苦瓜と彼女
僕が彼女と同棲をしていたのは、大学三年の夏。彼女とは決して恋人ではなく、ましてや友人と呼べるかも定かではない関係だった。
この奇妙な同棲期間は僕の凡庸な学生生活において唯一と言っていいほどの刺激と言えただろう。それほど、彼女との時間は記憶の中で色濃く残っていた。
彼女と僕はあえて関わりを見つけるのなら一年時のゼミのクラスメイトという関係だ。しかしウチのゼミは個人完結の課題やレポートが主な活動であり、彼女と話をすることも、一緒に作業をすることもなく一年間のゼミ活動を終えることとなった。
大学三年の夏、大学生活の自由が僕のだらくさな性分に拍車をかけ、自堕落な毎日を送っていた。気怠い身体を引きずり特に興味もない授業に形だけの出席を済ませた後、大学の売店で二日酔いを覚ますべくスポーツドリンクを買った。帰路につこうとしていたところ、常時であれば出席すらしていない授業の中間テストと聞き慌てて教室へと向かった。既に講義が始まっている教室の中に入ると、一人で座る彼女の切れ長な瞳と目があった。一度も出席したことがないこの授業で、頼れる知り合いもおらず。さらに、他に空いている席を見つけるまでこのまま立ち尽くしているのでは、教授に目をつけられそうである。仕方なく僕は彼女の隣の席に腰を下ろした。すると彼女は
「久しぶり、東谷君だよね」と小声で話しかけてきた。
「そうだよ、久しぶり、ゼミ以来になるね」僕がそう言うと彼女は構わず「いきなりだけどお願いがあって」と続けた。落ち着いて利発そうな見た目に反して、意外とせっかちな子なのかと教授の話を聞きながらぼんやりと思った、どうやら小テストには間に合ったらしい。あらためて彼女の方を向き「お願いというと金かい?」と僕が訊くと彼女は笑いながら「初めて話す人にお願いしようとしてる私もだけど、あなた初めて話す人にそれはどうかと思うよ」と言った。
彼女はひとしきりクスクスと笑ったあと
「しばらくあなたの家に泊めてほしいの」と切り出した。
「そりゃどうして?」
「話すと面倒だから省くしあんまり触れないでほしいんだけど、家族とゴタゴタしてて仕送りを止められてるの。今まではバイトの貯金を切り崩して生活してたんだけど流石にお金無くなっちゃって、友人に泊めてもらって相手に貸しを作るのも癪じゃない?男友達だと関係を迫られたら面倒だし…」
おそらく彼女はこんな性格ゆえに、本当は泊めてもらうほどの友人などいないのだろう。
「理由はわかったけど、後で話そう。教授に睨まれる」
教授はプリントの束を手で弄りながらも目線はしっかりと私語をする僕たちを捉えていた。
小テストを終えると、生活費を月に二万円貰うという条件で合意した。それから彼女は僕のボロくてやたら広いワンルームのロフトへとやってきた。彼女の暮らしを一言で表すと「ひどい」の一言だ、家事と名のつく仕事は一切せず、服をロフト一面に脱ぎ散らかし、家にいる間はずっと寝るか酒ばかり飲んでいる、しかしそれでいて講義には律儀に出席し、私の分の課題を暇だからという理由で提出してくれていたりする。
そんな彼女の身の回りの世話や食事の用意が毎日の日課となり、彼女の住処が僕の部屋にまで浸食してきたある日のことだ。
「君にしては珍しく美味しくないね、苦くて食べれたもんじゃない」と彼女は僕の大好物であるゴーヤチャンプルーをこき下ろした。彼女はゴーヤが苦手らしい。しかし律儀な彼女はそれを残さず食べた。それからというもの、彼女と喧嘩をした後、僕はあてつけにゴーヤチャンプルーを作った。ある日彼女は
「夕食にゴーヤを食べるとを東谷君と喧嘩したことを後悔するよ、この苦味は後悔の味だ」と整った顔を膨らませそう言った。そして仲直りの際には決まって彼女の好物の苺のケーキを二人で食べた。
一緒に住むようになってわかったが、彼女は友達こそ少ないけれど、その整った顔から好意を抱かれることが少なくなかった。中には彼女をこの家までストーキングした男もいたほどだ。
しかし彼女は、全て取り付く島もなくこっぴどく振っていた。
「顔目当てで近寄ってくる奴らなんか全員こっ酷く振るくらいが丁度いいのよ」彼女がそう言うので僕はついおかしくなって「君のここでの生活を知ったらみんなすぐに幻滅するだろうね、現にストーカーは君に告白すらせずに消えたじゃないか」と言った。そしていつもの軽い口喧嘩が始まり、再び苺のケーキを買わされる羽目になった。
ある日家に帰ると部屋に彼女の姿が見当たらない。ロフトに上がると電気もつけずにパソコンのキーボードを叩く彼女の姿があった。なにやら物語を書いているようであり、僕は彼女の知らない一面に興味が湧きそれを眺めていた。しばらくすると彼女がこちらに気付き
「見つかっちゃったかぁ、筆がのってたから気付かなかった」とバツの悪そうな顔で言った。
「なにを書いてるの?」
「小説」
なるほど、利発そうな彼女が少しばかり浮世離れしていたのはこれが理由かと思った。
「一区切りしたら降りておいでよ、ご飯作るから、今日は餃子だ」
夕食の餃子を二人で食べていると
「東谷君って変わってるよね、小説書いてるって教えると、普通の人はどんなの書いてるのかとか問いただして来るもんだけど」
器用に箸でくっついた餃子を剥がしながら彼女は呟いた。
「聞いてほしいのかい?」
「ううん、面倒だからやめて。」と言うと彼女は少し何かを考えたあと
「実は実家と喧嘩してるのもこの小説が原因なんだ、小説家を目指すって言ったらお固い職業の親とすごく喧嘩になって」と初めて自分の事を話した。僕はなんだか嬉しくなって彼女の皿に僕の餃子を分けてあげた。
彼女は僕の餃子を美味しそうに食べると。
「こう言うのもなんだけど、今までいろんな料理を食べてきたけど、あなたと食べる料理が一番美味しい」僕の買ったビールを勢いよく喉に流し込むと笑いながらそう言った。
「僕の料理が不味いなんて言ったらすぐさま追い出すさ」
僕はこんな日々がずっとずっと続けばいいと思った、卒業してもずっと。そして、彼女のことを好きな自分に気がついた。だけれど、その気持ちを言葉にすることはなかった。彼女が僕に求めていることは僕のそれとは違っていると気がついていた。
それからまもなく、私の元へ彼女の父親から連絡が入った。なんでも彼女の父が彼女の家を訪れたところ、家には誰もおらず、探偵を雇い彼女を調べて僕の家にたどり着いたそうだった。なるほど、ストーキング男は探偵だったのか。
用件は彼女に小説家を目指すことを認めるから一度家に戻るように伝えてくれとのことだった。
彼女は実家と和解し、再び仕送りを貰うため僕の家での同棲生活もそれまでとなった。
あまりに突然だった、彼女との同棲を始めたときのように、なんの前触れもない別れ。
僕は引き止めることはしなかった。というより引き止めることができなかった。そのための関係を結ぶ言葉を私はついに一度も口にしていないのだ。
「あなたにはとても感謝してる。ここで過ごした時間を私は何度も思い出すと思う。本当に何度も、何度も、」笑みを見せながら話す彼女の切れ長な目の奥には寂しさと苦しさが透けて見えた。
「僕も、きっと何度も思い出すよ。」
ここまできても、僕は彼女を引き止めることができなかった。
彼女は小さなスーツケースと共に部屋を出た。僕は部屋の小窓から彼女の後ろ姿が消えるまで眺めていた。少しずつ小さくなる彼女が振り返ることは一度もなかった。
彼女がいない夕食にせめてゴーヤチャンプルーを心置きなく食べようと思った。ここ数ヶ月は喧嘩をすることも無く、久しぶりに食べた僕の大好物はなんだかとても苦くて、彼女の言葉を借りると、後悔の味がした。
苺のケーキを買えば、まだ間に合うだろうか。