婚約解消記録更新中の令嬢は、今日も元気に人の恋路を応援する
「ユリアーナ。その、折り入って相談が……」
とある王国の、ごく平凡な伯爵家の庭先にて。
学園のない休日、雲一つない青空の下で優雅なティータイムを楽しんでいた矢先、ついにその瞬間は訪れた。
向かいに座る婚約者様のその言葉に私はキラリと瞳を輝かせ、目にも止まらぬ速さで、かつ少しも音を立てず、ソーサーとともにティーカップを華麗にテーブルへ着地させる。
言いにくそうに視線を彷徨わせる婚約者様に、咳払いを一つ。その合図で侍女のメラニーが動くのを視界の隅で確認。
そんな私の態度をどう解釈したのか、不安そうにこちらを伺う婚約者様には、にっこりと微笑みを返す。
「心配しなくても大丈夫です。あなた様の懸念事項はもう全て解決しています」
「……えっ?」
私の真意を測りかねて、未だ顔を曇らせたままの婚約者様を今度こそ安心させるべく、私はメラニーから受け取った文書をサッとテーブルに広げる。
そして今回も、満面の笑みで告げるのだ。
「こちら、婚約解消に関する文書です。あとはそちらにサインしていただければ、晴れて私との婚約は解消となります!」
「……えっ」
「幼馴染であるご令嬢との件、既に私の耳にも届いております。十年ぶりの奇跡の再会、しかもお互いに初恋の相手だなんて!まさにこれは運命としか言いようがありません。私はお邪魔虫になんてなりたくないんです、むしろ目指すはキューピッド!というわけで私のことはお気になさらず、今すぐ件のご令嬢とお幸せになってくださいませ!」
「ユ、ユリアーナ……!」
興奮のあまり結構な早口になってしまったけれど、どうやらちゃんと聞き取っていただけたらしい。
婚約者様、もとい元婚約者様(暫定)は感激のあまりかうるうると瞳を潤ませ、「ありがとう……!」と私に向かって勢いよく頭を下げた。
毎度のごとく背中には侍女の物言いたげな視線が刺さりまくっているが、素知らぬふりをして誇らしげに胸を張ってみせる。
ふう、今回もまたいい仕事をしたわ……。
伯爵令嬢である私、ユリアーナ・カルシュは、今日も元気に婚約解消記録更新中だ。
「……じゃないんだよ、ユリアーナ。これで何回目だと思う?」
「五回目です、お父様。ご安心ください、ちゃんと数えています。次で六回目です」
「安心できるわけがないんだよなあ」
元婚約者様(暫定)に婚約解消の文書を渡してお見送りし、その足で書斎に向かうと、半目のお父様が待ち構えていた。
経緯については昨夜詳しく説明済みだが、改めて正式に婚約解消することになったとドヤ顔で報告すれば、冒頭の台詞とともに無駄に長いため息をつかれる。
ここで一つ注意していただきたいのは、五回目なのは婚約「解消」であって、婚約「破棄」ではないということ。つまり今日を含めた五回全て、お互いに合意の上での円満な婚約解消なのである。
先日どこぞのバカな殿方が、真実の愛を見つけたとか何とか言ってパーティーでお相手の令嬢に婚約破棄を言いつけていたけれど、アレと一緒にされては困る。
「はぁ……今回は半年以上続いていたから、流石に大丈夫だろうと思っていたのに……」
「言われてみれば……確かに今回は過去最長でしたね。ちなみに過去最短は三日です」
「何でそこで誇らしげに胸を張るんだ」
「何日で婚約解消まで持って行けたか、五回ともきっちり覚えているので!」
「それがゴールみたいに言うんじゃない!」
どうして毎回こうなるんだ……と頭を抱えるお父様だが、私としては後悔など微塵もない。もはや鼻が高い。
何故ならこれまでのすべての婚約解消において、私は恋のキューピッドとして最高の働きをしてきたと自負しているからである。
記念すべき初回は今から三年前、私が十三歳のとき。
お相手は学園の同級生だった、とある伯爵家のご令息。座学、武術ともにそこそこ良い成績で、ご令嬢たちの間ではそこそこ優良物件、と言われていた方だった。
しかし、初めて婚約者として二人で参加したとあるパーティーで、私は気づいてしまったのだ。
あ、この人他に好きな人いるわ、と。
ダンスを一曲踊り終えたタイミングで、実は病み上がりで体調が優れないなどと適当な理由をつけてさっさと壁際に退散する。
そして半ば引きずるように連行した婚約者様に対し、
「正直におっしゃってください。好きな人いますよね?」
と問い掛けてみた。
婚約者様は一瞬何を言われたのかわからなかったらしいが、一拍置いてから目が点になり、次いでサーッと顔を青くしていた。
が、実はこのとき、私の脳内は歌え踊れのお祭り騒ぎだった。
なぜならこの頃には既に、私の趣味は人の恋路を全力で応援することだったからである。
一介の伯爵令嬢が、何故こんな貴族の令嬢らしからぬ野暮な趣味を持っているのかと聞かれると、ぶっちゃけ大した理由はない。幼い頃に偶然母の部屋で見つけた恋愛小説にどハマりしたのがきっかけで、それ以降人様の恋愛模様を観察するのが大好きになってしまったという、ただそれだけの話である。
ちなみにこの時の婚約者様は、元々一つ下の学年のご令嬢と本当の兄妹のように仲が良かったそうだ。しかし私と婚約したことにより、妹のように思っていたご令嬢にもいつかは婚約者が……と考えるようになり、ひどく落ち込んでしまったらしい。そこで初めて、自分が彼女に抱いていた感情は妹に向けるそれではなく、恋慕だったと気づいたのだという。
この話を聞いた私は尊さのあまり号泣した。それはもう、婚約者様がドン引きするレベルで泣いた。
すぐさま友人たちに協力を仰ぎ、ありとあらゆる情報網を駆使してお相手について調べ上げた私は、約一週間で結論「どう考えても両想い」に至った。初回にしてはなかなかのスピード感だったと思う。この結論に辿り着いた瞬間には、自室で一人ガッツポーズを決めていた。
まず婚約者様に現状報告をし、婚約解消を提案。私たち二人の意向を完全に一致させた後、お父様に全てを報告、併せて婚約を解消したい旨を申告した。
このときお父様はとても真剣に話を聞いてくれて、一度先方のご両親も交えて話し合いの場を設けよう、と約束してくれた。
その後はトントン拍子に事が進み、さらに一週間後、めでたく円満に第一回目婚約解消が成立したのである。
それから二回、三回と回数を重ねるごとに私の恋愛サポートスキルはどんどんレベルが上がっていき、今では二日あれば完璧に情報を揃えるだけでなく、告白お膳立てというオプション付きでのサポートも可能である。おかげさまで同年代のご令嬢からは「恋のキューピッド令嬢」という名誉ある称号もいただいている。ちょっと恥ずかしいけど。
一方でお父様は、私が二回目の解消を報告した時点でその顔から微笑みが消え、三回目からは諦めの表情で私の話を聞くようになり、今では私が説明していると一分間に一回のペースでため息をついている。
そんな感じでまたもやフリーになった私は現在、とある人物の屋敷にて、五回目の経緯を洗いざらい話終えたところであった。
ふかふかのソファの真ん中に腰を下ろし、ドヤ顔で紅茶を啜る私の向かい側には、片手を口元に当てて楽しそうに笑う青年が座っている。
「……っふ、それでまたカルシュ伯爵に怒られたのか」
「怒られてはない。可哀想なものを見るような目を向けられただけだし」
「それはそれでどうなんだ……でもこれでまた、リナの結婚への道が遠のいてしまったね」
「別に気にしてないよ。まだ十六だし、時間は全然あるから」
いっそ結婚せずに王妃様や王女様の専属侍女になるっていう手もありだと思うんだよね、と自信満々に言った私に対し、リナにとっては果てしなく無謀な道だね、と笑顔でド正論をかましてきた大層いけすかないこの男の名は、シルヴェスター・フォーゲル。
代々南方地域の統括を行っているフォーゲル侯爵家の一人息子であり、ついでに言うと私の幼馴染でもある。
至って平凡な伯爵家の長女である私が何故、侯爵家の嫡男に対してこれほど親しげに話すことを許されているのか。その理由として、私たちの父親が学生時代からの友人であることが一番に挙げられる。
加えて母親同士も大層仲が良く、幼い頃は毎日のように仲良く遊んでいた。私の弟が歩けるようになってからは、三人で遊ぶことも多々あった。
まあつまり、シルは私の兄のような存在なのだ。
「冗談はさておき……これからどうするつもりだい?これまでの感じだと、伯爵は近いうちにまた縁談を持って来るんじゃないかな」
「いや、冗談ではないんだけど……それはその通りなんだよね。だから正直悩んでる」
「悩む、とは?」
「……同じ展開になる気しかしないもん」
「ブフッ」
「笑うな」
私とて、別に最初から婚約解消をしたくて婚約しているわけでないのだ。ただ蓋を開けてみると、なぜか毎回相手には、私とは別に想い人がいるというだけで。
勿論、婚約前の情報収集を怠ったことはない。お父様だってきっと隅々まで書類を確認しているはずだし、もしかしたら私のように調査員を派遣している可能性だってある。まあ私の場合は調査員というか、ただ友人の伝手を辿って相手方の人間関係をさらっと把握しているだけだが。
しかしそうやって散々調べ上げ、婚約成立時点では何ら問題のなかったお相手でも、二、三度お会いしたあたりから必ず違和感を覚え始めるのだ。
なんかこの人、私のこと好きじゃなくね?と。
そう思って試しにもう一度お相手の周りを調べてみると、なんとびっくり、百二十パーセントの確率で好きな相手が別にいるのである。
そんなミラクルが毎度毎度起こってたまるか、とお父様は毎回(半泣きで)叫んでいるのだが、悲しいかな、現実はスーパーミラクルパラダイスである。ちなみに字面でお分かりだと思うが私は毎回とっても楽しんでいる。
ある方は身分違いの恋(いろいろ手を回して最終的に身分差を解消)、ある方は一目惚れからの遠距離恋愛(諸々の問題を解決しお相手のいる遠方の地へ送り出すことに成功)、ある方は忘れてしまっていた恋(事故による記憶喪失だったため最新治療を受けられる国を紹介し解決)と、毎度的確に私のツボをついてくる素晴らしい大恋愛をされている方ばかりで、私は彼らから話を聞く度にボロ泣きして引かれていた。
そして各々がたくさんの障壁を乗り越え、めでたく結ばれたとの連絡が入ったとき、私はいつも、婚約解消して本当によかった……と心の底から思う。
しかしだからといって、いちいち婚約した後に解消という手順を踏まなければならないのは、正直言って面倒くさい。私とて、婚約せずにただ彼らの恋愛サポート役に徹するだけでいいのならそれに越したことはないのだ。
「だってもうここまで来ると、婚約イコール解消みたいなイメージが着いちゃってるんだよね……私はただ、婚約した相手が好きな人と結ばれたいって言うからそれを応援してるだけなんだけど」
「そうだね。それが偶然五回続いた、と」
「それでたぶん、次で偶然六回目だと思う」
「偶然って何だろうね」
「……それは私も聞きたい」
どうしたものかと遠い目をしていると、ふと、シルの纏う空気が変わったような気がした。
不思議に思って顔を上げた先には、いつもと変わらない微笑みを浮かべて私を見つめる彼の姿があった。しかし、心なしかあまり余裕が無さそうにも見える。
何かに焦っているような、怖がっているような、そんな雰囲気だ。
「……どうしたの、シル?」
こちらを見据えて微笑んだままずっと黙っているので、仕方なく私から問い掛けてみる。しかしその問い掛けにもシルはぴくりと微かに眉を動かしただけで、返事はない。
……何か、迷っている?
ふとそんな考えが頭を過り、私は彼が口を開くのを急かさず待つことにした。
きっちり三分は沈黙した頃、ようやく彼は「リナ」と、幼い頃に彼自ら考えてくれた私の愛称を口にする。
何?という意味を込めて黙って首を傾げると、シルは小さく息を吐いた後、意を決したように少しだけ背筋を正し、恐る恐るといったふうに口を開く。
「……俺もカルシュ伯爵に、リナとの婚約の打診をしてもいいかな」
「え、やだ」
投げかけられた言葉にほぼ反射で即答すると、目の前の幼馴染はカチンと音を立てて硬直してしまった。
「……いや……せめてもうちょっとこう、悩むとかさ……」
「悩まない。いつも言ってるじゃん、シルとはそういうのじゃないって」
「うん……そうなんだけどね……もしかしたら気が変わってたりしないかなぁと……」
「ないよそんなこと、絶対」
「絶対かぁ……」
がっくりと項垂れたシルから何となく目を逸らし、「うん、絶対」と自分にも言い聞かせるように小さく呟いてから、紅茶を一口啜る。
「……シルは優しいから、義務感に駆られてるだけだよ。このままじゃ私の貰い手が無くなると思って」
「……うーん……」
「小さい頃から一緒にいるから情が移ってるだけ。大丈夫だよ、別に貰い手がなくても私は全然平気だから。心配してくれてありがとね」
「心配……確かに心配ではあるんだけどね……」
そういう心配じゃないんだよなぁ、とため息をついた後もブツブツと何か呟いていたシルだったが、後半は声がくぐもって上手く聞き取れなかった。
これまでも何度か、シルとこういった会話をすることはあった。けれど、何度言われても私の返答は変わらない。
彼には私なんかより、もっとお似合いな人がいくらでもいるのだから。
不意に脳裏を過った幼い頃の苦い記憶を掻き消し、それとともに喉元まで出かかった余計な言葉は、紅茶と一緒にごくんと飲み込んだ。
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「……あ、おかえり、姉さん。またシル兄のところ?」
「ただいま。うん、そう。婚約解消の報告」
帰宅して居間を通りかかると、弟のクラウスが声を掛けてきた。
クラウスは私より三つ下だが、カルシュ伯爵家の跡取りとして、最近はよくお父様の仕事を手伝っているらしい。今日も散々こき使われたようで、だらしなくソファにひっくり返って脱力していた。
シルのところへ行ってきた旨を簡単に伝えると、クラウスは目線だけを私に向け、だらけきった体勢のまま話を続ける。
「シル兄、なんて?」
「また結婚が遠のいたなって言われた」
「……それだけ?」
何故か怪訝そうに問いかけられ、不思議に思いつつも「うん、それだけ」と答えると、じとりと疑いの眼差しを向けられる。
そういえば前回のときもこんなやりとりをしたような、とぼんやり思い出していると、クラウスの視線が私の斜め後方へスライドした。
そこにいるのは、私の専属侍女であるメラニー。彼女はいつも通りの無表情で佇んでいたが、クラウスの何か言いたげな視線を受けると、無言のまま首を横に振る。
「あっそう……」
そんなメラニーを見て何故かわかりやすく落胆したクラウスは、呆れを滲ませた声でそう呟いたきり黙ってしまった。
意味はさっぱりわからないが、どうやら私はクラウスの期待に添えなかったらしい。これ以上会話を続ける気はないのだろうと判断して、私はさっさと自室に引き上げることにした。
「なんっっっで通じないんだろうなぁ……ホント、鈍感すぎる姉で申し訳ない……」
その後、たまたま居間を通りかかった執事は、ソファに寝転んだまま頭を抱えて唸るクラウスを目撃したそうだ。
自室に戻った私は外出用の服から着替え、メラニーに軽く髪を整えてもらうなどしていた。
髪の上を流れていく櫛を鏡越しに眺めながら、ふとメラニーに問いかける。
「ねぇ、メラニーは結婚願望とかあるの?」
「……急にどうなさったんですか」
「ちょっと気になっただけ」
脈絡のない私の問いかけに、メラニーはしばし逡巡した後、徐に口を開く。
「私はお嬢様の侍女としての現状に十分満足しております。結婚願望がないと言えば嘘になりますが、今すぐにしたいわけではありませんね」
そこで一度言葉を区切ったメラニーと、鏡越しに目が合う。と、普段滅多に表情の動かない彼女の口元が、ふっと微かな笑みを浮かべた。
「……少なくともユリアーナ様がご結婚なさるまでは、私は身を固めるつもりはございません」
「……何だかいきなり急かされている気分なんだけど」
「急かしておりますから」
「そうなの!?」
思わぬ返答にぎょっと目を見開けば、これまた珍しいことにクスクスと笑われてしまう。久しぶりに目にした侍女の笑顔を混乱したまま見つめていると、いつのまにか支度が整っていたらしく、「できましたよ」の一言でその話は終わってしまった。
それから間もなくして夕食のため食堂へ向かうこととなり、私は結局、メラニーに詳しい話を聞くことはできなかった。
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「聞きましたわよユリアーナ様!またもやご婚約者様の恋を成就させたそうですわね!」
「お相手のアーバン子爵家のご令嬢が、感激のあまりユリアーナ様へ何十枚もの感謝の手紙を認めたとお聞きしましたわ!」
「さすがは「恋のキューピッド令嬢」様ですわね!」
「して、今回はどのような経緯で解決なさったんですの!?」
「ありがとうございます。今回もまた、詳細はあまりご説明できないのですが、ざっくりでよければ……」
「「ぜひ!!!」」
次の休日、私は学園の同級生であるご令嬢の一人からお誘いのあったお茶会に参加していた。
案の定開始早々に参加者全員から婚約解消について質問攻めにされたが、毎度お決まりのパターンなので余裕の笑顔ですらすらと経緯を説明する。
話に聞き入るご令嬢たちの瞳は爛々と輝いており、一通り話し終えると、誰からともなくほぅっと感嘆のため息が漏れた。
「十年来の再会、あまりにもロマンチックだわ……」
「まさに運命的ですわね、素敵……」
そうして皆が口々に感想を述べていた中、ふと一人のご令嬢が「でも……」とどこか気遣うような声を上げる。
「わたくしは、ユリアーナ様にも幸せになっていただきたいわ」
予想外の言葉に目をぱちくりさせていると、それをきっかけに「その通りよ」「間違いありませんわ」などと同意の声が次々と上がる。
私はしばらくその光景をポカンと眺めていたが、何故か急に、とてつもなく嫌な予感がした。早急に話題を逸らさなければ、という謎の焦燥感に駆られて慌てて口を開く。
「え、ええと、そういえば、あの……」
「ユリアーナ様!」
「はいっ!?」
しかし一歩遅かったらしい。名を呼ばれて反射的に背筋を伸ばした途端、ご令嬢たちの視線が一気に集中する。
あ、まずい、と思った時にはもう、完全に退路を断たれていた。
「フォーゲル様とはどうなんですの!?」
「ど、どう……と言われましても……」
「幼馴染なのですよね!?婚約のご予定はないのですか!?」
「な、ない、です……」
「何故ですの!?」
絶対そうくると思った……と内心頭を抱えつつ、引き攣りそうな笑顔で何とか会話を続ける。
ここ最近、私を悩ませている問題の一つがこれだった。
私とシルが幼馴染であることは、同年代の貴族たちの間では有名な話である。というのも、シルは学園内では超のつくほどの有名人なのだ。
入学時から名家の嫡男という肩書きに相応しい優秀な成績を維持し続け、さらには整った容姿と性格の良さから人望も厚く、特に一部のご令嬢からは熱狂的な支持を得ている。
そんな彼には、それはそれは仲の良い幼馴染がいるらしい、という噂が広まったのが、シルが貴族学園の三年に進級する直前のこと。つまり、シルより二つ年下である私は、入学初日から注目の的だったのである。
入学早々に見知らぬ上級生のご令嬢たちから目の敵にされ、身の危険を感じた私は、学園内では絶対にシルと関わらないことにした。シルもそれは察してくれているようで、六年生と四年生になった今でも、私たちが学園内で会話することはほとんどない。
そのおかげで現在私は「フォーゲル侯爵令息の幼馴染」ではなく、婚約解消記録を随時更新中の「恋のキューピッド令嬢」として名を馳せているが、だからと言って私が「フォーゲル侯爵令息の幼馴染」だという事実が人々の脳内から消えたわけではない。そのことが今になって、再び厄介な問題を引き起こしつつある。
端的に言えば、私とシルはそのうち婚約するものだと思われているのである。
「いえ、あの、そもそも私と彼はただの幼馴染で……皆様が思っているような関係では……」
しどろもどろになりながらそう口にした途端、一瞬でその場が静まり返り、一拍置いてから「嘘でしょう」「まさかユリアーナ様、本気で……?」などと騒めき立つご令嬢の皆様。意味がさっぱりわからない私は、その中心で一人ぽつんと突っ立っていた。
しばらくして、ふと一人のご令嬢が私の前に進み出た。同じクラスの、確か子爵家のご令嬢だ。彼女は忙しなく視線をキョロキョロと動かし、ひどく言いづらそうに切り出した。
「ユリアーナ様、これはお伝えすべきかどうか、正直迷っていたのですが……」
「ちょ、ちょっと……」
「いいえ、これはお伝えしておいた方がいいわ」
「わたくしも同意見ですわ」
ご令嬢の言葉を慌てて止める方と、私に伝えるべきだと頷く方、割合としては半々だろうか。などと私はどこか他人事のように目の前の光景を眺めていた。
しかし、他の方に後押しされた子爵家のご令嬢が次に発した言葉に、私は思いっきり思考を停止させる羽目になる。
「フォーゲル様は近々、ニーチェ公爵令嬢とご婚約されるとの噂があるのです」
「……………そう、なのですか。初耳でしたわ。とてもおめでたいお話ですわね」
変な間が空いてしまったが、かろうじてすぐに我に返り、にっこりと微笑みを貼り付けてそう答えた。
「っ、ユリアーナ様、本当にいいんですの!?」
「このままではフォーゲル様は……!」
そんな私に対して、何人かのご令嬢は焦ったように、そして至極心配そうに問い掛けてくる。
けれど私の心配をするのは御門違いもいいところだ。
「いいも何も、私には関係のないことですから。とても喜ばしいお話ですし、むしろここは「恋のキューピット令嬢」としての腕の見せ所ですわ。私は幼馴染として、彼を目一杯応援し、祝福いたします!」
「ユリアーナ様……」
そう、ただの幼馴染である私には関係のない話。
だから何も心配されるようなことはない、という思いを込めて、未だ不安そうに瞳を揺らすご令嬢たちに、私は完璧な微笑みを向けてみせた。
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同時刻、フォーゲル侯爵家にて。
その日、侯爵家の客間には異様な空気が漂っていた。
「……で?近頃はわたくしも、婚約については否定も肯定もしておりませんけれど。実際のところ、上手くいっておりますの?」
「いえ、まだ何とも。けれどもし上手くいかなくても、その時は私が詰むだけですよ」
そう言って力無く笑った俺に対し、向かいのソファーに腰掛けたオリビア・ニーチェ公爵令嬢は「その場合、もれなくわたくしも詰みそうなのだけれど」と不満そうに呟いた。
ニーチェ嬢は俺の同級生であり、お互いに成績上位者ということもあって、元々よきライバルでもあった。
ひと月ほど前、前日リナにまたもやフラグ(とともに心)をバッキバキに折られて瀕死になっていた俺は、人気の少ない渡り廊下にて、偶然彼女と遭遇した。俺は相当ひどい顔をしていたようで、どこか具合が悪いのかと真剣に心配してくれた彼女に、成り行きで事の経緯を詳しく話すこととなった。
そもそも俺が幼馴染の「恋のキューピッド令嬢」にベタ惚れだということは学園内では周知の事実であり、公然の秘密でもある。しかし、当の本人であるリナだけが俺の気持ちに微塵も気づいていない、という恐ろしい事実を、ニーチェ嬢はこの時初めて知ったらしい。
加えて俺が語った、リナによる数多のフラグ全折りエピソードに戦慄し、あまりの不憫さに本人よりも泣きそうになっていた。
それからというもの、ニーチェ嬢は事あるごとに相談に乗ってくれるようになったのだが、そんな折、俺たちの関係を邪推したどこかのバカが「もしや二人は婚約の予定が?」とかふざけたことを言い出したのが事の始まりだった。
最初は相手にもせず突っ撥ねていたのだが、ある時俺はふと思いつく。
これを上手く利用すれば、リナに意識してもらえるのでは?と。
そう考えた俺は、すぐさまニーチェ嬢に協力を仰ぐことにした。
何故彼女だったかと言うと、俺は彼女の異性のタイプからかけ離れているそうで、惚れた腫れたのややこしい話になることは百パーセントないと彼女から散々言われていたため、協力者にはうってつけだと考えたからである。
ただそれでも一応、保身のために「本当ですよね?俺、タイプじゃないんですよね?」と何度か確認を取ったのだが、最終的にしつこいとぶちギレられて一時間の説教(という名目の筋肉講義)を受ける羽目になったので、流石に大丈夫だと確信した。
ちなみに口止めされているが、ニーチェ嬢のタイプは強面マッチョ系らしい。見かけによらず暑苦しい男が好きだとか。あと、筋肉は正義だそうだ。
そんな彼女からすると俺はかなりナヨナヨして見えるそうで、「ずっと見ているとなんかうざくてムカつく」と何とも辛辣なお言葉をいただいた。
そういった経緯で協力関係となった俺たちは、それ以降、婚約について尋ねられてもわざと濁すようになった。
そのおかげか最近では噂が学園外にも広まり始めているようで、今ここにニーチェ嬢がいるのもそのためだ。
というのも、その噂を聞きつけた両親が早とちりし、俺の知らぬ間に侯爵家にニーチェ嬢を招き「うちの息子には昔から心に決めた相手がいるのでどうか諦めてほしい」と言って平謝りしたのである。
勿論婚約するつもりなど毛頭ないため、二人して慌てて経緯を説明し、今し方ようやく納得してもらえたところだった。
「……改めて、この度は両親が大変失礼しました。急にお呼び立てしてしまって本当に申し訳ない」
改まって深々と頭を下げると、およしになって、と穏やかな声で窘められた。
「その件に関して謝る必要はないわ、先程もそう申し上げたでしょう」
「いや……そもそも謝罪のためとはいえ、本来ならこちらから赴くべきなのに」
「侯爵夫人は足がお悪いのでしょう?仕方のないことだわ。それに元はと言えば、噂を聞いた侯爵や侯爵夫人がどうお考えになるか、というところまで配慮が足りなかったわたくしたちのせいだもの」
そう言われてしまえば返す言葉もない。「面目ない」と小さく付け足せば、少し困ったような微笑みが返ってきた。
「……それにしても、話には聞いておりましたが、カルシュ伯爵家のご令嬢は想像以上の曲者のようですわね。まさかここまでしても無反応とは……」
「噂自体、まだ耳に入っていない可能性もありますよ。彼女、そういうゴシップ系の話にはてんで疎いので……」
「「恋のキューピッド令嬢」がゴシップに弱いって……どうなんですの、それ」
「はは……それが彼女の良いところでもあるので……」
「そういうところですわよ、フォーゲル様」
半目になりつつもぴしゃりと意見してきたニーチェ嬢は、そこでふと「そういえば」と何かを思い出したように言葉を区切る。
「ずっと気になっていたのだけれど……彼女の五回もの婚約解消、もしやあなた、何か手を回したのはではないの?」
「……大したことはしていませんよ。何となく初恋相手と引き合わせてみたり、偶然元恋人を見つけたりしただけです。一目惚れ云々の件は多分、彼女の弟の仕業でしょうし」
何故か他人の異性の好みだけは毎回ドンピシャで当てるんだよな、あいつ……と自分に似て苦労性な、リナにそっくりな栗毛の弟君に(若干引き気味に)思いを馳せる。そんな俺に対して、ニーチェ嬢は呆れ顔で息を吐いた。
「ちなみにご当主……現カルシュ伯爵はそれをご存知で?」
「薄々怪しまれてはいたんですが、流石に今回の件で完全にバレましたね。つい先日、「そんな回りくどいことをしていないでさっさと引き取りに来い」との手紙を戴いてしまいました」
「茶番にもほどがあるでしょう、あなたたち……」
ドン引きしているらしいニーチェ嬢を他所に、俺はふと真剣な顔つきになる。
彼女はすぐさまそんな俺の様子に気づいたようで、黙ったままティーカップを静かに置いた。
「……いい加減、私も腹を括らなければならないようで」
ぽつりと零した声は、お世辞にも力強いとは言えない、どちらかというと弱々しいそれだった。
彼女の瞳はほんの一瞬だけ虚を衝かれたように丸くなったが、まばたきを一度した後、そこにはもう不敵な笑みが浮かんでいた。
「遅すぎるくらいでしてよ。わたくしとの噂なんてどうとでもなりますわ。……というか、そもそも彼女以外誰も本気で信じていないのだから」
さっさと仕留めて来なさい、とバッサリ言い捨てた手厳しい友人に、俺は思わず苦笑いを浮かべたのだった。
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次の日。朝食後間もなくして書斎に呼ばれた段階で、嫌な予感はしていた。
「……お父様、今なんと?」
「フォーゲル侯爵家から縁談が来ている、と言った」
お父様の言葉を脳が正しく理解した瞬間、心が一気に温度を失くし、表情がすとんと抜け落ちるのが自分でもわかった。
「お断りしてください」
「……ユリアーナ」
窘めるように名を呼ばれるも、それを無視して再度「断ってください」と告げた私を見て、お父様は苦虫を噛み潰したような表情をする。
「……少し、落ち着きなさい」
「私は落ち着いています」
「ユリアーナ。まずはちゃんと話を」
「聞く必要などありません!」
お父様の言葉を、思わず大きな声で遮ってしまう。これでは冷静さを欠いていると主張しているようなものだ。頭ではそうわかっていても、そうするしかなかった。
それほどに、その話だけは聞きたくなかった。
ここ最近のうちで一番深く、長くため息をついた後、お父様はもう一度口を開く。
「ユリアーナ。おまえは……」
「お父様が断りづらいのであれば、私が直接シルに言います!」
それすらも遮り、私は半分叫ぶようにそう告げた。
お父様は目を丸くして私を凝視する。
……知っていたのか、とでも言うような目。
お父様の視線をそういう意味と捉えて、私は震えそうになる唇をきつく結び、ぐっと両の拳に力を込めた。
「……大丈夫です。今すぐ断ってきますから」
「待て、ユリアーナ!」
「失礼します!」
半ば言い捨てるようにしてサッと踵を返せば、途端にお父様が焦ったような声色で私を呼んだ。
しかし間がいいのか悪いのか、ちょうどそのタイミングで執事頭が緊急の案件を持ってきたらしい。書斎の入口ですれ違った執事頭も、何か言いたげな表情を私に向けていた気がするが、今は気にかけている余裕などなかった。深刻そうに話し合う二人の声を背中で聞きながら、私は足早に廊下を進んでいく。
訪問の先触れを出している暇はない。急に押し掛けるのは無礼だけれど、シルなら許してくれるだろう。と、頭の片隅で、いやに冷静な自分がそんなことを考えていた。
「メラニー、すぐ支度……ううん、もうこのままでいいわ。馬車を出して」
「どうなさったのですか、お嬢様。そんなに急いでどこへ?」
「フォーゲル侯爵家よ」
メラニーは私の様子を不審に思ったようで、しばらく訝しげに首を傾げていたが、私がそれ以上何も話す気がないとわかると、「かしこまりました」とだけ言ってすぐに支度を始めた。
先触れを出さなかったにも関わらず、あっさりと客間に通され、私は少しばかり面食らっていた。
嫌な顔一つしなかった使用人たちを見て、流石は名門侯爵家、使用人の質も一流だと改めて感心する。こういう些細な所からも、格の違いをひしひしと感じさせられていた。
程なくして、目的の人物はふらりとやって来た。
「……来るとは思っていたけど、思ったより早かったね」
昨日言ったばかりなのに。そう言って困ったように笑うシルを見た瞬間、沸々と怒りが込み上げてくるのがわかった。
「一体どういうつもり?私はシルとは婚約しないって言ったよね?」
私の口から飛び出した言葉に、背後でメラニーが驚く気配がする。
その一方、シルは私の反応をわかりきっていたようで、困り顔のまま肩を竦めてみせた。
その態度がまた、私をひどく苛つかせる。
「お茶会で聞いたよ、ニーチェ公爵のご令嬢と婚約するって話。なのになんで、このタイミングで私に婚約の打診なんかするわけ?必要ないでしょ」
「ああ……聞いたのか」
私の話を否定することなく、あたかも当然のことのような反応をするシルに、噂が紛れもない事実だと突き付けられた気がして、心臓が握り潰されるような心地になった。
けれどそれを悟られてはいけない、と、私は全身に力を入れてシルを睨み続ける。
「ただの噂だよ、ニーチェ嬢とは婚約しない」
「別に誤魔化さなくていいよ。良かったじゃん。私は応援……」
「リナ」
私の言葉を遮って呼ばれた名前に、反射的に口を噤んでしまう。
私の愛称。シルが考えてくれて、シルだけに呼ぶことを許しているそれが、何故かいつもより、ひどく切なく聞こえたから。
「……どうしても、ダメなのか」
「ずっと言ってる。私の答えは変わらない」
「リナ、真剣に考えてくれないか。俺は本当に、本気で言ってるんだ」
「だから、シルのそれはただの情だっていつも言ってるでしょ!私は同情で婚約なんかしてもらいたくない!」
「――っ、同情なわけ、ないだろッ!」
普段穏やかなシルが、珍しく苛立ったように声を荒げた。
思わずびくりと肩を揺らして固まれば、次の瞬間には、恐ろしく強い視線に射抜かれてしまう。
何もかもを見透かしているような碧色の瞳は、あまりにも美しく――少し、怖い。
「……好きなんだ、リナのことが。もうずっと……ずっと前から」
信じられない言葉に、目を見張った。
カラカラに乾き切った喉から、声にならない音が漏れた。それと同時に、急激に込み上げてきたありとあらゆる感情を、死に物狂いで抑え込む。
唾を飲み込んで無理やり喉を潤すと、私はありったけの力を込めて、声を絞り出す。
「……そんな嘘、いらない」
「嘘じゃない。……どうしてだ、リナ。ここまで言っても信じてくれないのか」
「シルは勘違いしてる。私に対するその感情は、恋とかそんなのじゃない」
「いいや、これは俺の感情だ。俺がその名前を決める」
「いい加減にして!何を言われたって私はシルとは婚約しない!絶対にしない!!」
「……リナ……」
嫌だ。聞きたくない。何も聞きたくない。
耳を塞いでしまいたい衝動に駆られるけれど、それよりも先に、私の耳は律儀にその声を拾ってしまう。
「……そんなに、俺のことが嫌い?」
ぽつり、と悲しげに零されたその問いに、私は完全に言葉を失ってしまう。
そんなわけ、ない。
嫌いなわけがないと、誰よりもわかってくれているはずなのに。
シルが一番、知っているはずなのに。
この状況で、「どうしてそんなことを聞くの」とは、流石の私でも言えなかった。
「……わかったよ」
永遠にも感じられた重たい沈黙の後、最初に私たちの間に落ちたのは、シルの諦めにも似た小さな呟きだった。
「婚約の申し出は取り下げる。それで、もう二度と言わない。……これでいい?」
「……」
「……ごめん、しばらく一人にしてほしい。今、君と話して冷静でいられる自信がない」
今日はもう、帰って。
弱々しく吐き出されたその言葉が、私には鉛のように重たく感じられた。
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伯爵家に戻ると、玄関先で私を待っていたのはお母様だった。
「おかえりなさい」
「……ただいま、戻りました」
きっとお父様から話は聞いているのだろうが、いつもと変わらない微笑みで出迎えてくれたお母様に、少しほっとする反面、何となく居心地が悪く感じる。
「婚約の件、お断りしてきたの?」
「……はい」
「そう……それにしては、ひどい顔ね」
指摘されて、思わずパッと顔を逸らしてしまう。
お母様は少しの間黙っていたけれど、しばらくしてからゆっくりと私に歩み寄り、そっと私の両手を握った。
「ねぇ、ユリアーナ。どうしてそこまでシルくんと婚約したくないのか、お母様に教えてくれないかしら」
「……」
「……今のあなたは何だか、とても意地になっているように見えるわ」
お母様のその言葉に、カッと頭が熱くなった。
唇が震え、お母様に握られたままの両手に無意識に力が入る。
目頭が熱くなり、じわりと視界が滲む。
抑えようとしても、全部、自分の意思では抑えられなかった。
「……ユリアーナ」
だってそれは、紛れもなく本当のことだったから。
「……だって、釣り合わない、でしょ」
とうとう口から溢れてしまった想いは、びっくりするほど震えていて。
そして私には、それの止め方なんてわからなかった。
「侯爵家の跡取りで、容姿も頭も性格も良くて、何もかも完璧なシルが……こんな平凡な私と結婚しても、何の利益もないじゃない……っ!」
これまで必死に喉の奥に押し留めていた本心が、閉じ方を忘れた口からボロボロとこぼれ落ちていく。
こんなことを言っても何も変わらない、同情を引きたいわけでも、困らせたいわけでもない。だから絶対に言いたくない。そう思って、誰にも言わずにずっと黙っていた。
けれど確かに、いつからか意地になっていた部分もあった。
どうせシルとは結婚できないのだから、私の気持ちは意地でも言わない、何があっても言いたくない、と。
それにそうでもしなければ、シルが私に向ける柔らかな眼差しを、優しくて温かい言葉を、その想いを、分不相応にも受けとめてしまいそうだったから。
「……うちは貧乏じゃないけど、それほど裕福でもないし。土地だってそんなにたくさん持ってるわけじゃない。わ、私だって……頭が飛び抜けて良いわけでも、特別美人なわけでもない、大した特技もない。こんな……こんな平凡な令嬢が嫁いだところで、侯爵家にとっては何も得がない」
私じゃ、シルに何もあげられない。何も返せない。
「私じゃ、シルの婚約者にはなれない……」
最後は掠れ声になってしまい、居た堪れなくなって俯いた。
そんな私の様子を、お母様はただ黙ってじっと見つめていた。
しばらくして、諭すような優しい声で「リナ」と呼び掛けられ、私はのろのろと顔を上げる。
「誰かに、そう言われたの?」
「……私が小さい頃、言ってたでしょ」
その返答に対し、「私が?」と驚いたように目を丸くするお母様。
ごぽり、と嫌な音を立てて記憶の蓋が開く。
幼い日の、二度と思い出したくもない、苦い苦い記憶。
「私、聞いてたの。お父様とお母様が話してるところ」
あれは私がまだ、六歳になったばかりの頃。
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夕方までシルやクラウスとはしゃぎ過ぎたせいか、なかなか寝つけずにいた私は、お母様を探して一人廊下を歩いていた。
部屋にいなかったところを見るに、居間かお父様の所だろうと当たりをつけて歩いていると、案の定書斎から光が漏れ出ていた。
話し声が聞こえ、二人を驚かせようと忍び足で部屋に近づいた私の耳に、唐突にその言葉は入ってきた。
『……結婚か』
『ええ。ユリアーナとシルくんは歳も近いし、あれだけ仲が良ければ、いずれ言い出すと思うわ』
『うぅむ……』
いきなり聞こえた自分たちの名前に驚き、ぴたりと動きを止める。
同時に、言い淀むお父様の様子に、何故だかわからないが、ひどく嫌な予感がした。
この後続けられる言葉を、聞きたいような、聞きたくないような。そんなぐるぐるとした感情が胸の内で蠢く。
そして続けられた言葉に、私は聞いてしまったことを激しく後悔した。
『……あちらは王家からの覚えもめでたい侯爵家、対してうちは、これといった功績も特色もない、ごく平凡なただの伯爵家だ。お世辞にも釣り合うとは言えない』
『……』
『ユリアーナとシルくんが結婚したとして、侯爵家には何の利点も無い』
『……そうね』
『……なかなか、難しいだろうな』
私が聞いていられたのは、そこまでだった。
気がつけば私はその場から一目散に逃げ出していて、自室に駆け戻りベッドに潜り込むと、一人声を押し殺して泣いた。
そしてその日、私はシルとの婚約を諦めることに決めたのだ。
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「……そういうことだったのね」
私の話を聞き終えた途端、お母様は額に手を当ててがっくりと項垂れてしまった。
予想外の反応を返されて目を瞬かせていると、ふと、斜め後ろで全く同じポーズを取るメラニーがいることに気づく。
何となく周りを見れば、廊下の陰から話を聞いていたらしい他の使用人たちも何故か揃って頭を抱えており、何とも奇妙な光景に私は首を傾げた。
「あれほど仲が良いのに、ある日突然「シルとは絶対婚約しない」と言い出して、ずっと疑問だったのよ。理由も頑なに言わないから……でも、ごめんなさい。どうやら原因は私たちだったようね」
沈痛なため息をつきながら、お母様は続けてこう切り出した。
「あの話には続きがあるのよ」
「続き……?」
「そう」
そして私はとうとう、自分がおよそ十年もの間、盛大な勘違いをしていたことを知る。
『……と、まぁ普通ならそうなるがな。恐らくあいつはそんなこと気にしないだろう』
『……もう、紛らわしい言い方をしないでといつも言っているでしょう』
『はは、すまない。つい癖でな』
『まったく……でも、そうね。むしろユリアーナがシルくんと結婚したいって言ったら、諸手を挙げて大喜びしてくれそうだわ』
『半分、自分の娘のように思っている節があるからなぁ……ユリアーナは私の娘なんだが』
『ふふ、あなたもフォーゲル侯爵様も、本当に親バカなんだから』
「……っていう会話がね、そのあとあったの」
「……嘘……」
「本当よ。ユリアーナは途中までしか聞いていなかったのね」
衝撃の真実に開いた口が塞がらない。
呆然としてお母様を見つめていたが、ハッとして周りを見回すと、メラニーを含むその場にいる全ての使用人が、こちらを見て真顔で頷いていた。
み、皆、知ってたの……!?知らなかったの私だけ……!?
勝手な思い込みで十年……これまでの努力は一体……と一瞬半泣きになりかけたが、はたと我に返った。
……そうだった。例え今の話が本当だとしても、私がシルに釣り合わないことに変わりはない。
「……でもお母様、私本当に、何も持ってないよ……」
しかし、そんな私の情けない声に対してお母様から返ってきたのは、これまた予想に反した「あら、そんなことないわよ?」という明るい声だった。
「だってあなた、社交界では相当な有名人じゃないの」
「え……そうなの?」
「知らなかったの?そうねぇ、私が聞いた話は……婚約者のために自ら進んで身を引き、さらにはその恋路を陰ながらも全身全霊で応援するという献身っぷり。彼女に祝福された二人は必ず幸せになること間違いなし!まさに"愛の女神"!……だったかしら」
「待って何それ、ものすごく恥ずかしいんだけど」
"女神"だけでも相当恥ずかしいのに、よりにもよって愛って。ていうかそれ以前に女神はアウトだろう。神官様に神への冒涜だ!って怒られそう。いやでも、そうなったらキューピッドも怪しいか。
しかし今後、パーティー会場などの大勢の人が集まる場所で、もしも大声でその渾名を呼ばれたりしたら……考えただけで背筋が凍る。
「だからあなたとお近づきになりたい人なんて、今や数えきれないほどいるのよ?まだ学園に通っている途中だし、私やお父様が代理で行ったり、お誘い自体を断ったりもしているから、知らなかったのも無理ないでしょうけど」
でも変ねぇ、学園で広まっていてもおかしくはないと思うのだけど、とお母様は不思議そうに呟く。
その様子をどこか他人事のように眺めていると、不意にお母様が私の目を真っ直ぐに見つめ、その双眸を和らげた。
「……ユリアーナ、もっと自分に自信を持っていいのよ。あなたは十分シルくんに釣り合う、とっても魅力的な令嬢なんだから」
その言葉に、心がぽっと温かくなった気がした。
「……私、シルと婚約していいの?」
「ええ」
緩んだ口元から、これまでずっと誰にも言わなかった本音が、音となって零れ落ちていく。
「じゃあ、私……シルに、好きって言ってもいいの?」
「ふふ、もちろんよ」
私のその言葉を聞いたお母様は、少しも驚くことなく、ただにっこりと嬉しそうに微笑んだ。
きゅっと唇を噛み締め、今にも溢れ出しそうな感情を何とか押し止める。
急にソワソワとし始めた私に目敏く気づいたお母様は、くすりと小さく笑って、それから優しく背中を押してくれた。
「行ってきなさい。少し遅くなっても構わないわ。でも、ちゃんと帰ってくるのよ?」
「……はいっ」
ぱっと振り返れば、既に玄関のドアノブに手を掛け、「いつでも行けます」と言わんばかりにスタンバっていたらしいメラニーと目が合う。
そんな彼女もまた、いつもの無表情が嘘のような、晴れ晴れとした笑みを浮かべていた。
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勢い任せに再び侯爵家へ馬を走らせたはいいものの、つい数時間前のことがあるので、もしかしたらシルは会ってくれないかもしれない、と内心不安に思っていた。
しかし結論から言うと、ここでもまた予想の遥か斜め上を行く反応をされ、私は目を白黒させてしまった。
まず侯爵家に到着して馬車を降りた瞬間に目にしたものは、泣きそうな表情でこちらへ走ってくる執事だった。
あまりにも予想外の光景に唖然としていると、「よくぞ戻って来てくださいました……っ」といきなり深々と頭を下げられた。
頭に疑問符を浮かべたまま、執事に連れられて屋敷の中へ足を踏み入れると、次に目に飛び込んできたのは涙ぐむ侍女たちの姿。
「まさかこんな……奇跡だわ……」「私たちではどうしようもできず……っ」「ありがとうございます、女神様……!」とか何とか、そんな感じのことを口々に言われたが、もちろん私には全く意味がわからない。ちなみに何故かメラニーはしたり顔で頷きまくっていた。
わけのわからない厚待遇に戸惑いつつも、本日二度目となる客間に案内されると、げっそりとした表情でソファに腰掛け、死刑宣告をされたばかりの罪人よろしく、果てしない悲壮感を漂わせたシルがそこにいた。
「……え、リナ?」
「……っ、シル!」
シルの姿を見た途端、胸いっぱいに喜びが広がる。
表情にもそれが出ていたらしく、シルが少しだけ目を見張ったので、私は慌てて姿勢を正す。まずは謝罪をしなければ。
「えっと、同じ日に何度もごめんなさい。しかもまた、先触れもなく」
「いや、それは構わないけれど……どうしたんだい?何か忘れ物でも……」
「あの、どうしても早く伝えたくて」
気が急いてしまって、少し早口になってしまう。
パタパタとソファに駆け寄り、迷うことなくシルの隣に腰を下ろすと、ギョッとしたようにシルの体が強張った。
今朝との態度の差に戸惑っているのだろう、続けて訝しげな視線を向けてくるシルを見て、さらに焦りが募っていく。
早くシルを安心させたくて、でも何から話せばいいのかわからなくて、しばらく私ははくはくと口を開けたり閉じたりしていた。
「……ふ、本当にどうしたんだ、変な顔して」
不意に、シルが笑った。
それはいつも私に見せてくれる、私の大好きな、優しくて柔らかな笑顔で。
その瞬間、焦りや不安といった負の感情が嘘のように消え去った。
きっとこのとき私は、もう何度目かわからない恋に落ちたのだと思う。
「私、シルと婚約できるんだって」
「……え?」
「シルの婚約者になっても、いいんだって」
「リ、」
「シルに、好きって言ってもいいんだって!」
堰を切ったように溢れ出す愛しさを、余すことなく声に乗せ、言葉を紡いでいく。
目を真ん丸にさせたシルの方へずいっと身を乗り出した私は、ふと彼の瞳に映る自分と目が合い、それから少しだけ驚くことになった。
それもそのはず、碧の中の私は、私がとてもよく知る表情をしていて。
それは、これまでに私が恋路を応援してきた人々が、愛する人へ向ける表情そのものだった。
――ああ、やっと言える。
「シル、大好き」
「…………ちょっと、待って。一旦ストップ」
謎の間が空いた後、片方の掌を私に向けて制止のポーズをとったシルは、もう片方の手で自分の顔を覆って俯いてしまった。
純粋に喜ばれるだろうと思っていた私は、またもや思わぬ反応にきょとんとしてしまう。
そんな私の気配を察したらしく、シルはしばらくしてから徐に口を開いたが、相変わらず片手で顔を覆っているので表情は見えないままだ。
「えー……ちょっと本当にね、うん、待って欲しい。めちゃくちゃ混乱してる今」
「シルも、私と婚約したかったんでしょ?」
「それはそうなんだけどね、それどころじゃないっていうか、正直言うと最後の一言で全部ぶっ飛んだって言うか……ダメだ、全然頭が回らない。バカになってる」
「シル賢いじゃん」
「リナのことになるとポンコツになるんだよ、俺は」
「そうなの?」
「そうなの」
そうなんだ……と一人で感心していると、ふーっと小さく息を吐く音が聞こえた後、私よりふた回りほど大きくて長い指の間から、碧色がちらりと覗いた。
「……一つ確認していい?」
「うん」
「リナは……俺のこと好きなの?」
「うん、好き」
間髪入れずに即答すれば、うぐ、と呻き声のようなものが返ってきた。
またこの時、私はシルしか視界に入っていなかったのだが、部屋の隅で空気と同化していたメラニー及び侯爵家の使用人たちは、涙ぐんで天を仰いでいたらしい。
「……ちなみにそれは、恋愛の方の?」
「うん。昔からずっとそうだよ」
「……マジかぁ」
そう、これまで誰にも言ったことがなかったのだが、実は私の初恋の相手はシルなのだ。
そんな感じで誇らしげに告げた私とは打って変わって、シルは先程から複雑そうな、何とも言えない雰囲気を醸し出している。
「何でもっと早く言ってくれなかったの……」
「言ったらダメだと思ってたから」
「何でだよ……」
はぁぁ、と今度はわかりやすく深いため息をついたシルは、何故か顔を覆っていた手を一本から二本に増やした。
余計にシルの表情がわからなくなり、加えて声がくぐもって聞き取りづらくなると思った私は、いそいそとシルに顔を近づける。
その気配を察したのか、再び隙間から覗いた碧色と、ばっちり目が合った。
何となくじっと見つめたままでいると、不意にその瞳がふっと和らいだ、ような気がした。
「ハァ……もういいや。考えるの疲れた。結婚しよう、リナ」
「え、そりゃいつかはするけど……まずは婚約でしょ」
「ああ、そうだっけ……何でもいいよ、一生リナが隣にいてくれるなら」
「うん、いいよ。その代わり、シルもずっと私の側にいてね」
「……いいよ」
半ばヤケクソ気味に呟かれたその返答が、飛び上がりそうになるほど嬉しくて。
私は衝動のまま、はしたなくもシルに抱きついてしまったのだった。
翌日、フォーゲル侯爵令息とカルシュ伯爵令嬢の婚約話は貴族の間にて瞬く間に広まり、彼らと同年代の令息令嬢は皆、口を揃えて「やっとか……」と呟いていたらしい。
また、その日以降学園では、社交界で有名な"愛の女神"こと通称「恋のキューピッド令嬢」が上級生の教室を頻繁に訪れるようになり、それと相まって「俺の婚約者がさっぱりわからん……」と顔を真っ赤にして項垂れる、相変わらず不憫な侯爵令息が度々目撃されるようになったとか。
最後までお読みいただきありがとうございました!
もし気に入っていただけたり、おもしろいと思っていただけたなら、ブクマや下の⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎で評価していただけるととても励みになります。