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第四十二話 後ろ髪

 シピには、最初、爺の言葉の意味がわからなかった。これまでにない大きな仕事を前に、気を散らされたくないのだろう――そう思って、シピは納得しかけた。


「わかった、では納屋にいよう。手が必要になったら言ってほしい」

「ちがう。おまえらは、キヴィキュラを出なきゃなんねえ」


 驚いて、シピは目を見張る。戸口が開いてオネルヴァが中へ入ってきた。シピは爺とオネルヴァをしばし見比べて、そして問いかける。


「……私たちに、出ていけと、おっしゃるのだろうか」

「……そんだ」


 春めいた空気に似つかわしくないほどの、重苦しい沈黙が流れた。

 シピは思いを巡らす。自分は、決して出来のいい弟子ではなかった。いつも怒鳴られていたし、本当に多くの手間をかけさせた。それに、突然やってきた赤の他人だ。悲しいけれど、放逐されるのは仕方ないと思える。けれど、オネルヴァはどうだろう。

 オネルヴァは、ケシュキタロの養い子である世話人の娘だ。この家に連なる者だ。ならば、出ていく理由などあるはずがない。シピは言葉を選んで、爺の顔を窺い見る。


「……わかった。私は、出よう。しかし、おまえらということは、オネルヴァについてもなのだろうか?」


 事実として、シピはオネルヴァと離れるつもりは微塵もない。互いに所属し合う二人になったのだ。離れてなど生きては行けない。なのでそう尋ねたのは、爺の機嫌を損ねたのだと思ったからだ。きっとなにかシピがやらかしてしまって、それに憤慨してそんなことを言ってしまったのだと。

 シピは、この家を出て過ごすことをまるで思い描いていなかった。ずっと、明けない夜で静かに暮らせると思っていた。夢見心地のままでいられると。開け放たれた窓の外は白々と光に満ちて、作業場の中とシピの目を射す。

 爺は、しっかりとうなずいた。それは、柔らかで決定的な拒絶だ。シピは言葉を失う。


「ここを出て、山を越えろ。あっちの国へ行けば、若いもんが住むにいい街がある」


 一日。シピとオネルヴァがケシュキタロの家に留まることを許された残日数はそれだけ。シピは納屋の中でオネルヴァと二人で座り込んで考える。事態の重さに目が回る。ここを出てどうすればいいのだろう。

 ケッキの祭りがあったサルキヤルヴィへ戻り、ウルスラの商会であるシニサマランへ連絡を取ればいいのだろうか。いや、それはできない。シピは指名手配を受けている。これまでは冬の深さに守られて、キヴィキュラまではその声が届かなかっただけなのだ。

 であれば、やはり爺の言葉通りに、山越えをして国境をまたぐのがいいだろうか。それから、どうすればいいのだろう。――どうすれば、いいのだろう。

 このときにおいても、シピは自活することに思いが向かない。これまでそうしたことがないからだ。だれかの助けなしにここまではやって来れなかった。爺の言葉は、そのことをシピへと自覚させる。

 婆が、大きな革の背追い袋をふたつ持って納屋に現れる。しっかりとした造りで、おそらく爺と婆で作成した商品だろう。シピとオネルヴァの元に置いて、納屋を出ていく。そして、もう一度なにかを持ってゆっくりとやって来る。仕立てのいい革の外套、二着だ。


「着てきんしゃい、ほら」

「……これは、商品ではないか? 刺繍が入っている」

「なんも。いいから。あんたらにやる」


 ゆっくりと、ことさらゆっくりと。婆は何度も作業場と納屋を往復する。シピとオネルヴァの元に、多くの物が積まれて行く。

 シピが用いていた皮なめしの刃銑。鞘をとって確認したら、しっかりと研がれ手入れされていた。他の細々とした道具も革の道具入れに入って。皮袋がいくつか。中には貴重な魚の干物を切り分けたもの。それに多くの肉の燻製。水袋。商品として婆が作っていた小さな革工芸品も入っている。

 運び終わった後、婆はもう一度やって来て、座っているオネルヴァへ言う。


「髪、切ってやる。動かんでな」


 手には櫛と、大ぶりのはさみ。たしかに、ずっと手入れもせずにただ伸ばしていただけだ。言われるままにオネルヴァはじっとしている。

 何度もくしけずられ、オネルヴァの黒髪は真っ直ぐで艶のある本来の美しさを取り戻していく。婆は腰のあたりできれいに切りそろえて、同じように前髪も眉のあたりで切った。隠れていたオネルヴァの蒼碧の瞳があらわになる。

 そして、後ろ髪をまとめる。房飾りのついた革紐で縛る。それも、婆が作った商品だ。シピは、本当に別れが近いのだと知った。


「ほら、あんたも。こっち来て、座り」


 次いで、シピも。乱雑にまとめただけの砂色の髪を解かれて、オネルヴァと同じように手入れされる。言葉のないその時間は、惜しいほどの優しさに満ちている。


「……ほんら、お支度、できたよ」


 婆は、切ったオネルヴァの髪と、シピの髪をそれぞれ違う袋へ集めて入れた。まるでそれが自分へのはなむけかのように、ぎゅっと袋口を握る。シピは泣きそうになる。ゆっくり去っていく婆の曲がった背中に、なにかを言いたいのになにも言えない。

 最後の夕食は、これまでにないほどの品数だった。作業場で、四人で食卓を囲んだ。爺がずっと大事に持っていたらしい酒の瓶を出してきて、注いでシピの前に置いた。言葉はなかった。酒精が喉を灼いた。

 シピはどうにも泣けてしまって、酔った後、爺と婆へ別れの言葉を口にした。つっかかって、しっかりと上手く言えない。

 オネルヴァは、じっとその様子を見てから言った。


「……さよなら。ありがとう。爺。婆」

 

 婆が後ろを向いて、涙を拭った。

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