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紹介頂いた作品(現代)

今日の僕が忘れていても




挿絵(By みてみん)




 目覚めると、()みる音が聞こえてきそうな雪原に立っていた。


 自分の状態がよく分からない。連続性がぷっつりと途切れていた。混乱した心象のまま辺りを見回せば、雪原が際限なく広がっている。遭難者、みたいだ。だけど不思議と恐怖心はない。ただ鳴るような静けさの中、雪は音もなく降り積もる。


 ――ここは、どこなんだろう?


 思考が遅く、過ぎ行く時間の感覚が失われている。防寒具はないのに、高校の制服だけでも寒くはなかった。息を吐けば白く砕け、それが生きている証拠だ。でも、生きているだけだった。結局、それが唯一の実感になる。


 試行錯誤の末、分かったことは、その世界では何かをしても何も果たせず、現実は常に近くにあり、遠くにあるということだった。


 どんな教訓を得ることも、何かを克服することも、解決することも出来ない。荒れ果てた大地を隠すように覆われた白は、時に包帯のようにも見えた。


 徒労感に体を投げ出し、背中から倒れ込む。試しに雪をすくえば、光景や情景が一瞬浮かび上がった。だけど雪の常として、それもある瞬間になると消える。


 誰かの微笑み。誰かの怒った顔。誰かの……涙。


 意識が遠くなる。横目で眺めれば、歩き回った雪原には足跡が生まれ、静謐な美しさは失われていた。明日にはこの雪原も消えるのだろう。


 泥水じみた、何かを残して。



 * * *



《ちょっとそこのアナタ、()()ネクタイが緩んでる》


 そう彼女に声を掛けられたのは、高校三年生になって暫くした日、校門の前でだった。


 春らしい平坦な光に覆われた、記憶に残らない朝。生徒会の役員と思しき人達が一列に並んでいて、何かを呼び掛けている。


 遠くからその一団を認め、何をしているのだろうと歩を進めていると、


「ちょっとそこのアナタ、()()ネクタイが緩んでる」


 そんな風に、声を掛けられた。同学年の生徒会長である彼女に突然注意され、僕はキョトンとしてしまう。色んな驚きを隠せなかった。


「えっと、()()って」

「昨日も注意したでしょ。ちゃんと規則は守ってくれる?」


「え? そうなんですか? その……すいません」


《生徒会長に注意された。ネクタイはきちんと締めること》


 そんなことはノートに書いてなかった。だから僕は戸惑いながらも、慌ててネクタイを締め直す。すると水仙の花を思わせる彼女は満足そうにして、


「今週は風紀週間だから、明日はちゃんとしてきてね。本当は取り締まりなんかしなくても、毎日きちんとするのが当たり前なんだから」


 と、そんな意味のことを伝えた。


 僕は申し訳なさそうに頭を下げ、昇降口に向かう。心臓の鼓動が自覚され、自分が生き物だということを思い出した。まさか声を掛けられるなんて思わなかった。


 七緒(ななお)美咲(みさき)、それが彼女の名前だ。背筋が伸びた、曲がったことが嫌いな彼女。特進クラスに所属し、長い髪と細長い四肢を持つ、簡潔で優雅で美しい人。


 規律に厳しく、人を注意している光景をよく見かけた。人によっては彼女を口煩いと感じたり、煙たがる人もいるみたいだ。でも僕はそうではなかった。


 そして僕は別に不良でもないし、意図的に風紀に反抗している訳でもない。ただ息苦しいのは好きじゃないから、制服のネクタイをしっかりと締めていないだけ。


 一度注意されれば、きちんと規則は守る男だ。


「ちょっとアナタ、今日もネクタイを緩めてるじゃない。これで三日連続よ」

「え? 今日も、また? 三日連続?」


「はぁ……アナタ、何組の生徒? 名前は?」


 それなのに僕は()()()ネクタイをきちんと締めずに登校し、怒られていた。


 普段なら緩めている人が殆どの中で僕だけ浮かび上がり、叱責にも似た注意を受けている。昨日の自分に疑問を持ちつつも、また昨日な今日を繰り返していた。


「まったく。記憶力ないの? 昨日も一昨日も注意したでしょ」

「あ、いえ。その」


「もう、明日はちゃんとしてきてよ。アナタだけなんだからね」

「…………はい」


 力なく、笑ってしまう。「記憶力ないの?」それは日常的に使われる、なんてことのない注意の言葉だ。だけど本当に記憶力が無くなると受け流せず、変に体が硬直し、苦笑いしか出来なくなるようだ。なんとも本当に……情けない。


 僕が「前向性(ぜんこうせい)健忘症(けんぼうしょう)」を患ったのは、高校二年生を終了した日のことだった。


 前向性健忘、何やら難しい言葉だ。簡単にいえば記憶障害の一種で、交通事故などに遭遇した際、その時点を境にして「未来の記憶」を無くす症状を指すらしい。


 つまりは新しく体験したことや、新たに得た知識を覚えていることが出来ないということだ。僕の場合、転んで後頭部を打った事故が原因でそうなった。


 終業式を終えたその日、母親の提案で昼食にピザを食べに隣町まで赴く。大きな木製扉の店の前では小綺麗なお母さんたちが話をしていて、小さな女の子を連れていた。車で店についた僕と母は、外のメニュープレートをじっと眺めていた。


寛貴(ひろき)、どうする?」

「えっと、普通ので、高くないので」


「あんたはいつもそうね。今日くらい」


 そんな会話をしていると、ベルを鳴らして人が出て来た。


「あ……」


 入口付近の壁にもたれかかり、暇そうにしていた小さな女の子が扉に目をやる。ごく自然な動作で、何を思ったのか閉まる直前の扉に小さな手を差し込んだ。


「あぶなっ」


 危ない、と思ったら体が動き、手が勝手に伸びていた。

 後はもう、お決まりのパターンだ。


 ぎゃあとか、うぎゃあとか、そんな種類の短い悲鳴を漏らし、僕は女の子の代わりに重量感ある扉に左手を挟まれた。視線が一度に集まる。僕の母が動転したような声を上げていた。無事だった女の子は、きょとんとした顔で僕を見ていた。


 そこまではよく覚えている。それから先、僕は痛さにもんどりうちながら後退し、足をもつれさせて転んだらしい。店と駐車場の間のコンクリート縁に頭をぶつけ、意識を失う。ぴーぽーぴーぽーと救急車が現れ、倒れた僕を病院に搬送した。


 なんとも間の抜けた話だ。僕らしいといえば、僕らしくもある。


 十七歳にもなって終業式の日に母と食事に出かけていることもそうなら、事故とも呼べない事故で記憶障害になってしまうことも含めてそうだ。後から考えてみると手を差し込むのではなく、女の子を引っ張ればよかったのかもしれない。


 ただ、それが僕が持っている最新の記憶で、それ以降の記憶は新しく蓄積されていかない。温帯地方に降り積もる雪のようだ。一日経てば全部溶け、泥水じみた、あるかなきかの記憶の残滓しか残らない。僕という存在は更新されずにいる。


 正確に言うなら起きてから眠るまで、大体一日分のことだけは覚えていられる。でも寝ると忘れてしまう。寝ないで頑張ってみたこともあるけど、ふっと儚い蝶の羽ばたきみたいな感触に襲われた後、ある瞬間になると一日を忘れている。


 まるでループものの主人公みたいに、僕は明日に辿り着けない。主観の中で経験則は蓄積されず、全てが事故に遭遇した瞬間の僕へとリセットされてしまう。


 これがどういうことか。日常を送ることが少しばかり困難になるということだ。


「……坂上くん、全く反省してないみたいね。今日で四度目よ」

「えっと、ごめんなさい。何がでしょうか? というか、どうして名前を?」


 それでも僕は出来るだけ前と変わらない日々を送ろうとし、学校に通っている。友人やクラスメイトに障害のことは話せずいるが、先生たちのお陰でどうにか学校生活を送れていた。不都合や不便は多いけど、工夫しながらやっている。


「…………私のこと、馬鹿にしてるの? いいわ、分かった。今日の放課後、生徒会室に来てくれるかしら? 言っておくけど、逃げたら本気で怒るから」


「え?」


 そんな僕の相棒は、日々書き溜めた自前のノートだ。日常的に覚えておかなくちゃいけない約束事や注意事項の他、春休みに事故にあって前向性健忘症を患ったことから、それ以降のことが日記形式で書かれている。だからこそ、おかしいんだ。


 注意事項の欄にも日記にも、注意されたことなんて書いてなかったから。


 朝、真っ暗な時間帯にセットされた遠くにある目覚ましに起こされ、部屋中に貼られた注意書きにぎょっとなる。驚きと困惑の内に机の上のノートを読む。脱力したり途方に暮れたりしながら両親の話を聞き、おっかなびっくり学校に向かう。


 何故、僕はこんな状態になっても学校に通っているのか。


 一つは今のところ、一過性でない前向性健忘症の治療方法が確立されていないからだ。ただ記憶障害を治す為には、事故前と同じ生活をすることが望ましい。治療の為にも日常を維持する。日常のある瞬間、ふっと治る事例は多いという。


 ――この障害と付き合っていくしかないんだ。


 学校側も事情を理解してくれていて、文部科学省の特例制度に則り、出席日数だけで卒業できるようになっているという話だ。行くだけで卒業出来るのは、記憶障害になった人間の勇気にもなる。先生たちも心得てくれていて、授業で当てられることもない。授業中はノートに書かれた日記などを読み、宿題は白紙で提出する。


 それがこの春から続く“今の僕”の現状で、担任が場を設けて話したらしい委員長と副委員長を除き、クラスメイトはこのことを知らない。数人いた仲が良かった人間とも進級でクラスが離れ、改めて話すこともしていない。おまけに帰宅部だ。


 だから登校してもひっそりと目立たず、そこそこに愛想笑ったり気の良い男性の委員長に気を配ってもらったりしながら、何とか治療の為に学校に通えていた。


「それで、どうして規則を破ってくるのかしら?」


 しかし、当然ながら躓きは出てくる。でも、これは回避できる事態だ。


「私、毎日毎日、注意してるわよね?」


 なのに毎日注意されている理由が、僕には分からなかった。


「ねぇ、聞いてるの? 坂上君!」


 だけど、今日という日が経つにつれて……。


 “この自分“にとっては一度だけど、結果的に三度も忠告を無視してしまい、四度目にも同じ格好で登校した木曜日。必ず来るよう言い渡されていた僕は、放課後の生徒会室に足を運ぶ。扉の先には、腕を組んだ格好の七緒美咲さんが一人でいた。


「困るんだけど。ひょっとして嫌がらせのつもり? 私、陰でこそこそ言われるのが大嫌いなの。言いたいことがあるなら今日ここではっきり言ってくれるかしら」


 迷っていた。ここで頭を下げて心から謝罪し、ノートの注意事項のところに「ネクタイを必ず締めて登校すること、風紀週間」と書けば問題はきっと解決する。


 本当に、それだけのことなんだと思う。だけど……。


「それとも、何か話せない事情でもあるの? もし釈明があるなら、聞いてあげなくも」


 僕は心に秘め事がある人間そのままに、顔を俯かせた。「え?」と、七緒さんが訝しむような息を落とし、やがて息を呑む。


「まさか、本当に何かあるの?」 

「その……えっと」


 そこで僕は先生以外の学校の人に、初めて前向性健忘症の話をした。


 ただそれは副次的なものだ。障害が注意を守らないでいることの決定的な原因ではない。そのことは今の僕には分かっていたが、そのことを口にしていた。


「……嘘、でしょ?」

「七緒、それが嘘じゃないんだ」


 伝え終えると、見計らったタイミングで扉が開き、助け船が入る。社会科教員で担任の吉岡先生だ。七緒さんに話をしてもらうよう、昼に頼んでいたのだ。


「吉岡先生? 嘘じゃないって」

「あぁ。まだうちの学級委員を除いた生徒以外には話してないし、迷惑になるから友達にも話したくないって坂上が言うんでな。クラスが違う七緒は当然知らないだろうが。坂上はな……その、春休みに事故で」


 僕は顔を俯けながら申し訳なさそうに、そんな僕の視界の端で七緒さんは驚いたように事故の顛末を聞いていた。吉岡先生は話を終えると僕を一瞥し、肩にポンと手を置いて去っていく。「今日はネクタイのこと、ちゃんと書いておけよ」とも。


「……」

「……」


 沈黙が、黄昏色に染まり始めた生徒会室を浸している。僕はちくりと胸が痛んだ。正しいことが好きな彼女が、胸を痛めているであろうことに。


「あ、あのっ」


 彼女が顔を上げる。真っすぐ人を見つめる人が、壇上で凛々しく演説していた人が、不安や申し訳なさを瞳に溜めていた。否応なく、自分が嫌な人間に思えた。


「その、ごめんなさい。私、知らなくて……それで、あの、本当に」

「ううん。違うんだ。そうじゃ、ないんだ」


 そんな弱々しく、自信のない彼女を見るのは初めてだった。しかし僕が否定すると、生来のものか、持前の気丈さを七緒さんは示した。


「何が? そうじゃなくないでしょ? だって」

「ご、ごめんなさい。昨日までの僕は多分、こんな風になるなんて思ってなくて。だけど注意されたことを書かないでいた理由も、わかって……それで」


 言葉を濁すように言うと、利発そうな目を彼女が細めた。


「書かないでって。それって、どういう意味?」

「あ、ノ、ノートに、日常の注意事項とか、約束事とかを書き溜めてて」


 慌てて言い繕うと、怪訝そうにしていた彼女の顔にすっと理解の光が射す。


「あ、そっか。そうしておけば昨日のアナタから今日のアナタに伝わるんだ。でも、それじゃ昨日のアナタは、どうして書かなかったの?」


「それは……」


 冬の間は巣籠りをしている動物がいるみたいに、僕の恋もまた、その時まで隠れていた。二年間、入学式の答辞で壇上に立った彼女を見た時から、そいつはいた。


 同じクラスになることはなかったけど。ただ廊下ですれ違うだけの存在だったけど。だからこそ、幻想はあるにせよ、彼女のことがよく見えたような気がする。


 一年から生徒会役員に信任されていたものの、友達は多くないみたいだった。一人でいることが多い。背筋を伸ばし、一人で昼食を摂っていることも知っている。


 物怖じせずに物事をはっきりと言い、妥協しない強い正義感も人を寄り付かせない原因にさせているのかもしれない。今の生徒会役員とも壁がありそうだった。


 でも、そんな強くて一人で、睨みつけているような強い眼差しを持つ彼女のことが、ずっと気になっていた。だけど接点もなく、何より勇気がなかった。ゼロを積み重ねても、一には辿りつかない。いつかいつかとそればかりで月日が過ぎた。


 それが、今は違う。些細な接点が生まれ、そして僕には本当に今しかなくて。今日しなければ、明日には永遠に辿りつけなくて。それで……。


「あの、」


 苦しい程の想いと共に吐きだした言葉は、かすれていた。


「決して、同情を引こうとしている訳じゃないことを、分かって欲しい。そんな風に言うと難しくなるかもしれないけど。でも……僕にはもう今しかないんだ。その今もすごくあやふやで、明日になっても過去にはならない。僕は十七年と少しの人生経験だけしか積み重ねていくことが出来ない。ずっと、障害から、快復するまで」


 たどたどしく言うと、彼女は感じやすそうな目を瞬かせ、僕を見据えた。


 情緒の奥に居座っている、甘く傷つき易いものが息をする。どうして人は、こんな苦しい想いをしてまで恋をするのだろう。そう思いながら言葉を続けた。


「僕は新しく体験したことや、新しく得た知識を覚えていることが出来ない。精々ノートに書き溜めるだけ。そして、それは情緒についても同じことなんだ」


「坂上くん? アナタ、何を」


 そこで僕は、昨日の僕が注意されても、そのことをノートに書かなかった理由を告げた。恐らく昨日の僕たちも、彼女に注意されたことを疑問に感じた筈だ。


 どうして昨日の僕は、そのことをノートに書いておかなかったのだろう?


 でも、それは僕であるからこそ、その理由に気付けることなんだ。それはとても単純で、言い訳すればそうすることで、僕は明日の空っぽな自分に何かを送っていたんだと思う。希望に似た、何かを。とんでもない構ってちゃんだ。だけど……。


「僕は何度も何度も、慣れることなく、好きな人を見るとドキドキする。その人に声をかけてもらえると、嬉しくなる。それが例え、注意の言葉であっても。その瞬間だけは、記憶障害のことを忘れて、世界が輝いて見えるんだ」


 こんなことを伝えて、どうしたいのだろう。同情を引きたいのだろうか。

 七緒さんは瞠目し、静かな驚愕を露わにしていた。僕は唾を飲み込む。


 自分のことが分からない。自分の為に恋をし、自分の為にその苦しい思いを吐露する。何一つ取り柄のない人間が、自分だけを好きでいる。


 言ってから本当に卑しい人間だと気付いた。以前の僕がそうであるように、今の僕はそれ以上に何も持っていない。彼女に何かを与えることなんて、出来ない。


 ――恋とは結局、自分の為だけにするものなんだろうか。


 考えれば考えるほど、分からなくなる。いずれにせよ、


「それが……ノートに書かなかった理由です」


 僕の恋は、迷惑だ。


「口にしながら、実感しました。迷惑なことばかりで……すみません」


 言い終え、逃げるように腰を上げる。


 七緒さんは僕が何を告げたのか、それがどんな種類のものだったのか、直ぐには分からなかったみたいだ。驚きの只中にいるように呆けていて、目が合うと理知的な色を取り戻すも、「あっ」と即座に逸らされてしまう。


「え、えっと……」


 一度口を開いて何かを言いかけたが、俯き、噤まれる。僕も視線を下に向けた。


「あの……本当に、すみませんでした。忘れてください。あ、明日は必ずネクタイを締めてきます。それと、これからも生徒会頑張って下さい。応援、してます」


 告白の結果を、僕は待たなかった。何を血迷っていたんだと、そればかりが思考をぐろぐろと苛む。昨日の僕たちの助力で、二年間出来ずにいたことが出来た。迷惑ではあったにせよ、そのことに気付いたにせよ、それでよかった。悔いはない。


 ただ……。


「それじゃ、失礼します」


 何も持っていない自分が悔しかった。そしてそれを今から挽回できない自分が、悲しくもあった。勉強やスポーツにもっと必死になっていれば、僕に何かがあれば、彼女に与えられる存在になっただろうか。恋をしても迷惑にならない存在に。


 終わった恋の音が、去り行く足音となって生徒会室に響く。


「ま、待ちなさいよ!」


 だが立ち去ろうとする間際、扉に手をつけた僕の動きを止めるものがあった。


「迷惑って……何が?」


 振り返り、椅子に座った彼女に視線を向ける。肩に力を入れ、下を向き続けている七緒さんがそこにはいた。声が少し上ずっていた。


「何が、迷惑なの? 勝手に言いたいことだけ言って、逃げないで。いきなりそんなこと言われて、放っておかれたら、私、困るじゃない。何が、迷惑なの?」


「それは……」


 言い淀み、自分自身を点検するように言葉を並べる。


「声を掛けてもらいたくて、注意されたことをノートに書かなかったのと……七緒さんを好きになったことが、そもそもの迷惑じゃないかって」


「い、意味がわからない!」


 前髪に表情を隠していた彼女の顔が、視界に現れる。意表を突かれる思いだった。鋭さや険とは無縁な、見たことのない、純朴そうな面持ちの彼女がいた。


「確かに、事情はあるにしろ、声を掛けてもらいたいから規則を守らないなんて、迷惑なことだと思う。でも、人を好きになることって、迷惑なの?」


「わ……分かりません」

「何それ。わ、私、初めて人から告白されたのよ。なのに、そんな」


 そうだったのか、と、心は密かに感じ入る。こんな僕であれ、初めて異性から告白されれば、色々と困惑することもあるのだろう。呵責が渦を巻いた。


「でも……七緒さんに渡せるものが、僕には何もないんです」


 その言葉に反応し、七緒さんが切れ長の目を向ける。


「勝手に決めつけないでよ。そもそも、どうして損得勘定で考えてるの? そうやって世界を割り切ってるの? じゃあなんで女の子を助けたのよ。私、驚いて」


「いや、助けたって程でもないんです。あれも変な負い目を親御さんに与えてしまい、却って迷惑だったかもしれないと、そう思ってる節が日記にもあって」


「助けたことが、負い目を与えて迷惑? ばっっっっかじゃないの? あなた、何なの? 本気でそういう風に思ってるの?」


「あ……はい、少しは」

「意味が分からない。あなたは正しいことをしたのよ、それで迷惑?」


 義憤を滾らせている彼女は、彼女そのものだった。


 ふと痛感する。僕もまた、他人を知る努力も他人に知ってもらう努力もしてこなかった。それは多分、七緒さんもそうだろう。だからこそ、人が彼女を誤解するように、彼女も人を誤解している。それを今、僕は伝えないといけないと思った。


「あの……七緒さん」

「なに?」


「意味が分からないのは、意味を分かろうとしないからだと……そう、思ったり。僕は君がとても行動力があって頭も良いことを知ってる。でも、人は自分じゃないんだ。だから、その人が自分と違う考えを持つのは当たり前というか、そういう背景があったり、根拠があったりするんだ。だからそういうところを考えて――」


「なっ、いきなり何なのよ!? そ、そんなこと、分かって……あぁ、もう!」


 告白の後、どうしてこんなことを話しているのか自分でも分からなくなった。それは七緒さんも同じようで、憤りを机を叩くことで表していた。


「もう……そうじゃ、そうじゃなくて……」


 それから七緒さんは机に片肘をつき、何かを考え込むようにその手を額に当てた。僕は所在を無くし、迷った末に歩みを戻して椅子に座り直す。


「坂上君、私のこと、好きなの?」

「あ……う、うん、多分」


「はっきりして!」

「す、好きです。長い髪も綺麗だし、つり上がった目も魅力的だし、いつも背筋を伸ばして凛としている姿とか、知らず追ってしまっているというか、何というか」


「そ、そこまで言えって言ってない!」

「は、はぁ……すみません」


 受け答えている間、七緒さんは同じ態勢を取っていた。「本当に意味が……違う。あぁ、もう」等と呟き、唐突に黙る。かと思えば唐突に謝罪してくる。


「記憶力ないの、なんて言って、ごめんなさい」

「え? 何が?」


「アナタに言ったの! 私が! 記憶力ないのかって」

「あ、そうなんだ……でも、僕は覚えてないし、実際に記憶障害だし」


 記憶障害。目覚めたばかりの頃には受け入れられなかった事実を、こうして今、自嘲気味に受け止めている自分に驚く。ただそこで、空気の性格が変わった。

 

「……その記憶障害のことだけど、学校まではきちんと来られるの?」

「あ、はい。事故にあって以降の記憶を留めていられないだけで、それまでのこととかは覚えているので、普通に来れます」


「不自由していることとかは?」

「あ~~…………特に」


「嘘よ」

「でも、先生たちがサポートしてくれているので、本当に」


 顔を隠すような格好をとっていた彼女が面を上げる。整っていた前髪が少しばかり乱雑にほつれ、その姿は大人びた彼女を年相応に見せた。


 それから彼女は、口ごもるかのように何事かを言い……。


「な、なら、私も生徒会長だし、助けてあげるわよ」

「え……?」




 * * *




 降り積もった雪が眠っている間に溶ける。

 誰かが雪原の中で笑っていた気がするけど、光と共に消えた。


「ん……」


 真っ暗な世界だ。随分と早い時間に目覚めたようで、二度寝すべく瞼を閉じる。その直後、離れた位置でけたたましく鳴るものがある。目覚まし時計だ。


 あれ、なんでこんな時間に? っていうか、何曜日だっけ?


 疑問に思いながら止めに向かう途中、春休みが始まっていることに気付く。やったぁという安堵が漏れるも、何かがおかしい。母親と共にピザ屋に行ったことが思い出され、同時に薄闇の中でも部屋の違和感に気付いた。張り紙だらけなのだ。


『事故で記憶をなくした。机の上のノートを読め』


 蛍光ペンでそう書かれている一枚に視線を留め、目を疑う。どんな冗談かと笑いたくなったが、「事故」という言葉に“前日“の生々しい記憶が想起される。


「え……嘘、でしょ?」


 終業式、母親、車、お店、女の子、扉、事故。


 記憶や印象が一度に乱れる。それはノートを読む程に深く、激しくなった。記された事実が奔流となって僕に流れ込む。そのことで僕の認識は揺さぶられた。


 まるで奇妙な混沌に、存在そのものをかき乱されるかのように……。


 鉛を呑みこんだような沈鬱を抱えていると、恐る恐るといった調子で開かれた扉から両親が現れた。そこで説明を受け、僕は現実を受け入れる努力を強いられた。


「そっか……そう、なんだ……じゃあ、大学には」

「それはまた後だ。今は治療の為にも高校に通い、卒業を目指そう。そんな顔するな。障害から復帰して大学に進みたくなったら、そこからのんびりやればいい。予備校の金くらい工面する。俺はお前の父親だ、何だってするぞ。大丈夫だ。申し訳なくなんて思うな。その苦しみの半分を俺に寄越せ。な、一緒に頑張ろう」


 肩を叩かれ、スーツと印象が違い過ぎるパジャマ姿の父を見た。前向性健忘症、新しく体験したことを忘れてしまう障害。なら今までこの人は何回、僕にそう言ってくれたのだろう。何度落胆している僕を励まし、肩を叩いてくれたのだろう。


 恐らく……毎日だ。そうやって父親に励まされ、涙ぐまされ、新しい一日をスタートさせる。残された時間でノートを読み込み、朝食を終えて支度を済ませた。


 そうこうしているとチャイムが鳴る。


「あ……」


 胸が高鳴る。本当に、そんなことがあるのだろうか。記憶障害と共に、僕は深刻な妄想に憑りつかれているのではないだろうか。そう思いながら玄関扉を開ける。


「おはよう。ほら、さっさと行くわよ」


 一際高い心臓の音を聞き、僕は目を瞬かせる。思わず扉を閉じた。


「なっ、今日もまた!? なんで閉じるのよ!」


 ノートの冒頭。注意書きのページに記されていたことが、ことここに至ってもやはり信じられなかった。しかし現実が、マンションの共用通路で声を荒げている。


「ちょっと、早く開けなさい!」


 毎朝、七緒美咲さんが迎えに来てくれるというのだ。ずっと目で追っていただけの人が、扉の向こう側にいる。毎朝記憶がリセットされてしまうというのに、昨日の僕は、いや僕たちは何をしているんだろう。なぜ、告白なんかしてるんだろう。


 そうやって僕の日常は、新しい習慣を乗せて回り始めていた。僕が七緒さんに告白したという日の翌日から、彼女は家まで迎えに来てくれるようになったらしい。


 第二土曜は母親と病院に、平日は七緒さんと学校に赴く。それが今の僕の生活。


「それでは、行ってきます。ほら、坂上くん」

「あ、う、うん。行ってくるね」


 両親に見送られ、共に学校に向かう。ネクタイが緩んでいることを指摘され、慌てて直す。通学途中に学校行事や僕を取り巻く学校での環境を説明され、ノートに書かれていることを確認し直す。彼女にノートはコピーされ、読みこまれていた。


 七緒さんの家は学校方面とは反対側に二駅離れている。わざわざ家に寄ってくれる彼女と馴染みの改札を抜け、座れるか座れないかの乗車率の電車に乗り込む。


 窓から外を眺めれば、見慣れた町でも季節が変わっていた。静かな驚きを飲み下す。本当に世界は、僕を残して素知らぬ顔で日々を刻み続けているようだ。


 あんまり、僕を置いていくなよ。


 でも、実感が湧かなかった。日記を読んで重要なことは大体頭に入っている。それでも僕にとっての昨日は高校二年の終業式の日で、それが時間を飛び越え、今、目の前に七緒さんがいるのだ。少しだけ雰囲気の変わったと思える、好きな人が。


「ねぇ、ちょっと聞いてるの?」

「え、あ、うん。あの、ところで僕は七緒さんのこと、何て呼んでるの?」


 夢が現実に滲み出てきたような、現実が夢に足を踏み入れたような。そんな取り留めのない感覚に包まれていた僕は、思わず尋ねる。彼女はきょとんとしていた。


「え? 七緒さん……だけど? それが?」

「そっか。そうだよね。ちなみに告白の結果って、どうなったか聞いても」


「な、何言ってるの!? そんなのないから! あれ、告白じゃないから」

「そうなの……かな? 確かにノートを読み返しても、なんか実感湧かないし、変な感じだったしね。色々と迷惑掛けちゃって……本当、ごめん」


 僕が癖のように謝ると、「何それ、意味がわからな」と、七緒さんは何かを言いかける。口に出すのを止めたらしいことを訝しむと、慌てて言い繕った。


「あ……違う。その、坂上くんが申し訳なく思うのも分かるけど、別に迷惑なんて思ってないし、これも生徒会長の務めだから」


《七緒美咲さんは、生徒会長の務めとして僕の面倒を看てくれている》


 ノートの注意書きには強調してそう書かれていた。事実、日記を見る限り毎日のように迎えに来てくれているらしい。他にもGWが終わった日の僕は、七緒さんと吉岡先生に支えられ、クラスメイトに障害のことを話したとも記されていた。


《障害を患った人間として、皆に気を遣わせてしまうのが嫌で黙っていた》


 それは僕だからこそ、実感としてよく分かる。高校三年という忙しい時期に、新しいクラスの人たちに気を遣わせたくなかった。原因だって情けないし。紛れもなく日記を書いているのは“この自分”であり、違和を感じるものは少ない。


《だけどそのことから生まれる日常の些細な齟齬もあって、話せてよかった》


 ただ驚かされるのは、記憶障害の日々でも、僕が前向きでいることだった。ノートを読むと、昨日の僕たちがより良い未来の為に頑張っていることが分かる。


 その頑張っている理由も……やはり僕だからこそ分かる。隣の人を盗み見ると、前髪を弄っていた。苦笑し、なら今日も頑張らなくちゃという思いが生まれる。


「七緒さん」

「え? あ、な、何?」


 声を掛けると、僕とそんなに身長の変わらない彼女はあたふたとした。そんな見たことのない彼女がおかしくて、笑みを誘われる。


「僕、こんなんだけど頑張るよ。いや、頑張りたいんだ。昨日までの僕が頑張っていたみたいに。出来るだけ、今日を頑張る。迎えにきてくれて、本当に有難う」


 そう伝えると、七緒さんは一瞬だけ目を見開かせ、小さく悲しそうにした。目の奥で彼女が笑う。何か変なことを言ってしまっただろうかと危ぶんでいると、


「それ、昨日も言ってた」


 と、応えた。


「あ……」


 嫌そうでなかったのがせめてもの救いだったが、やってしまったという感は否めない。寒々と焦る。日常の些細な齟齬という言葉の意味も、分かった気がした。


「そう、だったんだ。ごめん、やっぱり小さなことは日記にも書いてないみたいで。こ、今度から注意するよ」


 しかし謝罪と共にそう述べると、「大丈夫だから」と彼女は言う。「書かないでおいて」とも言い添えて。そこで意味が分からず尋ねれば、あるかなきかの微かな笑みを浮かべ、七緒さんは悪戯めいて言った。途方もなく、優雅な笑い方だった。


「毎日、聞きたいから。坂上くんの、頑張り宣言」


 生徒会長だからという理由で、付き添ってくれる七緒さん。その彼女は、知らない彼女として常に僕の前に現れる。僕の知っている七緒さんは、そんな風に笑う人では、笑える人ではなかった。摘まれることを拒む花のような頑なさがあった。


 日記を通じて分かる。次第に僕の日常はその七緒さんを中心に回り始める。そしてこれは日記には書いてなかったけど、多分、以前の僕は眠ることが怖かったんじゃないかと思う。眠れば失われてしまうのだ、今日の喜びも悲しみも、何もかも。


 だけど明日に七緒さんがまた迎えに来てくれて、今日の僕にしてくれたのと同じようにしてくれると思えば、安心して眠ることが出来た。出来るなら連続した自分として、この嬉しさや有難さを引き連れて明日に向かいたい。そうは思うけど。


「あの、七緒さん……無理してない?」

「え? 何が?」


「毎日、迎えに来てくれるの。通学途中で記憶の確認してくれるのとか、凄く有難いんだけど。毎日、なんだよね。勉強や生徒会もあるし、やっぱり迷惑じゃ」


「坂上くん。注意事項のページに大きく書いておいて。“私の行動に対し、迷惑かもしれないと思わないこと”って。まったく。その……好きで、やってるんだし」


「え? 七緒さん、僕のこと好きなの?」

「はぁぁぁぁぁぁ!? ど、どこをどう聞き間違えたらそうなるのよ!?」


 朝、困惑の内に生まれ、夜は感謝と少しの不安の中で消える。

 それを繰り返す。


「おはよう、坂上くん」


「おはよう、今日も暑いわね」


「おはよう、あ、ちゃんと衣替えしてる。えらいえらい」


「おはよう。ごめんなさい、今日はちょっと急ぐから直ぐに出ましょ」


 昨日の僕は彼女の新しいことを知り、それをノートに記す。今日の僕はそれを必死に繋ぎとめ、新しくまた彼女を知る。多くの人が誤解していたように、僕も誤解していた面がある。七緒さんは大人びた雰囲気を持つが、年相応の女の子だった。


《七緒さんと図書館に行った。彼女は勉強し、僕は懐かしい絵本を読んだ。同じ絵本が好きだということが分かった。今度、プレゼントしようと思う》


 からかうと怒る。つまらない冗談を言うと罵る。褒めるとそっぽを向き、陰口を耳にすれば傷つく。虚勢を張る。強がる。実は落語が好きなことを隠している。


 ただ彼女には目指すべき目標があり、それにいつまでも追いつけないことを焦っているようだった。自分に厳しいからこそ他人にも同じ基準で厳しくしてしまう。自覚があるからこそ頑なさは増す。頑なさが融通の無さになる。余裕がなくなる。


「自分で自分を縛ってるのは分かってる。自分から抜け出せなくて、一歩も動けないでいるのも。だけどね、私も……私も頑張りたいと思うの。うん、頑張りたい」


 見たことのない彼女に遭遇する度、僕は言葉を失い、心は急に強い感情に染まりたがる。日記に書き留め、明日に繋ぐ。彼女は話す、聞く、笑う、怒る……


 泣く。


《これを書こうか随分迷った。でも、大切なことなので書くことにする。七緒さんのことだ。彼女は小学五年生の時、N市の繁華街で起きた通り魔事件に巻き込まれた。僕も知ってる、男が刃物を振り回して沢山の犠牲者を生んだ、悲惨な事件だ。


 当時、彼女は事件の現場に母親と一緒にいた。その母親は彼女の目の前で小学生の女の子を助け、男に刺された。それでも最後の力で刃物を奪い、通り魔は別の男に取り押さえられた。母親は厳格だが正義感の強い、信頼厚い検事だったらしい。


 そんな母親を尊敬していた七緒さんは、自分も母親のようにならなくてはと考え、自分にも人にも厳しくなった。それが正義感の強い彼女を作り、だが上手くいかずに焦り、そのことでどんどん頑なになり、自分を追い込んでいったみたいだ》


 朝、七緒さんに関するその記述を読んだ時、心は静かになった。世界は広すぎて分からない。今、この世界にどれだけ悲しい人がいるだろう。人の数だけ物語があり、過去があり、傷があり、目標がある。考え込んでいるとチャイムが鳴った。


 家族、先生、クラスメイト、学級委員長。そして――七緒さん。記憶障害ながらも色んな人に助けられ、僕は普通の人間のように振舞うことが出来ていた。


 でも、人間の性格から来る外界への反応というのは、軸はあれど一様ではないらしい。淡々と記憶障害の事実を受け入れる日もあれば、何が気に入らなかったのか部屋を滅茶苦茶にし、引き籠って親や七緒さんに大声をぶつける時もあるようだ。


 そんな時でも辛抱強く、七緒さんは話を聞いてくれた。扉越しに声をかけ、傍にいてくれた。そのことに腹が立って怒りをぶつけても、「僕の苦しさなんて君には分からない」と言った時があったようでも、それでも、寄り添い続けてくれた。


《「君が僕を構う意味が分からない」と吠えたら、彼女は「分かろうとしないだけ」と言う。「あなたが教えてくれたことじゃない」とも続けた。僕の知らないところで、僕は七緒さんと関わっている。怖い。でも不思議と、救われているのかもしれないという思いも胸の内から湧き上がってきた。自分のことが、分からない》


 今、今、今。連続しつづける今。今は気付くと夏になり、気付くと秋になる。僕の寝る時間と起きる時間も早くなった。ノートは何冊にもなり、重要なことと七緒さんのことを纏めたノートを別に作り、朝は二つのノートと最近の日記を読んだ。


 僕にとっては一睡でも、そうこうしている間に世間では半年以上が過ぎた。


 七緒さんの生徒会長としての任期が終わる。昔は七緒さんの融通の無さ故に、生徒会のメンバーと衝突することも多かったという。でも僕が解任式の日に見た生徒会は、とても仲が良さそうに見えた。壇上であんな風に笑う彼女を、初めて見た。


《七緒美咲さんは生徒会長の務めとして僕の面倒を看てくれていた。そして生徒会長としての任期が終わった今では、友人として面倒を看てくれている》


 季節は独楽のように回り続け、いつしか冬の衣を景色に纏わせるようになった。それでも僕の昨日は高校二年の終業式の日の儘で、重い嘆息を吐いてしまう。


《僕はこのまま障害から快復しないかもしれないし、或いは快復しても、年だけを重ねてしまい、ロクな職業につけないだろう。自分を捨て去ることは出来ない。未来よりも過去が重たい。僕は取り柄のない、愚図でどうしようもない自分のままだ。


 でも七緒さんには未来がある。彼女は検事となる夢を叶えるだろう。それを叶える資質があり、それで多くの人を救うだろう。多くの人に愛されるだろう》


 眠る前、自分の筆跡で書かれたその日記を眺める。どうしてこんなことを残したのか。病んでいたのだろうか。しかし、と考えてしまう。考え込んでしまう。


 いつかの僕がそう記したように、僕と七緒さんは全く異なる人生の道筋を辿ることになるだろう。僕は昨日を向き、彼女は明日を向いて歩く。行き先が違う。


 多くの人間が今日も街や駅ですれ違うように、僕と彼女もそれぞれの道程を歩みながら、今、高校時代、ほんの一瞬だけ並んでいるに過ぎない。


 ただ、それだけのことなんだ。僕が彼女に同情を寄せさせてしまった。思春期の何かが作用し、情を動かさせてしまった。ただ、それだけ。それだけなんだ。


 信じられないことに、彼女が微かな好意を抱いてくれていることも知っている。日記では分からなかったが、今日という日を過ごす内に気付いた。


 彼女はこれから先、もっと綺麗になるだろう。同じ目線で明日を目指せる異性といくらでも出会える。いつまでも僕なんかといるのは、良くないことだ。昨日しかない僕とは違う、彼女は明日がある人だ。何よりも自分は、彼女に相応しくない。


 考える。これから先のことを。自分が傷つきたくないから言っているのではないかと。「相応しくない」という言葉に逃げ、酔い、彼女と共にあり続けることで負担をかけ、そのことで自尊心が脅かされるのを恐れているだけではないかと。


 だがその考えは、あまり僕を楽にしなかった。何かが違った。


 いっそのこと大胆に、彼女を愛していると仮定してみてはどうだろうか。抱きしめたくて、触れたくて、初めての人間になりたくて……。そういった大切な物が手に入るかもしれないと考えながら、それをしないで、彼女を見送るのだ。


 そして自分は彼女を忘れ、積み重ねてきた物もなく、ただ昨日だけを見つめ、世界の片隅で彼女を恋しく思ったり、遠くから見つめたりするのだ。以前のように。


 そうやって僕は気付いた。何も自尊心や愛といった問題を持ち出すまでもない。全てを元に戻すだけだ。次第に僕は、そんなことを連続的に考えるようになる。



 やがて、春がやってきた。



「あ、またネクタイ緩めてる」

 

 僕は僕なりに一年間、どうにか頑張れた。

 それも家族の、先生の、七緒さんのお陰だ。

 

 大学にこそ進学出来なかったが、両親や先生、七緒さんの助けもあり、障害者支援を推進している市内のパン工場での就職が決まった。単純作業の仕事を与えられ、毎日四苦八苦し、初めてを繰り返す。記憶は今も変わらず、一日しかもたない。


 ――明日は今日で、ただ昨日だけは、ずっと昨日なんだ。


 七緒さんも実力を出し切り、県内の国立大の法学部へ進学が決まっていた。受験で忙しい時期にも頻繁に電話をかけてきてくれた。息抜きに遊んだりもした。


 そうした日々の中での、“僕たち“の選択肢。


《前から僕たちが立てていた計画を、今日の僕に託す。日記は七緒に関する記述を消し、別のノートに書き直した。これが明日からの僕のノートだ。注意事項の欄も書き換えが済んでいる。後は七緒について書いたノートと写真、七緒に関する記述が残っている日記を捨てろ。この紙も一緒にだ。出来るだけ夜がいい、それが終わったら飲めなくてもお酒を飲め。浴びるように飲んで寝ろ。この考えに到った経緯は二枚目と三枚目に書いてある。落ち着いたらそれも読め。とても大事なことだ》


 目覚めた僕は、そんな奇妙な指令書を過去の自分から受け取る。今日が卒業式の日であることや、記憶障害を患っていることは注意書きやノートを読んで理解した。時間はかかったが、七緒さんと自分が懇意にしていることも何とか認識した。


 ただ、考えてしまう。七緒さんとの日常。本当にそんなものがあったのか。僕の妄想ではないのか。そう考えても、証拠のように一緒に映った写真があった。


 水仙の花のような人が、向日葵のように微笑んでいた。


 僕の知る昨日の彼女は、そんな風に笑う人ではない。ならきっと、やはり、そういうことなんだろう。だからこそ僕は今日を機に、もう、忘れなくてはいけない。


 ノートに書かれていた通り、七緒さんが家まで僕を迎えに来た。ドキドキして思わず扉を閉めたら怒られた。僕の両親と親しげに挨拶し、「後から行くからね」という母親の声に嬉しそうに頷く。式では卒業生代表の言葉を七緒さんが読んだ。


「ふふ、早咲きの桜。空が知らない雪みたいじゃない?」


 全ての学校行事を終え、七緒さんと帰宅した。少し道を外れ、堤防沿いの桜並木を歩く。常に体験は新しい。昨日も一昨日も、記憶はないが彼女と通った道だ。手が繋がる。「ねぇ、就職してからも、よかったら私が毎朝」そう彼女は。


 そこで僕は七緒さんに「さようなら」を言った。


「え……?」


 華やかな、白い彼女の美貌が凪ぐ。


「いま、なんて?」


 不思議と、苦しかった。世の中に起こる全てのことが、まるで息苦しい同一の地平上に存在してるみたいに。楽しいことも、悲しいことも、全部、彼女を介してしか味わうことが出来ない。そんな生き物になり果てたように、僕は続ける。


 僕たちが、ずっと言おうとしていたことなんだと。これから僕は、一人でやっていかなくちゃいけない。君に頼りっぱなしじゃいけない。甘えっぱなしじゃいけない。人生も違う。それがお互いのためだ。だからと。今日で、さようならと。


 風がそよぎ、崩すように早咲きの桜の花を散らす。僕は自分から彼女の手を離した。訳もなく涙が溢れて来そうになる。


「七緒。僕、こんなんだけど頑張るよ。いや、頑張りたいんだ。昨日までの僕が頑張っていたみたいに。出来るだけ、今日を頑張り続ける。今まで本当に、有難う」


 面と向かうと愛しい気持ちが抑えられない。日記でしか彼女のことを知らないのに、でも別れが必要なことを、きっと、どの僕よりも今の僕は理解していた。


 彼女も薄っすら分かっていたことだと思う。初めから、終わりはこんな形だ。それでよかった、よかったのだと思う。よくあってくれと、願う。


 七緒は暫く動かずにいた。表情もだ。だけどきっと、そういう予感はあったんだと思う。肩を強張らせ、ぎゅっと拳を握り込むと、


「うん、わかった。今までありがとう。あと、卒業……おめでとう」


 そう答え、苦しそうに笑った。


「さようなら、寛貴(ひろき)


 そう、彼女は……。


 もし出来るなら、握手を交わしたいと考えていたが、彼女は鼻を啜って顔を背けた。肩を震わせ、「さようなら」ともう一度言った。「行って」と。


 名残惜しさに揺れながらも、「うん」と応じ、その場から一人帰宅の途についた。自分の人生の評価を試み、これ以上望むべくもないと判断し、涙を溜めた。


 夕方、家で少し豪華な夕飯を食べ、両親にお礼を言う。それからコンビニにノートなどを捨てに行った。二店舗回ってどうにかお酒を買い、飲みながら帰る。


 これで僕の中から、七緒との日々は失われる。眠れば、昨日だ。


 夜は僕の頭上に、冷たくわだかまっていた。アルコールで奇妙にまどろんだ感覚だけが、おかしな言い方だけど、今の僕の本当のリアルのように感じられた。


 他人は結局のところ、いついなくなってもおかしくない。何か外のものに頼らなくても、自分が持っているものだけでやっていけるようにしなくてはならない。


 大勢の僕にそう言われ、僕も自分にそう言い聞かせた。家に帰ると直ぐに寝た。


《今日は初出勤だった。親切な人ばかりだ。仕事での注意事項は仕事用のノートに纏めてある。焦らず、こつこつと、一つずつ。大丈夫、いい職場だよ》


 朝起きて、自分の現状をどうにか受け入れ、職場に向かう毎日。昨日は高校生だった僕が、今は社会人だ。かなり驚く。でもやっていく。それこそどうにか。


 日々をやり過ごす毎日の足音。秒針は僕をせき立てることなく、ゆっくり進む。降り積もった一日は消え、雪原の記憶は白く、誰をも立ちあがらせない。


 回転する劇場のように季節が二周した。


 僕は二十歳になる。初めてだけど変わらない毎日。初めてだけど変わらない日常。初めてだけど変わらない仕事。そうした中、日記の中に春から変化があった。




* * *




■四月四日(火)


《昼休み、七緒さんによく似た人を工場近くのコンビニで見かけた。何かを探していたようだけど、僕が店に入ると直ぐにいなくなった。本当によく似ていた。というか本人? 結局、高校時代は声をかけることすら出来なかった。でもあれが七緒さんだとすると、雰囲気がかなり変わっていた気がする。何だか優しそうだった》



■四月十一日(火)


《本当にいた。工場近くのコンビニだ。長い髪を切っていたから分からなかったけど、本人だ。話しかけようか迷ったが、結局出来なかった。彼女は僕のことなんて知らないだろうし、話しかけても困惑させてしまうだけだ。レジに並んでいる途中に目が合ったけど、直ぐに逸れた。変な男と思われていないといいけど》



■四月十八日(火)


《今週もいた。火曜日に七緒さんはコンビニに来るようだ。見間違いかと思ったのも頷ける、確かにばっさり髪を切っていた。でもそれだけじゃない。彼女はもう僕が知る七緒さんではなかった。凛とした姿はそのままだけど、やっぱり違う。


 大人っぽくなっていた。いや、それだけじゃない。彼女を覆っていた刺々しさがない。睨みつけるような眼差しで世界に対していた彼女は、そこにはいなかった。凛としているが強い険は薄れ、深い所から汲み上げたような、優しさがあった》



■四月二十五日(火)


《……あんな風に人を変えてしまうものを、薄っらとだけど僕は知っている。誰かが彼女を変えたのだ。それを悟ると、悔しさで少し泣きそうになってしまった。


 もう彼女は一人ではないのだろう。彼女には誰かがいる。僕の知らない彼女の世界があるということを、痛い程に自覚した。その誰かには、僕の知らない彼女の何かが見えていたんだろう。だからこそ彼女に影響を及ぼし、彼女を変えたのだ。


 この気持ちは何だろう。嫉妬だろうか。多分、そうなんだろう。彼女を変えた人。ひょっとして僕は、そんな人間になりたかったのかもしれない。大それたことと笑ってしまう。高校時代、声すらかけることが出来なかった僕がそんなことと。


 でも、今なら出来るだろうか。“今“しかないと分かっている僕になら。ただ声を掛けるという、そんな単純で、大事なことが。しかし……良くないことだ。粛々と小さく生きる。それが僕の在り方だ。忘れるなよ、僕。僕はずっと、ここだ》


 朝、現状を受け入れ、直近の日記に目を通していた僕はその記述に驚いた。


 七緒美咲さん、高校時代に遠くから眺めていた彼女。その人が毎週火曜の昼、工場近くのコンビニに現れるようなのだ。ただ彼女は随分と変わっていて、そのことに僕は動揺し、心を乱しているみたいだ。如何にも女々しい僕がやりそうなことだ。


「声を掛ける…………か」


 気を落ち着け、カレンダーの日付を見る。今日は火曜だった。


 その日、出勤して午前の作業に従事した僕は、昼休みになるとコンビニに足を向けた。普段はお弁当を持たせてもらっているが、火曜だけは前日の母の夜勤パートの関係上、工場近くのコンビニで昼食を調達するのが習慣になっていたようだ。


 いなければそれでいい。そう思っていた。でも、彼女はいた。随分軽そうなコンビニのレジ袋を手に下げ、少し落ち着きなく、私服姿で今日は軒下に立っていた。


「あの……」

「え?」


 声を掛けた時、指先にまで血が走るのを感じた。心臓から押し出された赤い血が、僕に何事かを伝えているようだった。苦しく切なく、でも不思議と懐かしく。


「七緒さん……ですか? 藤が丘高校の。僕、同じクラスにはなったことないけど、同学年生で、三組の」


 喉の渇きを自覚しながら尋ねると、七緒さんは不安げに目を瞬かせながら、信じられないことを口にした。それは自分にとって、奇蹟に近いことだった。


「……坂上、くん?」


「あ、そうです! え、驚いた。名前を知っててくれたなんて。今、この近くのパン工場で働いてるんです。以前から見かけていたみたいで、それで気になって」


 早口になってしまい、自分が馬鹿みたいに興奮していることに気付いた。それなのに七緒さんは、恐らく無理にであろうが口角を上げ、相手をしてくれた。


「以前から、ですか?」

「あ、はい。そうみたい、というか、そうです。でも雰囲気が変わってたんで、驚きました。どうして、ここに?」


「えっ? ち、近くに、用事があって。知り合いが近くで働いているんです」


 そこで彼女が答え難そうにしたことで、息を抜かれるように冷静さが戻って来た。話もしたことのない人間が、何をプライベートなことまで尋ねているのか。


「あ……。そ、そうだったんですか。その、ごめんなさい、いきなり変なこと聞いて。あの、会えて凄く嬉しかったです。それで興奮してしまって。約束の時間も、あったりしますよね。引き留めてしまい、すいませんでした。えっと、それじゃ」


 辞去の言葉を述べながら、もうこれで十分だと考えた。今日のことは、きっと、僕の生きる糧に繋がる。“昨日の僕”が出来なかったことを、することが出来た。おまけに七緒さんが僕の名前を知っていて覚えてくれていた。これ以上ないことだ。


「あっ、時間なら、まだ大丈夫で! その、坂上くんが、よければ」


 それなのに彼女は、そんなことを言って引き留めてくれる。少しばかり切実そうな顔で、驚く。気を遣わせてしまっただろうか。それでも嬉しくて、口は動いた。


「え、いいんですか? それじゃ、少し。というか、あの、本当に雰囲気変わりましたよね。柔らかくなったって言うか……」


 言いながら、言葉を探す。また来週も会えるだろうか。分からない。そもそもこの僕は一回きりだ。だったら聞いてみようか。不確定に思い悩んでいたことを。


 ちらと顔を盗み見る。緊張しているように見えるのは、僕が緊張しているからか。相変わらず、綺麗だ。冬が似合う人が、今は春が似合う人になっていた。


 それもいいかもしれない。これは僕が彼女を吹っ切る為の、最後の機会かもしれないのだから。そうやって決意すると、僕は視線を散らしながらも尋ねていた。


「……恋人さんの、影響ですか? その、変わったのは」と。


 柔らかな風が吹き、彼女の短い髪を揺らす。一呼吸の間が生まれた。


 目を瞠っていた彼女が、困ったように眉を下げる。苦しそうに、笑った。「どうして、そう思うんですか」と、尋ね返してきた。


「いや、高校の頃は七緒さん、恋愛とか、そういう雰囲気じゃなかったですけど。今の七緒さんを見てると、そういう風なのかなって思って、それで」


 言いながらも備えていた。「はい」と彼女が答えることを。すると僕は情けなく笑い、「いいですね」等と応じ、また少しばかり世間話をして、コンビニに入るのだ。そして今日、日記にそのことを書く。その記述を見る度に、切なくなるのだ。


「恋人は……いません。好きな人なら、いますけど」


 だから「はい」とも「いいえ」ともつかない返答に、虚を突かれた。問うように顔を伺うと、苦笑するような、楽しそうだけど苦しそうな顔を彼女はしていた。


「そ、そうなんですか。あの……ちなみに、どんな人、なんですか?」


 覚悟を決めていたとはいえ、よくそんなことが聞けたものだと思う。


「迷惑な、人です」


 そして彼女もよく、答えてくれたものだと思う。

 ざわりと耳鳴りがした。


「迷惑な……人?」 

「声を掛けて貰いたいからって、わざと規則を破ったりする、迷惑な人です」


 一拍の間を置き、大学の話であることに気付いた。七緒さんの通う大学だ。頭もよく、明るい未来を持った人間が集まっているのだろう。僕とは違う人種だ。


「それは……なかなか大胆な人ですね。でも、ちょっと意外です」


「よく、言われます。別に勉強ができる訳でも、運動が出来る訳でもないですし、特別に格好良い訳でもないんです。でも、はっきりものを言う人なんです」


 気落ちした僕は混乱を覚えるようになる。大学の話、ではなかったのだろうか。或いはバイト先や、飲み会で知り合った人間なのかもしれない。どちらにせよ、僕とは無関係な話だ。遠くの世界の物事のようにそれを解釈し、遣る瀬無くなった。


 それから遠くの風景を手繰り寄せるような声で、七緒さんは続けた。


「私、頑固で視野も狭くて、それなのに変な正義感だけはあって……。自分の尺度に沿わない人のことを“意味が分からない”って、退けていた時期があったんです。理想があって、でも全然追いつけなくて。いつもピリピリしてました。これじゃいけないって、本当は分かっていたのに。何をどうすればよいか、分からなくて」


 その七緒さんは馴染みある、昨日の僕の印象そのものの彼女だった。

 眩しいものを眺めるように目を細め、耳を傾け続ける。


「そんな私に“意味が分からないのは分かろうとしないからだ”って、そう言ってくれたのが、その人だったんです。他にも私の好きな所とか、聞いてもいないのに喋って。そういうことは初めてだったので、驚きました。おまけにその人、変なんですよ。私よりも先に、その人が私のことを好きになってくれたんですけど、私を好きになったことが私に迷惑かもしれないって。そういうことも言う人で……」


 彼女は見えない画鋲で言葉を止めるように、ゆっくりと話す。風に巻き上げられる木の葉さながらに、無量の寂しさが僕の身の内で渦を巻いた。


 ――そいつだ、そいつが七緒さんを、変えたんだ。


 日記の中、いつかの自分が書いた文面に激しく揺さぶられる。そして目の前の、恋しい物を語る七緒さんの顔を見て、酷く、悲しく打たれる。


「だけど、とっても優しい人なんです。そんな人なんです。私が好きな、人は」

「そう、ですか……」


 粘度に富んだ時間が一秒一秒、その場に滴り落ちては消えた。


 小さい頃、人に優しくしなさいと言われて育った。誰かにされたら傷つくようなことをするなと。それと共に、誰かに貰って嬉しい優しさはずっと覚えておけと。


 出来るだけそう生きてきたつもりだった。だけど僕では、届かなかった。大きくなるにつれ、優しさはあまり尊ばれなくなった。只のぼんくらだった、僕は。


「それって、恋人じゃないけど、相思相愛ってことですよね。その男が、七緒さんに相応しくないとか、そういう風に思ってるだけで……羨ましいな」


 悔恨を噛んで苦味を笑い、僕は純粋な思いを口にする。


「羨ましいって、それは……どういう意味ですか?」

「そうですね。今なら、清々しく言える気がします。僕、実は七緒さんのことが好きだったんです。ずっと。高校に入って、入学式の答辞で壇上に立つ姿を見た時から。あなたの刺々しい部分も、弱さも、きっと孤独も含めて、好きだったんです」


 人生で初めてした告白は、諦めに乾いていた。でもその分だけ、しっかりと、はっきりと伝えられた気がする。目の前の人は、僅かに顔を強張らせた。


「そう、だったんですね」


「はい。でも接点もなくて、声を掛けられなくて、ただ眺めているだけでした。あ~~、初めて告白しましたよ。僕、クラスメイトだった人間は知ってるんですけど、高校二年の終業式の日に、記憶障害を起こす事故をやっちゃってて。それで、今もその障害を患ってるんです。もう三年になります。なかなか、治らなくて」


 喋りながらも、七緒さんの顔をまともに見ることが出来なかった。彼女が息を呑み、僕の声は震える。口にする言葉の一つ一つが、胸の空洞に虚しく反響した。


「そんな事故に遭う前に、七緒さんに声をかけてみたらよかった。その、失礼ですけど、そんな一見取り柄の無さそうな男が告白したのなら、それよりも先に、高校生の時、勇気を出して声をかけてみればよかったな。なんて……ごめんなさい。気持ち悪いですよね。でも、七緒さん、確か生徒会長もやってたし、それで」


 顔を向け、出来るだけ上手く笑おうとした。しかし何かが引っ掛かり、僕の意識をそこに引きつける。七緒さんは何故か泣きそうな顔をしていた。その間にも、ある筈のない何かが僕の意識に去来し、考えを乱す。夕暮れの生徒会室が見えた。


「それで……あれ? 声を掛けてもらう、ために……それこそ、」


 高校の校門が見えた。誰かがその前に立っている。


「それこそ、その人、みたいに……」


 僕はその人に注意される。見えているものが淡すぎて、分からない。やがて白く砕けていく。夜明け前に見た夢を思い出すみたいに、直ぐに曖昧になる。


「どうか、しましたか?」


 ぼうっとなっていた僕を不思議に思ったのか、心配そうに七緒さんが尋ねる。目の前の対象を見据えながら、その目は別の何かを見ているようでもあった。


「あ……いえ、何でもありません。可笑しいな、そんな記憶なんてある筈ないのに。規則を破って、七緒さんに怒られたことがあるような気がしてしまって」


 夢、だったんだろうか。それとも別の何かが形を変え、願望か何かに変わり、僕を惑わせたんだろうか。その記憶はまるで、雨の打ちつける窓越しに眺める、ずぶ濡れの町のようだ。色濃い陰影を仄めかしながらも、輪郭は朧にけぶっている。


 いずれにせよ、こんな話は彼女に迷惑だ。腕時計を見る。


「あ、もう結構時間過ぎてますね。そろそろ、弁当を買って帰ります」


 さっぱりとした顔で言うと、七緒さんはまた泣きそうな表情を見せた。記憶障害の話をしたことで、叶わなかった恋の話をしたことで、同情を与えてしまったのかもしれない。どうにも不思議な気分だった。どうすれば良いか分からず、


「でも何だか不思議です」


 不器用に、だけど僕は久しぶりに、本当に笑った。

 長い睫の下、宝石のような瞳を七緒さんが僕に向ける。


「僕の昨日は、ずっとずっと、高校二年の終業式の日の儘なんです。前向性健忘症っていって、事故に遭った日から先のことを、覚えてられなくて。それでも……」


 音が止む。数百コマの映像を数秒たらずで見るような、そんな僅かの間を挟み、




「七緒さんといると、忘れていた昨日の日々を、思い出せそうな気がするんです」




 七緒さんにそう伝えると、「それじゃ」と言って僕はコンビニに入った。

 お弁当と飲み物を手に外に出ると、もう、七緒さんはいなかった。




 * * *




 日記を見る限り、それ以降コンビニに彼女は現れなくなった。声をかけてしまったことが原因で、近寄らなくなったのかもしれない。それでも後悔はなかった。


 それから沢山の時が流れて、僕は勤め先の工場で知り合った女の子と仲良くなったり、疎遠になったりしていた。そしてある日を境に、急に障害から回復した。


 一日前のことを、覚えていたのだ。


 急きょ精密検査が行われ、障害から回復傾向にあることを医師から知らされる。翌日も、一昨日を含めた一日前のことを覚えていた。その翌日も翌日も翌日も。


 僕は連続した人間として、世界に復帰した。


 勉強できることが嬉しくて、資格を取って同じ会社の事務職に就いた。知識に飢え、記憶の蓄積を喜ぶように勉強をし、本をたくさん読んだ。恋愛もしたが、残念ながら結婚に至るまでの縁はなかった。質素に、でも満足し、静かに生活した。


 そして今日、三十手前の歳。高校全体の同窓会に呼ばれ、七緒さんと再会した。再会といえる程のきちんとした再会ではなく、チラッと今、遠くから見た程度だ。


 もう僕には確かな昨日がある。しかし障害を患っていた頃の“昨日“の記憶の儘、僕は今でも七緒さんを遠くから見る人間だった。そんなことが、おかしかった。


「でも本当に久しぶりだよな。坂上、成人式の集まりにも来てなかったし」

「あぁ、うん。例の障害で、ちょっと成人式には行く勇気がなくてさ」


 中学が一緒で、高三の同級生だったらしい人に声を掛けられ、話をしていた。当時の彼との記憶はないが、大人になって他愛ないことを話せるのは楽しくもある。


「……悪い、だよな。でもその病気、もう治ったんだろ?」

「うん、お陰さまで。障害の最中の記憶は、殆どないんだけどね」


 その会話の最中、そのかつてのクラスメイトが奇妙なことを言う。


「そっか。それじゃ、七緒さんと付き合ってた記憶もないってことか」

「え……?」


 その言葉に声を失う。言葉の意味が上手く開かれず、困惑した。得体のしれない恐怖が血管を巡り、全身に沁み渡って行くのを感じる。


 七緒さんと、付き合っていた?


「あれ、付き合ってたんじゃなかったのか? ほら、毎日一緒に登校して」

「おぉ、坂上! 元気してたか? なに、どうした、坂上と七緒さんの話?」


 強い日光に当てられたように朦朧としていると、誰かが会話に参加する。


「そうそう、俺、二人は付き合ってたもんだと思ってたからさ」

「いや、あれはどう見ても付き合ってただろ」


 何が起こっているのか、分からない。記憶を必死に掘り起こしても、そんな記憶はなかった。当たり前だ、全て、忘れてしまっていたのだから。


 茫然となって七緒さんに視線を転じると、彼女が気付いた。僕と同じで仕事帰りらしく、スーツを着ている。菊の花に似たバッジが光る。苦しく、微笑んだ。


 その笑みには、散る桜の予感が含まれていた。何の脈絡もないままに湧き起こる、甘いような切ないような思いに当惑する。その笑顔を見たことがあった。


 どこでだ、どこでだ、どこでだ。どこ……


『うん、わかった。今までありがとう。あと、卒業……おめでとう』


 瞬間、僕は過去に囁かれ、何事かを思い出す。


「あ…………」


『さようなら、寛貴』


 氷雪が吹き荒れ、春の風景を失う。雪原に僕は、一人で立っていた。懐かしい景色だ。明日になれば降り積もった雪は消えてしまう。泥水じみた、何かを残して。


 でも、それで終わりじゃなかった。


 泥水は地面に吸い込まれ、その水で草木が育ち、花が咲き、木の実が出来る。枯れ葉や落ちた実ですら、土を肥やす。記憶の残滓は、何かを育てる。何かを残す。


 今日の僕が忘れていても……。


「なな、お?」


 昔の凛とした佇まいから、怒っている顔、柔らかく微笑んでいる顔、見た覚えのない、でも確かに見た覚えのある、彼女の顔ばかりが浮かんでは消える。


 葉先から緑の色素がしたたり落ちるばかりに、鮮やかな記憶たち。

 忘れてしまった光景。情緒。想い。七緒と呼んだこと。


 その七緒が現実の世界で腕時計に目を向けた。近くにいる人間に何かを告げ、手で挨拶し、その場を去ろうとする。僕の体は震え続け、それでも足は動いていた。

 

「七緒っ!」


 突然走ってその場に現れた僕に、周囲の視線が集まる。それ程の距離を走った訳ではないのに、呼吸が荒い。長く髪を伸ばした七緒が、足を止めた。


 新しい衝動に捉えられ、憂愁の暗闇が一瞬にして光明に照らし出される。


 何を忘れているのか、何を思い出したのか、まだはっきりとしない。何が大切なのか、何が大切じゃないのか、まだ分からない。それでも……。


 清く眩い、真水のような、あなた。

 昔も今も変わらず、凛と咲く、あなた。



 ――凄く会いたかったと。それだけ、伝えたいんだ。



 十年近い年月も、気持ちの中では一瞬だ。


 記憶の中では校門の前に立ち、険しい顔で僕を注意する七緒がいた。そして自分は嬉しいような困ったような表情で、そのことに驚いているのだ。


 本当の自分はあの時の少年のまま、春の空気の中にいて、年を経て大人になったこの自分の方が、ふとしたことで覚めてしまう、儚い夢のような気がした。


 現実の七緒が、ゆっくりと振り返る。

 それから彼女は微笑むと、ネクタイを緩めていることを僕に注意した。





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― 新着の感想 ―
[良い点] とても読みやすい小説でした。 登場人物の心情が素直に伝わってきます。 学生時代の恋愛は損得じゃない、理屈じゃないんですよね。 [気になる点] ラストの展開、こういう引きがいいのは分かった上…
[良い点] >まったく。その……好きで、やってるんだし」 「え? 七緒さん、僕のこと好きなの?」  ポジティブで草
[良い点] 文章構成、内容共に最高です! 久しぶりになろうで文豪と出会えました! 超絶応援してます、頑張ってください! [一言] 素敵な作品をありがとう
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