冥婚
それはなんでもない日常の一コマに過ぎなかった。
そうなるはずだった。
朝日が登れば目を覚まし、瞼を擦りながら仕事に行く準備をする。
昼食を食べたら1日が終わるまで間も無くで、日が沈み出したら疲労感と社会人の数少ない趣味の時間が待っている。
車に乗り込み少ない街灯が照らす帰宅の道中、最寄りのコンビニエンスストアにハンドルを切る。この時間の駐車場はいつも空いており、いつも駐車している場所に慣れた手つきで車を停める。
車から降りると明るい店内が見える。
今日は何を買おうか。
いつもと同じものがあればいいのに。
同じものがあればそれを買う。悩む時間も少なくて済む。
ない時は少しだけ空調の風や店内のBGMが大きく聞こえたり、ため息をつきたくなってしまう。
ため息を付いたところで食べたいものが現れるわけでもない。
食べるものと少しのアルコールを購入して会計を済ませる。
いつもよくみる店員とテンプレートのやりとりをして袋に詰めてもらう。
ありがとうございました。の声で店の外に出る。
ガラスには虫が集まり、鬱陶しさが増してくる。白熱灯の看板や照明の時にはそこに蛾などの大きな虫も集まっていた。
それに比べれば今はそういった事も減ってきたと感じる。
車のドアを開けて助手席に買ったものを置いて靴を脱いで車に乗り込む。
靴を車の中で履き替えてドアを閉めるためにハンドルに手をかけたときに不意に目線を下に落とした。
深紅の祝儀袋が落ちていた。
なんだこれ?降りる時あったか?
降りるときにあったなら気付いていた。
それほどに厚みがある祝儀袋だ。
雌雄は誰かが落としたものだろうか。と、手を伸ばした。
何か沢山入っているのかもしれない。
祝儀袋ならもしかしたら現金が入っているかもしれない。
恐る恐る祝儀袋を開けると袋に相応の使い古した現金が入っていた。
何か身分証などがあれば。と、思いながら全て取り出すわけでもないけれど、パラパラと中身を確かめると目立ったものはないけれど写真のようなものが目に入った。
もしかしたらどこかのご老人が身内の祝儀袋を渡すつもりが落としたのかもしれない。
近くにそういう人が見当たらない。
生暖かい風が首筋を撫でる。
その風はヒヤリとした、発熱をしたときに他人の手が冷たくヒヤリと心地よいと感じるようなハッキリとした冷たさが首筋を撫でた。
大きな金額なので雌雄はいつもの帰り道とは違うけれど交番に届けることにした。
コンビニに届けてもよかったのかもしれないが、金額も大きいから落とし主も交番に訪ねているかもしれない。
そう思って車のエンジンを始動させ、近くの交番の場所を確認をする。
そんなに遠くない。
拾得物の届出を済ませて帰路に着く。
無事に落とし主の手元に戻ればいいな。と願いを込めて。
いつもと違う帰路。
道路が渋滞をしていた。作業車には事故。と表示がされていた。人か獣か何かが撥ねられたのだろうか。
何も気にしないで家路に着く。
道路が片方塞がることもこの季節にはよくあることだ。鹿であったりたぬきであったり。
獣を避けようとして車が事故に遭うことも珍しくない。
帰宅するといつも家の周りにいる野良猫たちがちらほらと現れるのだが、今日は現れない。
そういうこともあるだろう。自分の家猫ではないのだから。
玄関の扉を開けると脱走防止の柵がある。家族の小型犬が出迎えてくれるはずなのだが、いつもと様子が違う。
玄関に来てくれているのに何に不満があるのか僕に向かって激しく吠えてきた。
「うぇ!?何でそんなに機嫌悪いんだ!?」
僕の方に向かって吠えている。僕の方ではあるけれど少し違うような気もした。
そういう日もあるのだろう。
機嫌が悪かったとかそういう時もあるだろうから。
特に気にしないで食事をして次の日の準備をして眠りにつく。
翌朝になると疲れが取れていなかった。いつもの寝起きと違って倦怠感が残っている。熟睡できていなかったのだろうか……確かになんだか眠れなかったような気がしなくもないが、それは寝る前までスマートフォンを触っていたからだろう。
ただ脳裏にあの赤い封筒が思考の隅に残り、気になっていた。
昼休憩にスマートフォンに知らない番号から着信が入っていた。固定電話の番号だったのでその番号を検索すると、昨日赤い封筒を届けた交番からだった。
落とし主見つかったのだろうか。謝礼は断っているけれど、先方から何か伝えることがあれば警察から連絡があるものだ。
「先ほど電話をいただいた剣崎です。」
「剣崎さん、この封筒を拾った場所や詳細なことをもう一度警察で説明をお願いしてもよろしいでしょうか?」
どういうことだろう。
あれ以上に説明することがないのだが?
そう思って聞くと、この封筒の持ち主はとある老人で、その老人は僕の拾ったコンビニから目と鼻の先の交差点で交通事故に遭って即死だったとのこと。
だからこの封筒を拾った経緯を再度確認、調書として書類に残しておきたい。
そういう旨だった。老人を跳ねた車に乗っていた運転手は逮捕されているので濡れ衣や疑いではないけれど、念のためだと強調されたので協力するしかなかった。
仕事終わりに警察署、または交番で。ということなので交番に立ち寄ることを伝えた。
誰かが対応すると伝達をしてくれるらしい。
それなら交番でも問題なさそうだった。
あの渋滞にそんなことがあったなんて。
気分はあまりよろしくない。事故で亡くなった方のご祝儀袋を拾ったことやその人のお金に対して少しでもやましい気持ちを持ってしまったことについて。行動に移してないから問題ないかもしれないが、そういう気持ちになったことに関してわずかながらの罪悪感を持った。
「先生、今日面白い夢を見たんですよ。」
入院している患者さんからニコニコと話しかけてくれる。
「どんな夢ですか??」
他愛のない会話は鬱屈とした気持ちを払拭してくれる。
「先生、実はもうすぐ結婚するでしょ」
思ってもいないことを言われた。
「なんでそんなことに???僕恋人とか結婚予定はないですよ??急に結婚???」
ニコニコ。というよりニヨニヨした笑みを浮かべて隠しても無駄だと脇腹をつつかれる。推しの話だろうか。それなら間違ってないかもしれないけれど、確信を持って結婚と言われるには違う気がする。
「夢に出てきて結婚をお祝いしたんですよ。先生だったのは間違い無いですよ!」
「えー何それ。」
「先生と綺麗なべっぴんな花嫁さんが赤いドレスだったかな?先生の後ろに立ってる夢を見たんですよー」
夢???赤いドレス……推しにそんな衣装があった気がするけれど、なんで推しは僕の夢ではなく患者さんの夢の中???詳しく聞きたいかもしれないが、聞くのも違う気がする。
詳細を聞こうと思ったが別の人に呼ばれたので話を切り上げてその場を離れた。
推しなら何故僕の夢に出て来ないのか。出てくる場所を間違えていないか???
いや、推しの方から外堀を埋め出したと考えればいいのだろうか???
少し心がほっこりしたのか、元気が出たのでその日は寝つきが悪かったことも気にならないほどに仕事に打ち込むことができた。
それでも仕事が終わればあの封筒を届けた交番に行かなければならない。
少し憂鬱で、いつもよりも夕暮れには烏が飛んでいる気がする。車に糞が落ちている……帰ったら即洗車しよう……ついてない。
交番で事務処理のようにただ昨日のことを詳細に話して警察の方はそれを記録していく。
僕は無関係でただそこに落ちていたものを拾っただけなのだから。
記録として残したらそのまま帰っていいということになり、ルーティーンとなっているあのコンビニで夕食を買って帰路に着く。
夜になり窓の外から蛙や鳥の鳴き声が気になる日があっただろうか。
この季節になるとうるさい程ではないけれど動物の鳴き声がするものだ。
静寂ほど気持ち悪いと感じた。不気味さはさに近いだろうか。いつも気にしていないけれど普段そこにあったものがない。
通い慣れた道で時間帯の交通量、信号のタイミング。全ていつも通り。何かが変わることなんてない。
だけど、あの祝儀袋を拾ってから違和感と奇妙な感覚があり、脳裏に赤い物がチラつくようになった。
拾うんじゃなかった。
ふとそんな言葉が出そうになった。寝付きが悪いのも変な不運が起きているのもアレの所為であるかのように感じた。
最近の趣味、ふとしたきっかけで始めるようになった配信活動。自分の好きなゲーム、勧めてもらったゲームをインターネットを使って共有する。
僕は自分が好きな見た目のアバターと声を。視聴者はコメントを使って交流を図る。
タイムラグこそあれど自由に自分の好きなことについて話せることはとても楽しいし、SNSでの繋がりとは別の繋がり、コミュニケーションはとても楽しく、頻度も高いのに長続きしている気がする。
「はーい、どうもー」
いつものあいさつから始める。仕事を終えて、明日の準備なども終わらせてからなので遅い時間からのスタートになるが、いつも固定の視聴者はきてくれている。
「えーっと今日はねー」
〈ミュート芸?〉
〈口動いてるけれどBGM鹿入ってない〉
〈声入ってないよー〉
あれ??確認したけれど、何も不具合はない。機材の確認をするがミュートになっているところはなかった。
「あれー?故障か?????」
〈あ、入った。〉
〈音声OK〉
〈聞こえた〉
視聴者からのコメントがないと不具合や異常事態がわからない。
途中でネット回線が切れて虚空に話続けて残らない。というのが一番辛い。労力の無駄になる。
〈家族の声入ってたよー〉
〈女性の声と男性の声が少しこっちに聞こえてた。〉
〈ミュート芸かと思ったけどいつもと違う声入ってたからミュートするならちゃんとしろよ。〉
誰の声が入ってた……???
この部屋には誰もいないし、家族がそばにくることもない。
男女の声がする状況ではない。この部屋に僕以外の誰かがいることがあり得ない。
「ま、いいか。今日はー……」
明日もあるからと、布団に入り、眠りにつく。寝つきが悪かったから。と少しアルコールを摂取する。
肝臓の数値とか気にする前に睡眠不足で何かミスを起こすことの方が心配になる。
明かりを消すとアルコールの影響で瞼が重くなる。
目ざまし時計はセットしてあるから大丈夫……
ふと目が覚めた。
息苦しい。
飲酒の影響ではない。
体が動かない。
目を開けて眼球は動く。
あたりの景色を見ることだけはできるが、体は動かない。
指ひとつも動かない。
部屋の匂いが違う。
どこかで嗅いだことのある匂いだ。
鼻腔をくすぐるのは何か考えていた。
ズル ズル しゃっ しゃ
足を引き摺るような音が部屋のドアから聞こえる。
足を引き摺る音だけではなく、衣擦れのような音も聞こえてきた。
何かそこにいる。体は相変わらず動かない。
首を動かして確かめたい。
確かめたくない。
目を閉じてやり過ごしたい。
何事もなく、これが夢であってくれ。
僕は目を固く閉じて神頼みをした。
なんでも良い。 この状況から助けてくれ。
夢なら早く覚めてくれ。
足を引き摺る音衣擦れの音……音がずれている。そこにいるの1人ではない。2人以上誰かそこにいる。
瞼を閉じると音が迫ってくる。
鉄の匂いと土の匂いがする。
呼吸の息遣いが聞こえてくる。
瞼をぎゅっと閉じていた。
目を開けて確かめられない。怖い。確かめられない。
サラリ。 髪だろうか……ざらりとしているような、サラリとした物が頬に触れた。
髪だと思うが目を開けられない。顔に触れるものは冷気。ヒヤリと凍てつくような冷たい風が頬を撫でた。
氷のように冷え切った物が首筋を撫でた。首に指が掛かった。
このまま首を絞められる。そう思った。
指が首に掛かっている。
「…… 様……」
知らない声
ふと体が軽くなった。
「っはっ……!!!!!!」
胸から息を吐き出して体を起こす。跳ねるように身体が飛び上がって起きた。
心拍数が上がって心臓の音がうるさい。冷や汗か脂汗か……いやな汗が吹き出す。
呼吸が上がっている。
電気をつけて部屋を見渡すが何もない。
タオルで汗を拭おうと手を伸ばした。
手には黒くて長い髪が絡みついていた。僕の髪がこんなに長いわけがない。髪質も自分のものと異なり、艶があり、まっすぐ柔らかな髪であった。
「うわぁ!!!!」
払い落としてゴミ箱に放り込む。そのゴミ箱の袋を取り出してガサガサと両端を持ち固く結んで捨てる用意をする。
明日が可燃ごみの日じゃないのが悔やまれるが、ゴミとして遠くに置いておく。すぐに捨てる。ゴミの日になったら即座に捨てる。
ゴミ出しの準備をして洗面所で手を洗う。
夜明けまでまだ時間がある。
いやな汗をかいたけれど、今から再度入浴をして寝る時間はない。少し目を閉じて眠れたら御の字だろう。
なんであんなことになったのだろうか。
ボディーシートがまだあったはずだ。それで汗だけ拭って眠ろうか。
蛇口から流れる水の音だけが響く。
ふと顔を上げる。
鏡に映るのは自分の姿。
だが、目の前にはべったりと人の指紋が、手の跡がついており、それだけではなく、首には爪で引っ掻いたような赤い跡がしっかりと残っており、夢ではないのだと実感させた。
これさえも夢であれば良いのに。
ひっ……驚きすぎて悲鳴すら出ない。悲鳴すら引っ込んでしまうことが立て続けに起こっていた。
恐怖
それだけがあった。家の電気を全てつけて眠りたい。
眠れないだろう
明日も仕事がある。 眠るしかない。
覚悟を決めて部屋に戻り、眠る準備をする。気合いで寝るしかない。
その後起きた恐怖と疲労で眠ってしまった。人間以外に眠れるのだと後でふと思ってしまった。
目覚ましの音で目覚めるまで泥のように眠ってしまっていた。起きたときに再度鏡を見ると真夜中に起きたことが嘘のように何も残っていなかった。
鏡に映っていた引っ掻いたような赤い傷跡も綺麗に消えていた。
夢だったのか。と、思いたいが、ゴミ袋はまとめてある。
昨夜のことは実際に起きていた。
信じたくないし、こんな非科学的で、非現実的なことを信じたくもない。
眠ったはずなのに徹夜後の酷い倦怠感が体にのしかかっており、気疲れ以上の疲労が残っていた。
不気味さと倦怠感を持ったまま、その日の仕事をしていた。
何事もなかった。
あの悪夢はあれで終わり。
これで何もない。
偶然何かが悪かったのだろう。運がなかった。そんな状況だった。
もう大丈夫。
今日は帰るのが遅くなってしまった。
日が沈んでしまった。
街灯が点滅している時もある。また新しい街灯になるだろう。
早く帰りたい。
ジジッ スピーカーから音割れがしている。
調子悪いのだろうか。
接触か何かだろうか。
少し目線を落としたが何も見たところ異常はない。
気のせいか。と、目線を戻すと速度を上げていたわけではないけれど、ふと黒いものがよぎった。
人型のような黒い塊がよぎった。
人か獣か。
黒い塊が突然現れた。
瞬時にブレーキを踏み込んだ。
ドン 何かが当たった音がした。衝撃もあった。
慌てて車を停めて外出た。何を跳ねた。
何とぶつかった。
焦燥感などのさまざまな感情が襲ってくる。
何をすべき……被害者の救助、車も寄せないと。警察と救急車を呼ばなければ。
しないといけないことが脳内を駆け巡る。
何を跳ねたか確認しないと。
あたりを探すがぶつけたものがないもない。
飛ばしてしまったのかもしれない。車を見るがぶつかった痕跡もない。
フロントバンパーを見るがぶつかって外れたり何か汚れがついた様子はない。
何かにぶつかった。
そのはずなのに
何もそこになかった。
獣でも人でもない
ぶつかった衝撃だけは確かにあったのに……
何事もない。疲れから勘違いしたのだ。そこに何もない。車にも傷がない。それを警察に電話してどうしたらいいのか?と聞くことなのだろうか。
ドアを閉めてエンジンをかける。
もう帰る。さっさと帰って寝る。
バン!! バンバン!!!
ドアガラスを叩く音
外からなのか、内側からなのか、わからない。
「ひっ!!」
バンバン バンバン!!!!
リアドアガラスまで叩かれた。エンジンがかからない。
車のエンジンを動かすために始動させるが、かからない。
降りて動くわけにも行かない。降りるなんて度胸もない。バンバンと叩く相手を見る度胸もない。
エンジンをかけてここから1秒でも早く離脱しなければ。
バンバン!!!! 何がいるかなんて確認もできない。
危ない。
身の危険しかない。
エンジンがかかった。顔を上げてエンジン前を見る。アクセルを踏み込んで急いで走り出す。
何が起きた。これも悪い夢なのか、疲労からの幻覚なのか。
訳がわからないままただ家に向かう。 バックミラーに赤い布が視界に入った気がするが何も見ていないと自分に言い聞かせた。
なんなんだ……最近。
あの封筒を拾ってからだ。変なことが起こり始めたのは…… お祓いとか、そういうので何かを見てもらったほうがいいのだろうか。
それ以降何もなかった。後ろを振り返る度胸はなかった。
呼吸の仕方が一瞬わからなかった。ドアガラス…フロント、リアどちらのガラスにもべったりと人の手形の指紋が付いてた。
残して起きたくないからと僕はそのまま洗車用意を持ってくる。
このガラスだけは残しておきたくない。
忘れて眠るためにもこの手形は消すしかない。
洗車をしてきれいにする。
これで気持ちも綺麗さっぱり整えばいい。
その日はこれで終わり。後は寝るだけ。
そのはずなのに、家にいても何か視線のようなものを感じる。
背中に刺さるような視線ではない。
ただ、誰かがそこにいて、こちらを見ている気がする。
振り返っても何もない。
自意識過剰かもしれないが、何かあるかもしれない。
何もない。
僕の勘違いであれば問題ない。僕が疲れていて少し休んだりしっかり寝たりすれば解決するのだから。
そういう方面に強い人なんて知らない。
知っていてたまるか。と、思いながら近くの比較的大きな神社にお祓いの予約や相談の予約をする。
メールでの予約だけかと思ったが電話も合わせてとなっていた。メールも送付して電話もかけるというのはどういうことだろうか。
そう記載があるから従って予約をするために電話をかけた。
「お祓いの予約でですね。」
「はい。気のせいかと思ったのですが……」
「……!@#6 ^&%*%#\s」
何か聞き取れない音声になっていた。背後に何かいる。
ブツっ電話も突然切れた。向こうから一方的にだ。
パソコンからメールを送る際にCCに自分のスマートフォンのアドレスも入れておいたから送れていたかの確認はできる。送信はできているから届いているはずだ。
エラーで弾かれもいない。
自分のスマートフォンにも同じメールが届いているから先方にも届いているはず。
折り返しの連絡なり、メールで返事があるはずだ。
スマートフォンにメールが届いた。あの神社からの事務的な予約完了メールだと思いながらも日時の確認のためそのメールを開く。
可能であれば明日直ぐにでも来てください。そちらの都合に合わせます。
何が起きているのだろうか。訳がわからなかった。
文面だけですぐに行かなければならないのが伝わる。
仕事に関してすぐに休めるものでもない。
幸い週末まで後少し。
それが終わってからすぐに行こう。
すぐに休めないこと。
週末には必ず伺うことを連絡した。それまでに何事もないことを祈って。
髪を洗っていると誰かが背後にいる感覚、見られている。
振り返るが何もいない。
肉体、精神共に仕事とこのことで疲弊をしている。
湯船に浸かって息を吐き出す。
疲れが全然取れない。
仕事のことで疲れるのはまだいい。いつものことで、そういう仕事でもある。
それ以外で、こんな非科学なことで疲れることがあるのか。
僕は仕事や趣味で心身疲弊するのはいい。自分で選んで心地よい疲労なら喜んで受け入れるが、こんなことで振り回されるなんて思ってもいなかった。
天井についた水滴がぽた ぽた と湯船に落ちてくる。
きっかけ、原因なんてあの赤い封筒だろう。
それ以外に日常と異なることは何もなかった。
赤い封筒を拾った。落とし主は交通事故で亡くなったご老人。これしか知らない。
これだけでなんでこんなことになっているのだろうか。
心霊スポットに行った覚えもないし、そんなことをする度胸もない。お地蔵様や神社にゆかりのあるものに失礼を働いたわけでもない。
手を合わせていないから???葬式に参列する資格もなければ理由もないだろう。
葬式御通夜、香典を渡してないから呪われたとか言われたらそれはその老人が銭ゲバすぎないだろうか。こっちは落とした現金を拾って届けるところに届けて、おそらくお金に関しては親族のもとに届いているはずだ。
こちらは拾ったものを中身こそ確認したが全く手をつけていないのだから。
それで盗んだと言っているなら理不尽だし、勘違いも甚だしい。
そういう理由ならきちんとお祓いをしてもらって平和な日常を返してほしいし、勘違いでここまで疲弊させた原因には行くべきところに行ってほしい。
毎晩誰かが部屋にきた。眠れない夜が続き、食欲も落ちた。
何かミスをする前にアルコールに頼り、無理矢理眠るようにしていたのだが、目の下の隈、顔色が悪いから何が起きているのか聞かれた。忙しさもあるだろうけれど、ここ最近急激に顔色が悪くなり、疲れた顔をして、ミスをしでかさないか気になっていた。
何か仕事で困っているなら相談しなさい。と言われたが、仕事ではないし、それ以外の非科学的なことを相談できないし、これからお祓いなんです。とは言い切れない。
赤い封筒を拾った話を休憩時間にした。
それが原因なのかわからないけれど、それ以降不可思議なことが起きてろくに眠れていない。
よくわからないことばかりなのでお祓いにでも行く予定。だと、笑い話になればいいや。
と思いながら説明をした。
「赤い封筒……?拾ったのか??」
「あ、はい。暗くてはっきり見えなかったんですけど、赤い封筒に現金が入ってたんで警察に届けました……けど?」
赤い封筒に現金と写真なのだが……それを伝えるとスマートフォンで検索した記事を見せられた。
あー。という残念そうな顔をされたのがすごく印象的だった。
「すごく有名な話があってな……」
冥婚
中国や台湾では未だに残っている風習。日本でも一部の地方には残っている。
未婚のまま死んだ人間のために残った親族が赤い封筒に現金を入れて、亡くなった人間が好みそうな人間に拾わせることで成立する婚姻。
冥婚の主旨を伝えて強制的に死後の世界での婚姻を成立させること。
断る方法はやってきた親族に断った上で手切金として現金を渡してお断りする必要があるが、基本強制なので拾わないが鉄則であること。
「え……ちなみに親族とか現れなかったというか……」
拾った人間は実は少し前に車に撥ねられて、お亡くなりになっていて、距離があるところで自分が拾って警察に届けただけでそういう知識はなかったし、お断りできないのだろうか。
「基本知識として赤い封筒を見つけたら拾わない。冥婚が成立して解除もお断りもできない。」
そんな外国死後文化というか風習を知っていて当然のように言われても僕は知らないし、一般常識を知らないのか。
という顔をされても知らないものは知らない。少なくとも教科書には載っていない文化だ。
「それやってくるはずの身内が老人の幽霊になって呪われたんじゃ?」
あり得そうでとほほと肩を落として漏らした。それはそれで理不尽だ。
神社で粗相をして祟られた。昔からある風習を蔑ろにしてアレコレ起きてしまった。
なら分からなくもない。
だけど、親切心で拾って警察に届けた結果が呪われる。なんて……しかも死んだ後の結婚が確定している。顔も知らない人間と勝手に結婚を決められてしまっている。
一生独身なのか、死後の結婚をさせるためにこっちを殺しにきているのだろうか。
「それって、相手を殺して結婚なんですか……?」
「そこまでは知らない。死んだ後に結婚というだけで殺してなのか、相手が死ぬまで待つかは知らないが、結婚するならさっさとしたいのが相手の要望じゃないのか??いくら結婚すると決まっていても50年以上待てるか?しかも相手が生前のうちに結婚して先に冥婚の約束を取り付けていたにもかかわらず序列としては後妻になるのに相手が耐えられるのか?ということになるかと思うが。」
「……勝手に決めてきたのにそれはないですよ……」
相手を殺して死後に強制結婚というのも字面としても随分酷いが、その説明を聞いて色々腑に落ちたかもしれない。
寝つきが悪いのも足音が2人以上なのも……
「お祓いに行くなら殺される前に行っておきなさい。」
帰されてしまった。理由を体調不良と言うことで今日は休んでも良い。忙しいはずなのに負担を押し付けることになってしまったが、このまま仕事をしていたらおそらくとんでもないミスをしてしまうことも懸念されてしまったに違いない。
だから原因と思しきものが判明して、どうにかするためには早くお祓いに行くしかないからと一応信じてもらえたのかわからないけれど、それほどに酷い有様に見えたのだろう。
僕は神社に連絡をしてこのまま向かうことだけを伝えた。
現在地と神社までのルートを送ってほしい。
変わった返信が来たのでマップアプリをコピーしてそれを送ると先方からルート修正をしたものが送られてきた。
少し迂回しているけれど、このルートで必ずくるように。
指示があった。死にたくなかったらこのルートで来てください。
従わないと死ぬかもしれない。
嫌な気配がする文面だった。
車に乗り、神社に念のため電話をした。
「送っていただいた道筋だと事故に遭う可能性がありますのでこちらが送らせて頂いたルートでお越しください。道路交通法を遵守ください。当然ですが。」
当然だが、恐怖に駆られて守れているかどうかだと不安になる。だけれども禰宜か神主かわからないが落ち着いた声音に心を落ちつかせる。
これから楽になるためにいく。
そのためには焦りに負けてはいけない。あくまでもそこまで行く。それだけだ。
言われた通りに神社に向かうとき。
明るい時間帯だからなのか、恐怖心は起きなかった。急に子供が飛び出してきたが、それは法定速度と車間距離を気にしていたからなんとかなった。
どこかの農家からなのかビニールシートが飛んできたけれど、それも車に触れることなく別の方向に飛んでいった。
万が一があっては大事故になっていたかもしれないが、偶然なのか怒涛の災難からはなんとか回避をして神社に到着することができた。
言われた道でなかったが、最初に送った道で行っていたらどんなことが起きていたのか考えるのも恐ろしい。
神社に到着する頃には日が沈みかけていた。
まだ日没の時間ではない。
樹木の影で暗いのだろうか。 鬱蒼とした雰囲気でこの神社にただならぬものを感じた。
ここに来ては危ない。帰った方がいい気がする。
自分でお祓いの予約をしてどうにかしたいからここまで来たのに、今になって帰りたい。という感情が湧き上がるのだろうか。
これもあの冥婚を持ち込んできた老人のせいなのだろうか。
足が進まない。
石造りの鳥居を見ているだけで胸が痛くなる。
一刻も早くここから離れなければ
自分で予約したのになんでそんな思考に至る???
頭を振って足を踏み出す。
鳥居をくぐると鳥肌が立つようなねっとりとした雰囲気から心地よい涼やかな風が吹き抜けて体にのしかかるお守りのようなものが少し落ちて足が軽くなる。
社務所に向かわなければ。
あたりを見渡して社務所に向かう。
「予約されていた剣崎様でしょうか?」
先方から名前を確認しにきた。
こちらから名乗っていないのだが。
何か見えたのだろうか。
僕はそうです。返事をすると険しそうな顔をした宮司がこちらです。社殿に案内をする。
一歩踏み出そうとしたが足が進まない。
宮司が振り返ると一歩も進んでいない僕を見てスタスタとこちらに歩み寄ってくる。
何も怖くないはずなのに今すぐここから離れたい、逃げ出したい。という焦燥感、恐怖心が襲ってきた。
「よくないものに魅入られているようですね。」
パンと、背中を軽く叩かれた。痛みというより少し衝撃があったが、それで体が軽くなった。
「さぁ、こちらに。」
足が軽くなって一歩踏み出すことができた。宮司の後ろをついて歩き、社殿に向かう。
「何か見えているのですか?」
ふと気になって確かめる。宮司さんは温和な表情でニコッと微笑むだけであった。本殿に上がり向かい合って座る。厳かな雰囲気というよりはここから今から離れたい。帰りたい。そんな気持ちがずっとある。
もやもやとしているこの気持ちはなんだろうか。適当にスマートフォンがなったら帰りたい。
「では念のため、スマートフォンやお車の鍵をお預かりいたしますね。今とても帰りたいでしょうから。」
「は、はい……」
「背後にいるご老人がすごい顔で睨まれていますから。」
何が見えているのだろうか。
それでも老人?????もしかして車で撥ねられた老人だろうか。
宮司さんには何か見えているのだろうか。
「念のため何にお困りになっているのか。キッカケとかに心あたりがあれば教えてください。」
状況を整理するためにきっかけから説明をしていく。
赤いご祝儀袋を拾ったこと。中に現金があった。写真もあった。それは警察署に届けて何も触っていないこと。そしてその持ち主は事故に遭って亡くなってしまったこと。わかっている限りのことを話していく。
そして職場の上司から冥婚の話を聞いたのではそれではないだろうか。
そのことまでの話をする。
宮司は僕ではなく、別の方向を見ながらうんうんとうなづいていた。
何が見えているのだろう。
「そうですね、大体あっているかと思います。あなたの後ろにはご老人と赤い花嫁衣装をまとった女性がいますね。ご老人からは孫の写真を入れた冥婚の祝儀袋を拾ったのだからそのまま冥婚すべきだろう。そのためにアチラ側に引き摺り込もうとしておりますね。命の危険を感じた件はこの方が原因のようですね。お相手?のお嬢様は後ろに控えていますが、待っている状況ですね。」
「僕はどうしたら……?」
「ちなみに冥婚の女性との予定は?」
「ありません。顔も知りませんし、そういうのは……幽霊とか本当に駄目なんです。」
慌てて否定をする。結婚願望もなければそんな幽霊相手に死後でも結婚するつもりもない。
全否定をする。
宮司はそうですよね。と、最初から断るつもりだったのかお祓いをしましょうね。やわらかな声音でこれからお祓いをしましょうね。
とりあえず冥婚は解消できないが、殺そうとしてくるご老人をとりあえず祓いましょう。
後ろにいる娘さんには別の日に。
「一度にできないのでしょうか」
「契約が成立して破棄ができずに履行されていますから、相互破棄を了承しないと難しいですね。もしくは時間がかかります。」
とりあえず今のこの状況をなんとかしたい。女性はいるだけで真夜中に現れたり危害を加えたりしないようですから。
説明をしてくれるが、信用はできない。
見えない相手の言っていることをどうやって信用しなければならないのか。
とりあえず今祓えるものを祓ってもらう。
お祓いはすぐに終わった。祝詞で苦しくなったりしたが時間としては一瞬だった。
ドット疲れた。
疲れて少し眠ってしまっていた。
目が覚めたら本殿で毛布をかけられていた。
「お疲れ様でした。」
宮司に言われて白湯をもらって一息をつく。
お祓いとしては終わっているようだ。
命を脅かす老人はきちんと祓えたようだ。だけれども女性はやはり祓うことはできなかったようで、週に1度でも通って継続的にお祓いをして最終的に祓い切る。
予定をどうしていきましょうか。宮司からは時間はかかりますが、必ず助けますから。
そういってくれるのが心がすごく軽くなった。
あれだけ怖い思いをしてきたのに胸が軽くなった。
心につっかえていたものが取れたような気がした。
安心して車に乗り込む。
エンジンをかけて帰路に着く。
少し引っかかるが、もう帰る。今日こそお酒を飲んでゆっくりする。あっついお湯に長風呂して心のゲトックスをする。
風呂上がりにビールを流し込んで楽んで配信をして寝る。今日はもうする。
絶対にする。
機嫌良くしていたら突然子供が飛び出してきた。
慌ててハンドルを切った。
止まれなかった。ぶつからないように急にハンドルを切った。
轟音と共に激しい衝撃が伝わった。
エアバッグが開いて頭をぶつけた。
中央分離帯にぶつかった。
車から降りて子供の無事を確認しないと……
そう思うが体が動かない。
警察と救急車を呼ばないと……
「旦那様……いつかは必ず……私がお迎えにあがります」
赤い中国のような衣装。まっすぐ斜めに切り揃えられた目元は隠れている。鈴のような声で耳元で囁かれた。ゆっくりと振り向くとそこには人形のように青白い肌の女性がそこにいた。
真っ赤な紅を差し口角を上げて微笑んでいた。