果は期待できない。
――もう、どうでもいいのではないか。
「あ――」
ふいに頭の中に響いたのは、諦めを促すようなそんな言葉。その言葉を認識した途端、身体の力がすっと抜けてしまった。
このまま頑張って生きたところで、どうなるというのか。どうせ工房は傾いたまま立て直すこともできず、いずれ大手の工房に取引先をすべて持っていかれる。工房の維持費は払えない。生活費も賄えない。母の治療費も捻出できない。終わりだ。ここで無事に逃げおおせたとしても、フリーダでその後生活できるビジョンが見えなかった。
「…………」
「お? 諦めたか? だよな、それしかねぇもんな」
「へへ、それじゃ、遠慮なく……」
冒険者崩れたちが迫って来る。じりじりと。舐るように。
そんな中、前方にあったその赤い輝きが不意に消えた。それと同時に、奥の闇の中から足音が聞こえてくる。
奥の闇の中の何かも、自分に狙いを定めたのか。そう思った、そんなときだった。
「あ、ごめん、待ったー?」
そんな気安げな声と共に、一人の少年が闇の中から現れたのは。
「え――?」
「あ?」
「お?」
そんな呆気にとられたような声は、自分と男たちが発したもの。突然にこやかな表情で現れた少年に、困惑が隠せない。
闇の中、路地裏の奥から出てきたのは、なんの変哲もない少年だった。
茶色がかった髪の毛はところどころ跳ねたくせっ毛で、短めに切り揃えられており、表情は柔らかく優しげで、子供っぽさを感じさせる。背丈は自分よりも少し高い程度。同じ年頃の少年たちと比べれば、少し小さい程度か。見たこともない不思議な格好をしており、背中には大きめのバッグが一つ。冒険者だろうか。まるで荷運び役と呼ばれる、迷宮探索で得られる自生した素材やモンスターの核石を持ち運ぶ者のよう。印象ゆえ違うかもしれないが、しかし路地裏の住人にしては、まったくと言っていいほど毒気がない。どこにでもいそうな、至って普通の少年にしか見えなかった。
彼は自分の方を向いて、気安げに手を挙げていた。まるで、恋人との待ち合わせをしていたかのように。周囲には他に誰かいるわけでもない。ならば、やはり声をかけたのは自分にだろうか。心なしか、顔色が悪いようにも思えたが――。
「おい、テメェなにモンだ?」
男の一人が凄むと、少年は居心地が悪そうに指をつんつんさせ、頼りなさそうな声で、
「え、えっと、彼女と待ち合わせしてたんですけど……」
「ふざけてんじゃねぇぞ? こんなところで待ち合わせなんかするわけあるかよ?」
「いやー、最近マンネリ化してきたからたまには別のところにしようって話になって、ここならいつもと違ってすごいスリルを味わえるかなってそれで……えへ」
「この女は俺たちと遊ぶんだ。お前みたいなもやしの彼氏はお呼びじゃねぇんだよ」
「へへ、黙って見てる分なら、別に構わねぇぜ?」
「いやー、僕そういう特殊な性癖とか持ってないからアルファベットでエヌティーアール的な展開はちょっと無理って言うか……」
「じゃあさっさと消えな」
「……えっと、どうしても帰らなかきゃダメですかね?」
「たりめーだ! ひっこめやオラ!」
「ひいっ!」
少年はやにわに大きな声を出されて、ビクついた。人のよさそうな少年が、勇気を振り絞って助けようとしてくれたのだろう。だが、この冒険者崩れのような男たちは、体格もよく、武器を持っている。対して少年は武器もなく、大きなバックが一つのみ。男たちがもやしと評したように、ほっそりとしていて荒事にはまるで無縁そう。これではお話にならない。
「逃げて……」
「いやー、でもそう言うわけにもいかないでしょ……」
自分の不注意がもとで迷惑をかけたくはなかったが、少年は頷かなかった。どういうわけか、男たちを恐れているにもかかわらず、どこか余裕があるというか、他人事というか、困ったような雰囲気を醸し出している。……あと何故かやたらと顔色が悪いのは、何か悪い物でも食べたのだろうか。
すると、男の一人が剣を抜いた。
「失せろガキ。斬られたくなかったらな」
「だからそういうわけにもいかないって言ってるんだけどなぁ……」
「じゃあどうするんだ? このまま俺に斬られたいってのかよ?」
「あ、それは嫌です。無理です。痛いのとか超苦手なんで」
「テメェ、ふざけるのもいい加減にしろよ……」
「僕はふざけてるわけじゃないんだけどなぁ」
少年はふと、服の腕部分からなにかを手元へと滑らせた。
「あんまりこういう脅しっぽいのは好きじゃないんだけど……これ、どう思うかな?」
そう言って少年が見せたのは、
「ま、魔杖!?」
「魔法使いだと!?」
「ま、一応ね」
――魔杖。魔法使いが持つ、魔力の調整装置だ。魔法使いの発する魔力は常に一定ではなく、感情などに左右されやすい傾向があるが、魔杖を通すと不定形な魔力を適切な波長に変換して、術式に送り込むことができる。先端についている宝石の大きさによって、調整できる魔力の量も変わると言うが――
「は、ハッタリだ! こんなひょろいガキが魔法使いなわけあるかよ!」
「いやその言い分はおかしいでしょ? どう考えても筋肉ムキムキでガタイいい魔法使いの方が不自然だって……いや、まあ絶対にないとは言い切れないけどさ。そっちはたぶん少数派だよ? マイノリティーマイノリティー」
男の的外れな台詞に、少年は呆れている。
ともあれ、魔杖を見て動揺し始めた男たちに、少年が、
「で、どうするの? 僕も人間相手にはあんまり属性魔術とか使いたくないんけど、どうしてもって言うならやるよ? ただ、あまり手加減に向いてない属性だから、最悪とんでもない目に遭うってことは理解していて欲しい」
そう言うや否や、少年は周囲に魔力を溢れさせる。しかしてそれは、これまで感じたことのない強大な魔力だった。マイスターであるため、自身もある程度の魔術はたしなむが、そんなのとはまるで次元の違う質と量。おそらくは気が遠くなるほどの高いレベルの魔法使いだ。自分と変わらない年ごろにもかかわらず、宮廷にいるような老齢した魔法使いなみの魔力といっても過言ではないだろう。
「ひっ――!! あ、あああああああああ……」
「うぐっ……」
冒険者崩れの二人は……すでに戦意を喪失していた。腐っても冒険者であった者たちであるため、レベルの高い魔法使いの恐ろしさが身に染みてわかっているのだろう。いや、こんな濃密な魔力が渦巻く場に置かれれば、よほど剛の者でない限り堪えられないはずだ。
(殺気も乗せずに、このレベルなんて……)
魔法使いは、魔力での威圧に殺気を乗せる。威圧したい対象の周囲を術者の殺意で満たすのだ。それが心に与える衝撃やダメージは、相当なものになるとのこと。当然それは、魔力の多さや質でいかようにも変化するため、レベルの高い魔法使いになると、発するだけで相手を昏倒させることができるとも言われている。
「わ、わかった……わかったわかったわかった! 俺たちが悪かったから!」
「も、もうこの子に手は出さねぇ! だから許してくれ!」
目を紫の魔力光で輝かせ、首に魔力斑を浮かび上がらせて、斜めに構えて佇む少年。先ほどまでの怯えは、一体どこに行ったのか。半身を路地裏の鬱屈とした陰に浸して、いまは魔法使いらしい陰気で剣呑な気配をまとっている。
そんな彼に、男たちが地面に頭をこすりつけるくらいに平伏して懇願する。少年は魔力を高めたまま、首を横にクイッと捻り、目の前から消えろと指示すると、冒険者崩れたちは命からがらといった風に半泣きになって走り去っていった。
そんな後ろ姿を見て、魔力を収めた少年がポツリと漏らす。
「そんなに怖がらなくったって。怖かったのは僕の方だったってのに……ねぇ?」
「え……」
「ホラ見てよ、足が……」
指の示す先には、少年の膝があった。よくよく見れば、膝から下がガクガクと小刻みに震えている。顔を上げれば目はウルウルで目尻にも涙。あの男たちがそんなに怖かったのか。いや、しかしそんなはずは――
「それで、大丈夫?」
そんな状態で無事かどうかを訪ねてくるのは、なんだかおかしくなってしまうが――
「ええと、はい。おかげさまで助かりました。ありがとうございます」
「でも、どうしてこんなところに?」
「冒険者ギルドの方に向かっていたんですけど、道が人でふさがれてて、それで」
「あー、僕とおんなじ理由だねー。僕の方は帰り道だけど。あっちに抜けると、安全だよ?僕もあっちを通ってここにきたからさ」
「……あちらは路地裏の奥ですけど」
「大丈夫だいじょーぶ。すぐに右に曲がれば抜けられるから、危険はないよ」
助けてくれた彼がそう言うのなら、そうなのだろう。抜け道は決まった。
「重ね重ねありがとうございます……」
「…………」
お礼を言った折、ふと少年が自分の顔を覗き込むように注視してきた。
「……あの、どうかしました?」
「いやね。君、元気ないでしょ?」
「それは」
言われて、ドキリとする。未来に対する不安が、思った以上に顔に出ていたのか。すると少年は、また袖口に魔杖を滑らせ、
「ついでだし、ちょっと魔術をかけてあげるよ」
「は? え? 魔術って」
「あ、安心して、攻撃的なのとか呪い的なのとかじゃないから。元気が出る魔術」
そう言うと、彼は呪文を唱え、
――勇心ブレイバーマイン。
そんな、聞いたこともない汎用魔術の名前を口にした。
「あ……」
途端だった。足元から頭のてっぺんまで、柔らかく暖かな魔力で満たされ、心が充足感であふれてくる。いままでしこりのように心に巣食っていた未来への不安が、まるで気にならなくなった。
(こんな、ことって)
――強化の魔術か。いや、身体能力が上がった事実も、魔力が一時的に増えた事実もない。ただ心が、心が元気なときの状態に、立ち返った。
これは、いつだったか。初めてポーションを作りあげたときの、あの希望に満ちたあのころの――
「元気ってエネルギーだからさ、身体を動かすのと同じで何か補給しないと出せないでしょ? 楽しこととか、いいこととかさ。でも、僕らにはホラ、魔術っていう理不尽があるわけで。こうやって元気を出してあげることができるのです。厳密にはこれ元気じゃなくて勇気なんだけどね?」
そんなことを言ってイタズラ小僧のように微笑む、少年。そんな彼に、気付けば訪ねていた。
「……どうして?」
「うん? だって君、いまにも死にそうな顔してたからさ。それも会社クビになって、電車に飛び込む前のサラリーマン並に悪かったよ。もう死んでるんじゃないかってくらいひっどい顔」
たとえはよくわからなかったが、よほどひどい顔をしていたらしい。
「元気さえあれば、世の中意外となんとかなるよ?」
「そう……ですかね」
「そうそう。周りが死体ばっかりで僕たちもすぐにああなるんだーっていうような、超絶体絶命ってときにも、頑張れば案外なんとかなるし。これもなにかの縁だからさ、僕がかけた魔術の分だけでいいから、もうちょっと頑張ってみてよ。ね?」
彼の笑顔を見ると、もう少しだけ、もう少しだけ、頑張ってみようかという気になる。
「……はい、わかりました」
「オッケー、じゃあ気を付けてね」
優しげな調子でそう口にする少年、先ほどから気になっていたことを指摘する。
「あの、失礼ですけど、その……あなたも顔色、悪いですよ」
「あー、うん。それは、わかってるから。気にしないで、大丈夫だから」
「は、はぁ……」
顔色の悪さは、すごまれたのがよほど精神に来たからなのかとそう思ったが、どうやらそうではないらしい。少年は、去り際、「オカマ……オカマ……うおぇっ」とえずいていたのが印象的だった。
――ともあれ、これで無事に路地裏を抜けられる。そう安堵して、少年が教えてくれた道を進み始めると、ふと気付いた。
(あれ? なんか焦げ臭い……?)
鼻をくすぐったわずかな焦げ臭さに顔をしかめる。何か近くで焼いたのか。それとも火事か。首を傾げつつ辺りを確認すると、ふと、建物の壁際に何かが転がっているのに気付いた。
暗がりに目を凝らし、のぞき込むと、
「ひっ!?」
路地裏の暗がり、道の隅。そこにあったのは、うずくまった状態で転がされた人間だった。見れば服がところどころ焦げていて、煙を上げている。しかもそれは一つだけではない。少年が指し示してくれた道の先に、いくつもいくつも転がっている。人間も多いが、人間だけではない。見たこともない獣や、迷宮で出てくるようなモンスターまで、細く立ち昇る煙を上げて、道の端で痙攣していた。
……誰の、仕業なのだろうか。いや、ここはさっきの少年が通ってきた道だ。答えは、一つしかない。
正解にたどり着き、背筋をうそ寒くさせたそんなとき、
――一人歩きの小人が出たぞ。
――魔女の弟子に触れるな。近づくな。鉄槌を落とされる。
――声を呑み込め、息をひそめろ。じゃなけりゃ『黒曜牙』の二の舞だ。
――人のよさそうな顔に騙されるな。アイツの瞳は冷え切っているぞ。
「…………」
路地裏にこだまする不穏な声。何者かが潜んでいるのだろうか。出てくる気配はない。そもそも、気配すらない。辺りを見回しても、見上げても、どこにも、なにも。あるのは黒くカビた路地裏の建物と、やけに細まった青空だけ。それしかない。
こちらが困惑する中も、路地裏の影たちはただひたすらに、誰かのことを恐れているような震え声を繰り返し繰り返し響かせていた。