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獅子王陛下の幼妻  作者: 小鳥遊彩
第四章
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80話「謎の少年」

 無限に続くかのような深淵を、私はどこまでも落ちていく。

 自分自身が発する悲鳴以外、何の音も聞こえない無音の闇が延々と広がっている。


 やがて鈍い衝撃が襲った。



「たっ……」


 痛みに顔を顰めるけれども、落下距離を考えれば「痛い」で済むなどあり得ない。

 盛大に尻餅を着いたぐらいで、骨にも臓器にも一切損傷はないみたい。

 自身の状態を確認した後、周囲を見回して驚いた。


「ここは……」


 私がいる場所は、今までに見たどんな場所とも似ていなかった。

 一言で表現するなら、薄暗いな湿地帯だ。

 冷たい雨が降り、私が座り込んでいる地面もぬかるんでいる。


 よろよろと立ち上がったけれど、お尻の部分が濡れていて気持ち悪い。

 でも、落下地点が地面だったのは幸いと言えただろう。

 周囲には、いくつもの水辺が点在している。

 その中には相当に深い場所もある筈だ。

 そんな場所に落ちたらどうなっていたか、想像するのも恐ろしい。


 鬱蒼とした樹々が生い茂っているものの、ここは常に止まない雨が降り続けているのか、今にも腐り落ちそうな植物も多く見られる。

 はっきり言って陰鬱な光景で、とても長居したいとは思えない。

 どこからともなく、鳥……と思しき甲高い泣き声や、水面が泡立つ音が聞こえる。

 見渡す限り、同じような景色が続くようだ。


 どこに向かえば良いか見当も付かぬまま、それでもここに留まりたくはなくて、歩き出すことにした。


 ……でも、ただ進むだけでも相当に困難だ。

 水辺と水辺の間の地面を選んで歩いても、固い地面というのが殆どない。

 ぬかるんでいるだけならまだしも、足を踏み出した途端に沈みそうになって慌てて身を引いた。


 これは、慎重に進まなければ……。


 そう思った時、何かが私の足首に触れた。

 仰天して見下ろせば、水辺から半身を覗かせた何者かが私の足首を掴んでいる。

 俯せ状態になっているため、顔を伺うことはできない。


「きゃっ」


 体勢を立て直そうとしたつもりが、ぬかるんだ地面に滑って転倒してしまう。


「ア、ア、ア……」


 その何者かがゆっくりと顔を上げた。

 その貌をはっきり見た瞬間、さすがの私も短く叫んでしまった。

 どう見ても生者ではない。

 灰色をした肌は、骨に張り付くようにその骨格を浮かび上がらせている。

 眼球のない眼窩は虚ろな空洞で、鼻や唇は削げ落ち、歯が剥き出しになっている。

 ゾンビ、という言葉が脳裏に浮かんだ。


「オンナ……オンナダ……」

「オンナノ……ニオイ……」


 聞き取りにくいくぐもった声だけど、一応言葉を発することができるらしい。

 驚くべきことに、ゾンビはその一体だけじゃなかった。

 次々に濁った水辺から這い上がって来る。

 私の足首を掴んだゾンビは、掴んだままの足首を引っ張ると同時に私の下肢へと覆い被さってくる。


「ちょっと……! いや! やめっ……!」


 あまりに悍ましさ、恐ろしさに挫けそうになる気持ちを奮い立たせて、自由に動かせるほうの足で顔を蹴り付けてやった。

 肉が拉げ、骨が砕ける嫌な感触があったものの、足首を掴んでいた手が緩む。

 私は泥で汚れるのもお構いなしに地面を転がり、それから身を起こして走り出した。

 こうなったら多少のぬかるみは気にしていられない。

 水音と共に、跳ね上がった汚泥が足元を濡らすけれど、あのゾンビに捕まるよりマシだ。


 ある程度走ったところで肩越しに振り返ると、私の遥か後方に、夥しい数のゾンビたちがいる。

 どうやら移動速度は遅いらしく、これなら余裕で振り切れるだろう。

 でも、もしかしたら他にももっと恐ろしいものと出くわすかもしれない。


 そんな考えが脳裏を過った瞬間、「正解」と言わんばかりに「ガアッ!」という声が聞こえた。

 私はその声に驚いて反射的に足を止め、同時に大きく後退った。

 殆ど無意識に取ったその行動が、結果として私の命を救った。

 私の前髪を撫でる風圧と共に振り下ろされた刃物が、先ほどまで私が立っていた場所を抉った。


 唖然として眺めれば、私の前方にゾンビがいる。

 ただ、先ほど沼から這い出してきた個体とは異なる雰囲気を持っている。

 沼から這い出たゾンビは殆ど崩れかけの肉塊といった風情だったけれど、立ち塞がっているゾンビは、幽鬼と化した落ち武者のようだ。

 腐敗した身体に鎧を纏い、その手には錆の浮いた斧を持っている。

 私に振り下ろしたのは、この斧だったに違いない。

 生前、眼球があった部分には青白い光を放つ石が埋め込まれている。

 もしかしたら、これが彼らを動かすエネルギー源なのかもしれない。


 不味いことに、私に斧を振り下ろしたゾンビの後ろからもぞろぞろと仲間が現れた。

 その数、六体。

 どう見ても話が通じる相手ではなく、私は踵を返して逃げ出した。

 獣の咆吼にも似た叫び声と共に、鎧が立てる音がついて来る。

 振り返るだけの余裕はないけれど、鎧ゾンビは沼ゾンビよりも足が速い。

 でも、重い鎧を纏っているせいか、ぬかるみに沈みやすく、歩みがままならないみたい。

 それに私より大柄な分、灌木のような障害物を避けて進むには不利だ。

 私と鎧ゾンビたちの距離は徐々に開いていく。


 とは言え、私もそろそろ息切れしてきた。

 安全な場所を見つけられたら、少し休憩したい……そう思った時、ヒュッと空気を裂く音が聞こえた。


「あっ……!」


 私の首に何かが巻き付いた。

 重たく冷たいそれは、錆びついた鎖だ。


「キャキャキャキャキャ!」


 頭上から甲高い笑い声が降って来る。

 見上げれば、小さな子供……のような何かが木の枝に腰をかけ、鎖はその手から伸びている。

 子供のように見えた「それ」は、黒いマントを着たカボチャだった。

 その頭部にあたるところには、ハロウィンの時期によく見かけるジャック・オー・ランタンがはめ込まれている。

 白い手袋をはめた手に鎖を持ち、その鎖で私の首を絞めているのだ。


 鎖の間に指を差し込もうとするけれど、隙間がないほどしっかりと巻き付いていて、段々と呼吸が苦しくなって来る。

 更に、カボチャ頭の甲高い哄笑に混じって鎧の音が聞こえてきた。

 それは、確実に大きくなっている。


 まずい、非常にまずい。

 このままでは、鎧ゾンビたちに追い付かれてしまう。

 いや、あるいはカボチャ頭に絞殺されるのが先だろうか。

 本当に窮地に陥れば目が覚めるのではないか、そう楽観的に考える気持ちもなくはなかったけれど、さすがにそんな悠長に考えていられる場合ではない。


 この夢の中で死ねばどうなるのかはわからないけど、試してみたいとは思わない。

 何しろ、これは普通の夢ではないのだ。

 現実世界の私にも、相当な悪影響が出るにという確信がある。

 鎖を引っ張ってカボチャ頭を引き摺り降ろそうとしたけれど、小柄な体躯に似合わずびくともしない。

 そうこうしている内に、その気配をはっきりと感じ取れるぐらいに鎧ゾンビたちが近づいて来た。


「た、す……」


 殆ど無意識の内に、掠れた声が漏れ出ていた。

 助けて、と心の中で念じると共に、脳裏に浮かぶのはもちろん彼しかいない。

 さすがに、そんなことは有り得ないとわかっていても。

 何しろここは現実世界ではないのだから。


 朦朧とする意識の中で、甲高い金属音を聞いた。

 鎧ゾンビたちについて追い付かれたのだと思い、覚悟を決めた瞬間、唐突に呼吸が楽になった。

 今の音が鎖を断ち切った音だと気付いたのと、支えを失った身体が傾ぐのは殆ど同時だった。


 ところが、私がぬかるんだ地面に倒れ伏せることはなかった。

 そうなる前に、誰かが私を抱き留めてくれた。

 その姿を見た私は、信じられない思いで目を大きく見開いて叫ぶ。


「陛下!」


 陛下は私の呼び声に答えることはなく、身を翻して鎧ゾンビたちの群れに向かって駆け出す。

 はっきり顔を見たわけじゃないものの、あの後ろ姿を私が見間違える筈がない。

 どうやってここまで来られたのかはわからないけれど、やっぱり私を助けに来てくれたのだ。


 抜身の剣を、鎧ゾンビに向けて振り下ろす。

 金属同士が触れ合う音が何度か響き、鎧ゾンビは明らかに怯んでいる。

 そこで、陛下が私を振り返った。


「……え?」


 私は我が目を疑い、何度も瞬きを繰り返した。

 けれども、どうやら目の錯覚ではなさそうで、それ故に困惑してしまう。


 そこにいるのは、陛下ではなかった。

 陛下とは似ても似つかない、痩せっぽちで小柄な少年だ。

 年の頃は十を過ぎたぐらいで、病人のように痩せた身体を砂色のローブに包んでいる。そ

 の手に持つのは、剣ではなく松明だ。

 幼さの残る顔を縁取る金髪は、陛下のような蜂蜜色ではなく、枯草を思わせるくすんだ色味だ。


 背格好や髪の色、纏う雰囲気も全然違うのにどうして陛下だと思ったのだろう。

 ……いや、一瞬だけ見えたあの姿は間違いなく陛下だった。


 私を見つめる少年の視線の強さに、思わずたじろぐ。

 彼の顔に浮かぶ表情をどう捉えるべきだろうか。

 疑念、憤り、苛立ち、落胆、失望……そのいずれでもないようで、全てに当てはまる、そんな名状し難い面持ちだ。


 でも、私たちが視線を交わしたのはほんの一瞬だった。

 彼は酷く苛立った様子で、私に何か呼び掛けている。

 喋ることができないのか、その声が大気を震わすことはない。

 ただ、身振りからして、ある一点を指して「あちらへ逃げるから一緒に来い」と言っているように思える。


 救世主と呼ぶには、お世辞にも頼り甲斐があるように見えないけれど、この場に留まっているべきでないことは理解できる。

 他に選択肢もなく、私は大きく頷いた。

 少年が駆け出したのを合図に、私もその後へと続いた。


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