皇太子殿下、ご謀反 ――婚約破棄までは想定していたのですが……
「今日このときをもってこの私、カンタール帝国皇太子フランソワ・セルジュ・ド・イバルラは、ブルターニュ侯爵令嬢マリアンヌ・ジェルヴェーズとの婚約を破棄する!」
ここ帝立カンタール学園、その卒業パーティーも佳境に入った頃、大講堂中に響き渡る声でそう宣言したのは今年で御年18になる皇太子――フランソワ殿下でした。その傍らには特徴的なピンク髪、褐色の肌の小柄な少女、闇エルフのイルウィングが侍っています。
不思議と悲しみはございませんでした。来るべき時が来た、という感じです。わたくしはただ静かに頭を下げました。
「理由をお聞かせ願えましょうか?」
「お前のような心根の醜い女は次期皇帝の婚約者として相応しくないからだ。心当たりがあろう?」
そう言われたところで心当たりなどありません。それに、フランソワ殿下は本当に自分が次期皇帝になれると信じているのでしょうか。
殿下はこれまでに何度も皇帝陛下の御不興を買っていて、そのせいでついこの間まで、学園生活に費やすはずだった年月の実に3年あまりを北方辺境での軍務に空費しています。殿下がこのまま放縦放埒の限りを尽くしていたら陛下から廃太子の処分を賜るのも時間の問題でしょう。実際、第二皇子のユベール・オラース殿下は陛下の覚えもめでたく、帝国宰相シモン・ド・リスナール、さらには侍従長ゴーティエ・ザネッティもユベール殿下派だと聞いています。
殿下をお諫めするのもこれが最後の機会になりましょうか……。わたくしはそう思い定め、下げていた顔を屹として上げたのでございます。
「いいえ、心当たりはございませぬ」
「まだしらを切るつもりか……? ならばやむを得ぬ……。イリィ、証言せよ!」
イリィことイルウィング、彼女は殿下が北方辺境に左遷されていた間に知り合ったという闇エルフで、桃色に艶めく銀の髪、褐色の肌に金色の瞳の美少女です。彼女が殿下の紹介状を手に学園にやって来たのは1年前の今日のことでした。闇エルフの彼女は帝国貴族の礼儀作法に無頓着で、たびたび騒動を巻き起こしておりましたが、それがかえって周りの男子を惹きつけたのかもしれません。次代の帝国を担うと目され、文武に才能を発揮していた男子がみなことごとく彼女に籠絡されていきました。
イルウィングが殿下の思い人だというのならまだ納得もできたのでしょうが、学園での彼女の振る舞いはそのようなものではありませんでした。
女子生徒への態度は高圧的にして傲慢。殿下の寵愛を笠に着てか、名家の女子から挨拶されても無視するぐらいはたびたびのことでした。
それでも、彼女は殿方に対しては常に媚びるような態度を取り続けておりましたし、彼女に魅了されていた男子生徒たちもそれを咎めるようなことはございませんでした。
わたくしがそんな彼女に意見するようになったのは当然のことでございましょう。
「わたし、イルウィングはマリアンヌさまからひどいいじめを受けました。このことは殿下のご学友からも証言をいただけるはずです。フラン、フランソワ皇太子殿下におかれましては公平な五歳……じゃなかった……ご裁断を頂きたく……」
イルウィングが手で顔を覆ってよよよと泣き始めました。そのあまりのわざとらしさときたら失笑を堪えるのも大変なほどでした。殿下は本当にこんな女の言うことを信じているのでしょうか。
「そこなるイルウィングとやらが何を言ったかは存じませんが、わたくしには心当たりのないことにございます」
わたくしがそう告げるとフランソワ殿下がそわそわと落ち着かない様子になりました。これはもうひと押しすればいけそうでしょうか?
「嘘をつけ! 貴様がイリィにした数々の非道を忘れたとは言わせぬぞ!!」
殿下の様子がおかしい。先ほどからわたくしを糾弾すると言いつつ具体的なことは何も仰いません。わたくしを失脚させるつもりならもう少し何か材料を用意しておくものではないでしょうか。
とは言え、わたくしがイルウィングに非道をなしたなどといわれたら反論せざるを得ません。
「それはどういう意味でございましょうか?」
「白々しいことを!! もうよい、マリアンヌを連れて行け! 詳しいことは俺が直々に後でしっかりと検める!」
「なっ!? 殿下! お待ちくださいっ! 殿下っ!?」
まさかここまで話が通じないとは思っておりませんでした。殿下はさきほどからわたくしに罪有りと一方的に言い募るだけでその根拠を示そうとはなさらない。そんなものはないのだから当たり前と言えば当たり前のことなのかもしれませんが……。
そのとき、学園大講堂に大音声が響き渡りました。
「なにをしておるかぁっ!!!!」
それは腹の底を重く打つような厳しい声音でした。この声はザカリー皇帝陛下!? なぜここに? そしてこの剣幕、これはそうとうお怒りになっておられる?!
「おお、これは太上皇帝陛下。何故このようなところに?」
しかしフランソワ殿下は陛下のお怒りように全く気付いていないご様子で、顔色一つ変えずに陛下をお迎えになりました。いえ、殿下は今なんとおっしゃいましたか? 太上皇帝陛下……、太上皇帝陛下ですって?
「む? 太上皇帝だと? なんの冗談だ。余はまだ退位しておらぬ。まあいい。余がここへ参ったはお前のことだ、フランソワ」
「はあ……」
フランソワ殿下は陛下にそう言われてもまだ首を傾げておられます。もしかすると本当にお気付きになっておいででないのかもしれません。陛下がお見えになった理由、それは……、
「ブルターニュ侯爵令嬢マリアンヌ。フランソワがここで何をしていたか朕に説明せよ」
陛下がこちらをご覧になられました。わたくしは慌てて姿勢を正しました。
「はい、陛下。殿下はわたくしに対し、婚約を破棄する……と……」
わたくしの言葉に陛下の眉間に深いシワが刻まれました。どうやらわたくしの推測は当たっていたようです。
「フランソワ、マリアンヌ嬢の言は真実か?」
「はい、父上。実は私、ここなるイリタニアを愛しておりまして、彼女と改めて婚約するため、マリアンヌとの話をなかったことにさせていただきたいのです」
殿下は満面の笑みを浮かべてとんでもないことを仰りました。それを聞いたわたくしは唖然としてしまいました。殿下がいくらイルウィングを愛していたとしても、それだけの理由でわたくしとの婚約を破棄していいはずがありません。
「フランソワ・セルジュ……、なんと愚かな……。朕は我が子の育て方を過った……。フランソワ、そなたには失望した……。よかろう、マリアンヌ嬢との婚約は破談としよう。代わりにお前は廃嫡じゃ。しばらく謹慎しておれ。追って沙汰を……」
「マリィとの婚約破棄は確かに言質を頂きました。しかし、わたくしの廃嫡についてはお受けいたしかねます、父上。いや、上皇陛下?」
不思議とフランソワ殿下に動じた様子はありませんでした。のみならず、なおも皇帝陛下を上皇とお呼びになり、あろうことか口角をにいと上げて不敵にお笑いになっているのです。
「イリィ! 門を開け!」
「了解、フラン……」
イルウィングが両手を足下に突き出すと講堂の床がまばゆく輝いて……、彼女の手から白い光の輪が躍り出て……、円と、そして不可思議な紋様を描き出して……。あれは……、あれはいったい……?!
イリィの足下に転移門が開く。北の辺境での3年あまり、俺は闇エルフや北の蛮族――スエビの民――と友誼を結ぶことに心を砕いてきた。父上の統治は苛烈にすぎる。帝国内は怨嗟の声で溢れかえり、反乱の兆しはそこかしこで燻っていて今にも燃え上がる寸前だ。父上が俺に帝位を譲ってくれるまで待っていたらきっと間に合わない。
だから俺は立つことにした。父上の苛政を終わらせる。俺と、イリィと、仲間たちとで終わらせるのだ。マリィには申し訳ないが餌になってもらった。俺がマリィとの婚約破棄を望んでいて、学園の卒業パーティーでそれを宣言するつもりだ、という噂を流しておいた。
父上は体面を重んずる。俺がマリィとの婚約を破棄するようなことがあれば父上の顔は丸潰れだ。あの人ならきっとそのようなことをお許しにはなるまい。そう信じていたのだが、いざ婚約を破棄しようという段になってもなかなか父が現れないので少し焦った。当初の想定では俺が婚約破棄を宣言する前に乗り込んでくるものと思っていたぐらいなのだ。あのまま何事もなくパーティーが終わってしまったらと思うと気が気ではなかった。
ただでさえイリィは演技が苦手なのだ。多少わざとらしいぐらいなら構わないが、あんな棒読みではいつバレるか知れたものではない。危ういところで間に合ってくれた。マリィとの婚約を破棄する旨の言質も取った。これでもし俺がしくじってもマリィには迷惑を掛けずに済む。
イリィの開いた転送門から闇エルフ、スエビ族の戦士、そして俺直属の皇太子親衛隊が完全武装で姿を現した。学園の同士たちにも武器が渡る。
さあ、始めようか。俺たちの戦いを。この国を変える戦いを。父上、貴方には今この場で帝位を退いて、太上皇帝になっていただく。
「テオフィル、お前たちは近衛の対処に当たれ。俺は王城に向かう」
「御意」
俺は側近のテオフィル・ド・メルセンヌにそう命じる。テオフィルは俺の養育係でもあった壮年の騎士だ。
「な、なんなのだこれは……?」
突如として現れた俺の兵たちに父上は狼狽の声を上げるばかりだ。無理もない。近衛騎士たちがいるとは言っても彼らはまだ講堂の外、今の皇帝は丸裸も同然だ。テオフィルと俺の親衛隊ならば近衛の精鋭を相手にしても決してひけを取ることはない。俺が王城を制圧するまで父上の身柄を押さえたままでいてくれるだろう。
「イリィ、お前はここに残れ」
「フラン、なぜ? わたしも一緒に行く」
「俺はこれより王城へと攻め上る。お前はマリアンヌが巻き添えにならぬよう守ってやってくれ。お前にしか頼めない」
「フランはズルい。いつもそうだ」
「頼んだ」
「行くぞ! 事ここに到っては王も侯もなく、将も相もない! 我が同士たちよ! 貴様たちと彼奴らとの間にいかほどの違いがあろうか! 帝国の未来を我らの手で掴むのだ!! いざっ、押し出せぇっっ!!!!」
俺は剣を掲げ、あらん限りの声を上げて高らかに叫んだ。イリィが光の魔法を炸裂させる。目眩ましでしかないが今の俺たちにはそれで十分過ぎた。
俺の掛け声と共に、俺と志を同じくする者たちが、一斉に近衛の包囲を蹴散らして講堂から駆け出していった。
「フランソワ殿下……、そんな……まさか……、このような大それた企みごとをいったいいつから……」
マリィが呆然とした様子で呟いた。その顔色は蒼白だ。ずっと俺のことを思っていてくれたのは知っている。彼女には悪いことをしてしまった。だが、もう後戻りはできない。
「許せ、マリアンヌ……。君を騙したくはなかったが、この非才の身では他に方法を思い付かなかった」
マリィにそれだけ告げて俺も学園を出た。
目指すは王城ただ一つ!
かくしてフランソワ殿下のクーデターは見事に成功したのでございます。それはいいのですけれど……。
どうしてわたくしが殿下――いえ、今は陛下になられたのでした――の寝所に呼ばれているのでしょうか。わたくしは確か婚約を破棄された身のはずでは……?
しかも陛下と寝所を一緒にしているのはイルウィングも同じなのです。全くわけが分かりません。
「マリィは馬鹿?」
イルウィングに呆れ声で言われてしまいました。えっと、それはどういう意味なのでしょうか。確かにわたくしは愚か者かもしれません、フランソワ陛下のお考えをまるで察することができておりませんでしたし、今でも何がどうなっているのかさっぱり分かっていないのですから。
「フランはマリィのことが好きなの。後は若い者同士で勝手にやって。わたしはフランと打ち合わせすることがあっただけ。もう寝る」
それだけ言い残すとイリィは寝室を出て行ってしまいました。去り際のあっかんべーが意味深でしたけれど、いえ、そんなことよりも……。
え……?
ええ……??
あの子、今なんと!? わたくしが、フランソワ陛下に、好かれているですって!? あのフランソワ陛下がわたくしのことが好きだったなんて信じられない話です。でも、あの子の言葉には嘘を感じられませんでしたし、それよりなにより……、
「マリィ……、大事な卒業パーティーを台無しにしてすまなかった……、本当に申し訳ないことをしたと思っている」
フランソワ陛下が頭を下げてくるのです。彼の表情はとても辛そうで悲痛なものでした。きっとこの人は本気でそう思っているのでしょう。
「陛下、お顔をお上げになってくださいまし」
「いや、今回の件に関しては俺はお前に詫びねばならぬ立場だ。お前の許しなく顔を上げるわけにはいかぬ」
「しかし……。いえ、そうですね、でしたら……、わたくしには今の状況がよく理解できていないのです。説明していただいてもよろしうございましょうか」
「ああ、そうだな。勿論だとも」
それから殿下はいろいろなことを話してくださいました。北方辺境で出会った賢者から帝国の疲弊を思い知らされことや、またイルウィングが学園で起こした騒動の裏側についてなどです。
「俺の同期の友人たちはみな帝国の改革を志していた。イリィには彼らとの連絡役になってもらっていた。イリィの持つ魔術はそういうことにうってつけだったからな。しかし、イリィが学園の女子からそこまで不興を買っていたとは……。あいつが周りに愛想を振りまくようなことを不得手にしていることは知っていたつもりだったのだが……」
イリィだけでなくマリィ――わたくしにも苦労を掛けることになってしまった、とフランソワ陛下が申し訳なさそうに、改めて頭をお下げになられました。
「陛下、今のわたくしは一介の下女にございますれば、そのように軽々しく頭をお下げになっては……」
わたくしがそう申し上げようとした途中を陛下に遮られました。
「マリィ、俺の勝手な事情で婚約を破棄しておきながらまたこんなことを言う身勝手を許して欲しい。改めて、俺の妃となってはくれまいか」
フランソワがわたくしの手を取ってじっと見つめてきます。陛下が真剣な顔でそのようなことを仰られるので、わたくしは思わず赤面してしまいました。
「陛、下……?」
「もう一度言う。俺の妻となってくれないだろうか?」
その真摯な眼差しにわたくしはもう何も言えなくなってしまいました。フランソワのことは嫌いではありませんでしたが、わたくしは長いこと彼に自分の気持ちを伝えることができずにおりました。
ああ……、わたくしはこの人と一緒になってもいいのでしょうか。
陛下……。
「わたしも賛成。マリィはフランと一緒になるべき」
わたくしの傍らでイリィが力強く賛同の意を示してくれました。ありがたいことでございま……、
ん?
「イリィ?! お前いつから聞いていたんだ?」
フランソワが慌てた様子でイルウィングを問い質します。
「安心して、忘れものを取りに戻ってきただけ。それとわたしに愛想がないのは本当のことだから別にいい。気にしてない」
「ほぼほぼ最初からじゃないか……」
フランソワが脱力した様子で溜息を吐かれました。そんな彼をちょっと可愛らしいと思ってしまいました。
「それで、どうなの、マリィ?」
イルウィングが再度わたくしに尋ねてこられます。さようでございますね――、 わたくしはフランソワの前に改めて向き直り、深々と頭を下げました。
「わたくしのような女に過分なお言葉……、謹んでお受けいたします……」
「ありがとう、マリィ!」
フランソワが嬉しそうな笑みを浮かべたかと思うと、あろうことか、そのままわたくしに抱きついてきたのです。私はその勢いに抗しきれず、そのまま寝台の上で押し倒されてしまいました。
「フ、フランソワ!?」
「あ。ああ、すまない。つい感極まってしまって……」
フランソワが照れ臭そうに頬を掻いて謝罪をなさってきました。そんな彼を見て、わたくしは自然と笑みが零れてしまいました。
ああ……、もう本当に……。今のわたくしはさぞかし幸せそうな表情になっていることでしょう。イルウィングにも感謝を申し上げないと……。
「気にしないで。わたしはマリィがおばさんになってから本気出す。最後に勝つのはわたし」
あ、はい。
イリィはやはり油断のならない相手であるようです。もちろん、わたくしとしても負けるつもりなど毛頭ございませんが。
たまにはこういう王子様とヒロインがいてもいいかな、と。