36話「クラスメイトとの再会」
窓の外にいる誰かが窓枠を掴もうとするところを室内から見れば、丁度こんな光景なのではないだろうか。
喫驚した私は、思わず小さく叫ぶと同時に後退った。
距離を置きながら、恐る恐る綻びを伺うと、確かに誰かの手先が覗いている。
あまり大きくはないその手は、若い女性のものに見える。
何かを求めるように頼りなく揺れ、それから再び消えた。
今見たものは、いったい何だったのだろうか。
心臓が早鐘を打つのを感じながら、深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせる。
確かに誰かの手が見えた。
いったい誰の手?
そもそもあの綻びはどこに繋がっているのだろう?
考えても、すぐに納得の行く答えが見つかるとは思えないけれど、それでも考えずにはいられなかった。
暫く綻びを眺めていても、特に変化は現れない。
そうしている内に、得体の知れない現象に対する恐怖は薄れ、焦れるような気持ちが込み上げて来る。
もしかして、今のこの状況は私が知りたいことに近付くための好機なのではないだろうか。
幸いにして危険はなさそうだし、と思い切って綻びへと近付いた。
その裂け目の内側を覗き込んでも、金色の燐光を帯びた闇が広がるばかりだ。
それ以外は何も見えない。
……いや。
よく目を凝らしたことで、それが誤りだと気付いた。
綻びの奥、どれぐらいの距離があるのかはわからないけれど、仄かな光が見える。
そして、その光の中に見えるのは……。
「あ、あれって……」
口から掠れた声が漏れた。
その光の中に、駅のホームらしき場所が見えた。
まるで誰かの目を通し、ホームへと入って来た電車を眺めているような、そんな光景だ。
光の中の景色が変わり、今度は車が行き来する交差点を浮かび上がらせる。
これは、信号待ちをしている人の視点だろうか。
「いったいどういうこと?」
口に出したことで、一つ思い浮かぶことがあった。
やはりこの綻びは、元の世界へと繋がっているのではないだろうか。
私がこちらへとやって来たのも、こういう裂け目を通った可能性がある。
もしかして、先ほど見えた手は別世界からやって来た誰かのものでは?
ある考えが過った瞬間、それを肯定するかのように、再び何者かの手が現れた。
綻びの部分から手先のみを覗かせ、何かを掴もうとしても掴めないかのように弱々しく揺れている。
やがて窓枠を掴むように裂け目に手を掛けたけれど、それ以上は何も起こらない。
(きっと狭すぎて通れないのだわ)
私は何故かそう確信した。
なら、あの綻びを広げてはどうだろうか?
でも、いったいどうやって?
連なるように疑問が沸いてきたけれど、私はすぐに答えに行き着いた。
何故なら、私は既にそのやり方を知っているから。
そう、こちらの世界に来たのも私自身の意思だった。
あわや電車に衝突する寸前、自ら現世と深淵を隔てる障壁に穴を開けてそこへ飛び込んだのだから。
ああ、どうして今の今まで忘れていたのだろう。
意識を綻びへと向け、布地を解れさせるようにしてそれを広げて行く。
やがて、私の掌が辛うじて入るぐらいしかなかった裂け目は、小柄な人間なら通り抜けできそうな穴になった。
そこからか細い腕が覗いたかと思うと、穴から吐き出されるようにその腕の本体が地面へと転がった。
それに伴うように、痛そうな悲鳴が聞こえた。
私はその場から逃げることもできず、半ば呆然としながらその様子を見守っていた。
穴から出て来たのは、紺色のコート姿の少女だ。
それが私の通う高校指定の上着であることと、見知った人物であることには、すぐに気付いた。
「鈴木、サヤカ……」
殆ど無意識の内に、クラスメイトの名前を口にしていた。
「いたたたたたた……ああぁ、痛い痛い痛い痛い! いったぁ……」
彼女は蹲ったまま、ひたすら痛いと連呼する。
見たところ怪我をしている様子もないのに、よほど痛みに弱いみたい。
声を掛けるべきか悩んでいると、彼女は僅かに顔を上げた。
私の、というより人の気配に気付いた瞬間、弾かれたように顔を上げた。
それから、まじまじと私の顔を見つめる。
「皇さん……?」
信じられないとでも言うように、大きく目を見開いて尋ねる彼女に気圧されながらも頷いた。
サヤカは限界まで目を開き、顔中に喫驚を張り付けたまま私を見つめる。
そのまま、どれぐらい時間が経っただろうか。
私が口を開こうとした時、サヤカはがっくり項垂れると同時に「あぁー……」と嗚咽にも似た声を漏らした。
「やっぱり皇さんだぁ。ああ、良かったぁ……」
よろよろと立ち上がり、私が反射的に身を引くのもお構いなしに手を取る。
改めて相手の顔を見つめると、一ヶ月前に見た時よりも随分とくたびれた顔をしている。
それに、何だか痩せたというよりはやつれた印象だ。
たった一ヶ月にしても変わりすぎではないか、そう思った時、私の脳裏に浦島太郎の物語が脳裏を過った。
……彼女にとっても、本当に一ヶ月なのだろうか?
サヤカは心底安堵した様子で、「良かった、本当に良かったよぉ」と繰り返しながら私の手を強く握り締める。
「ね、お願い。私はやってないって皆に言って! 岩澤さんが勝手にやったことだって!」
「えっ? えっと、あの」
いきなりそう言われても、何のことだかわからない。
でも、サヤカはお構いなしに続ける。
「皇さんのこと驚かせようって言うから、やめたほうがいいんじゃないかなーって思ってて、そしたらまさかあんなことするなんて思わなくて、知ってたら止めてたし、だから」
「落ち着いて」
私は冷ややかな声で言って、彼女の手を振り解いた。
岩澤というのが誰なのかすぐにはわからなかったけど、話を聞いている内にバンビの本名だということを思い出した。確か、岩澤ケイとかいう名前だった筈だ。
「皇さん?」
「……今日の日付を教えてもらえる?」
「えっ? 今日は確か十八日けど、新刊の発売日だし」
「何月の?」
「何月って、十一月だよね?」
「十一月」
彼女の言葉を反芻した声は、抑揚を欠いていた。
正直なところ、自分がショックを受けたのかどうかわからない。
むしろ「やはり」という思いのほうが強い。
「……って、ここどこ? わたし、学校出たとこだったよね……?」
ここに至り、サヤカは自分が置かれている状況に気付いてキョロキョロし始める。
そんな彼女を放って、私は自分でも意外なほど冷静に「十一月十八日」と反芻する。
サヤカがコートを着ていること、すっかり様変わりしていることから、そんな予感はした。
そしてそれは的中したみたい。
私がこちらの世界で一ヶ月過ごす間に、元の世界では九ヶ月も経過していた。
それに、わかったことはもう一つある。
サヤカの口振りからしてバンビはどうやら女王の座から転落したらしい。
「今、岩澤さんはどうしているの?」
「皇さんのこと突き落としたじゃん? それが、駅のカメラに映ってたとかで、ネンショじゃないけど何かそんな感じの……」
「鑑別所、かしら?」
「そう、それそれ! そのカンベツショに送られた。ニュースにもなって、皇さんが親子で神隠しとか凄い騒ぎで、学校にもマスコミ関係者来て、私も岩澤さんと一緒にいたからってお前も同罪だ! みたいに他のクラスの子から言われて責められて……」
サヤカの声は、後半は涙声になっていた。
概ね私の予想通り、バンビは女王の座から転落どころか今や犯罪者、リーダーを失った群れもまた窮地に立たされているみたい。
群れの末端にいたサヤカもまた、その余波を被ったというところか。
人間、「罪人」の烙印を押された者に対してはとことん強気である。
それに、バンビは目立つ少女だったし、そういう子は得てして反感を買いやすいものだ。
私みたいに。
学園の女王であるバンビが鑑別所送りになった、それは国家公認で罪人の烙印を押されたも同然だ。
バンビに対して密かにやっかみを持っていた子たちは、鬼の首でも取ったように色めき立ったに違いない。
それに、私が「神隠し」に遭ったことも騒ぎを大きくするのに一役買った筈だ。
何しろ、隆俊伯父は有名企業の社長で、その容姿を活かしてタレントとしても活躍している。
そんな彼の姪にして養女が同級生に線路へと突き落とされた、それだけでも相当なスキャンダルなのに、神隠しに遭って行方不明となれば連日ニュースを賑わせたことだろう。
「岩澤さん、大丈夫かしら。ネット上に本名を晒されたりしていない?」
「全部晒されてるよ!」
そう言ったサヤカの声音は嬉々としていて、私は思わず苦笑してしまった。
「あいつ、SNSでもめっちゃ目立ってたもん! フォロワー十万人超えだっけ? 芸能人並のインフルエンサーとか言ってチヤホヤされてたけど、今はいじめの首謀者ってことでめっちゃ叩かれてるよ!」
そう語るサヤカは本当に生き生きとしていて、自業自得とでも言いたげな物言いだ。
そして自分には罪などないと思っているのだろう。
バンビを攻撃している者たちも、きっと表向きは被害者こと私への同情を口にしている筈だ。
実際は私のことなんかどうでもいい癖に。
そんな私の心中など知る由もなく、サヤカは「あっ」と言った。
「皇さん、怪我とかしてないよね? 大丈夫? 元気そうで良かった」
バンビが栄華を誇っていた時には彼女の後ろに隠れていたというのに、転落した途端に私に擦り寄るサヤカは、なかなか世渡り上手だと思う。
バンビたちから嫌がらせを受けている私を気遣ったりと、別に悪い子ではないのだろう。
我が身がかわいい小心者だとは思うけど、そんなの誰だってそうだ。
口を開こうとしたその時、サヤカが大きなげっぷをするのが聞こえた。
その拍子に、彼女の口から何かが飛び出し、私の足下に落ちた。
汚い、そう感じた私は内心で眉を顰めながらも表面上は平静を装う。
けれども、彼女が吐き出したものを見た瞬間に、別の嫌悪感が込み上げてきた。
地面の上で、見たこともない醜悪な生き物が蠢いている。強いて言うなら、猿の顔と手足を持った蝿というのが近いだろうか。
大きさは鳩ほどで、その顔は不自然に拉げていて、動物とも昆虫ともつかない有様だ。
「なっ……」
(何なの、これ?)
それは、上手く開かない羽を不器用に動かし、私に威嚇するように唸った。
思わず後退ったけれど、それには飛行能力が備わっていないのか、飛び掛かってくる様子はない。それどころか、殆ど死にかけているようにも見える。
その生き物は、上手く機能しない自身の身体に苛立つように、あるいは迫り来る死の足音に怯えるように、金属音に似た呻きを漏らす。
嫌悪とも同情ともつかない胸が詰まるような感情を覚えた私は、それから視線を逸らした。
この時になって、サヤカが不自然に静かなことに気付き、そちらに視線を向ける。
彼女は自分の口から飛び出した生き物に目もくれず、茫洋とした目で佇んでいる。
そして、彼女の口からは、燐光を纏った黒い靄が溢れ出している。