第八十七話「相打ち」
釈然としないまま、それでもまた日は昇る。学園に通い、習い事に行って、家に帰る。月曜日に発覚した壁新聞事件も、すぐに犯人は見つかり、俺達の知らない所で、大人達によって勝手に処理されていく。
壁新聞のことも、実行犯の桑原桂のこともどうなったのかわからない。ただ俺は毎日学園に通って、相変わらず周りからはヒソヒソと言われ、それでもお友達の皆がいるから耐えられる。
「九条咲耶!」
「え?」
金曜日の朝、今日が終わればまた土日と休みになる。そんな休日前の朝に、俺は見ず知らずの男子生徒に襲われた。
掴みかかってくるのか?殴るつもりか?いまいち判然としない。ただわかることは物凄い形相をした男子生徒が手を振り上げながら俺に向かって突き進んでくる。俺の名前を呼んでいることから対象が俺であることは間違いない。ここで俺が狙われているとは限らないからと無抵抗でいられるほど俺はお人好しじゃなかった。
俺の顔に向けて伸ばしてきた手、いや、拳。やっぱり殴ろうとしていたようだ。スローモーションのように遅いその拳を左手で捌き、体を少しだけ捻る。男子生徒の拳は空を切り俺の右頬スレスレを通り過ぎる。
完全に当てるつもりで殴っていた一撃は、逸らされて空を切ったことで本人のバランスまで崩した。突き出した右拳が逸らされたことで男子生徒の体は左に捻るように曲がる。そこへ後ろへ回りつつ、足を引っ掛け、背中から突き飛ばす。ただそれだけ。
男子生徒は無様に転がり地面と抱き合う。五体投地で転がる男子生徒の背中を踏みつけ、立ち上がってこないうちに手で足を折り曲げる。その曲げた足の間に自分の足を入れれば男子生徒の足は極まり動けなくなる。
そして背中を踏んでいた足を肩に移す。肩を押さえられたら立ち上がれない。腕に力を入れられないからこれで両足と片手は封じた。片方の腕は残っているけどうつ伏せに制圧されている姿勢から片腕だけで反撃なんて出来ない。よほど奇妙な方向に関節が曲がるのならわからないけど……。
対象を制圧したことを確認した俺は体を屈めて髪を掴み上げ顔を確認する。それと万が一の時のためにもう片方の手は首に添えておく。師匠なら首を掻っ切るだろうけど生憎俺は素手で頚動脈を切る術は身につけていない。
ただ……、優しく頚動脈を押さえるだけでも失神させることは可能だ。何も力ずくで首を絞める必要もないし、首を掻っ切る必要もない。少し、ほんのすこ~し、指先に力を入れるだけで物の数秒でこの男子生徒は意識を失う。それまで制圧出来ていればいい。
「貴方は…………」
「咲耶!ってあれ?」
俺が男子生徒を制圧した頃、玄関ロビーで別れたばかりの兄が走って戻ってきた。兄と別れた後を狙って襲撃してきたけど俺に返り討ちに遭ったというわけだ。
「くそっ!離せ!」
「桑原……、桂……」
「妹に、咲耶に襲い掛かるなんてどういうつもりだ!」
兄が……、本気で怒っている。こんな兄は見たことがない。本当に、本気で、怒ってくれている。俺の身を案じて……。だけど今はあまり感情的に対応するべきじゃないだろう。
「お兄様落ち着いてください。私は何ともありませんでした。それよりも他にするべきことがあります」
「――ッ!……ふ~~~。そうだね……。僕としたことが少し取り乱してしまった。すまない」
深く息を吐き出してから落ち着きを取り戻した兄が苦笑いをしている。でもそんなに謝ることなんてない。俺は今とてもうれしい気持ちだ。
「いいえ。お兄様は私のために怒ってくださったのです。何も謝られることなどありません。咲耶はうれしく思いました」
「そっ……、あっ……、あ~……。うん。そうだね」
ちょっと赤い顔をして視線を彷徨わせた兄は、照れ笑いを浮かべながら頭を掻いていた。何だか可愛い。良実君にもこういう所があったのかと思うと少しほっとする。この兄はあまりに物分りが良すぎる。到底小学校六年生とは思えなかった。
でもこういう所を見れば……、やっぱりまだ子供なんだなと思える。それが何だか可愛くて安心する。
「さっさと離せ!この暴力女め!皆見ろ!これが九条咲耶の正体だ!罪もない僕を退学に追い込み、それだけでは飽き足らずこうして暴力を揮う!見ろ!これが九条咲耶の正体だ!」
「うわっ!」
「――ッ!」
うるさい。いきなり大声で……。いや、ただの声だけじゃないぞ。放送?マイク?どこに?それに……、あちこちにあるディスプレイに……、今の俺と桑原桂の姿が映し出されている。どこかで撮影している?どこだ……?一体どこから……。
そして……、登校中の生徒達が……、ヒソヒソと……。また……、まただ……。またヒソヒソと言われている。最近は少し落ちついて来ていたのに……。こいつはこれが狙いで……。
「一年生が五年生をあんな風に組み敷いて?」
「うわぁ……。相当暴力を揮い慣れてるよね」
「ああ、見た見た。凄かったよ。まるで映画のワンシーンかと思った。あれは相当慣れてるよ」
「やっぱり九条咲耶って子は……」
「「「そういう子なんだ」」」
「――ッ!?」
ヒソヒソと……、蔑みのような目が俺に突き刺さる。何故だ?俺は……、俺はただ身を守っただけじゃないか。それなのに何故俺だけがいつも……、いつもいつもいつも!
「いい加減にしろ!」
「「「「「――ッ!」」」」」
キーンと音が鳴り響く。桑原桂のマイクに俺の声が入ったんだろう。大きな音で俺の叫びは放送されてしまった。声に出してからハッとして口を塞ぐけどもう遅い。一度吐いた言葉はなくならない。それもマイクに拾われてしまった。恐らくどこかで録画もされているだろう……。
「くはっ!くははっ!お前はもう終わりだ。九条咲耶ぁ~」
ニタリと、気持ち悪い笑顔を浮かべている桑原桂にゾクリとする。
この後すぐに来た教師や他の家の家人達大人によって俺達は引き離され桑原桂は連れて行かれた。でも……、その時に終始桑原桂が浮かべていた気持ち悪い笑顔は一生忘れられないかもしれない。
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桑原桂は……、最初から俺と相打ちを狙っていた……。
こんな事件を起こせば退学になることはわかっていたはずだ。それでも、わかりやすいようにわざわざご丁寧に証拠まで残してご本人様がこんなことを仕出かした。壁新聞を貼るにしても誰かを雇ってやらせるとか、カメラの映像をどうにかすることを考えるはずだろう。
それなのに桑原桂は最初から犯人として捕まろうとしていたかのように、わざと、自分自身をはっきり監視カメラに映させて犯行に及んでいる。
そして今回の件だ……。桑原は確かに捕まって相当怒られただろう。でも俺は怪我を負ったわけでもない。もう退学になっている桑原にとっては学園からの処分など何も効果がない。俺は怪我も負っていないから警察に言っても無駄だ。何も被害がなかったのだから警察や裁判に訴えようにも相手にもしてもらえないだろう。
対する俺は……、完全に評判を失った。
俺の正当防衛であったかどうかなんて関係ない。俺はご令嬢でありながら年上の男を引き摺り倒し、組み伏せ、はしたなく跨り、踏みつけ、暴力を揮った。そういう評判が瞬く間に広がった。これは最初から仕組まれていたとしか考えられない。あまりに手際が良すぎる。
最初から桑原桂は捨て石だ。そしてもう退学になって何も失う物がなくなった桑原を最後に、もう一度、もう一押しに利用した。
あの時の映像はすぐさま編集され再び学園で流された。俺が桑原桂を転ばせて、踏みつけ、押さえ込み、髪を掴み上げて、そして兄と一緒に邪悪に笑う。そんな編集だ。さらに周囲の他の生徒達に向かって吠えるところまでばっちり編集されている。
この映像を作って流したのも桑原家ということになって、桑原桂は警察に連れていかれた。でも本当にそうか?たぶん違うだろう。これは別の黒幕が裏で糸を引いている。でも学園側としてはそんな面倒事になりたくないと、全ての罪を桑原に押し付けておしまいにするつもりだ。
桑原はもう退学になっているから今更何か問題を起こしても藤花学園には関係ない。ただ犯人を突き止め警察に突き出しました。それだけ。警察としてもこちらに具体的な被害がない以上は何も対処しない。適当に引っ張っていってちょっとお説教したら解放だろう。何の意味もない。
九条咲耶のイメージは地に落ちた。俺は全てを失った。だけど警察にはそれは被害だと認定されない。怪我を負ったわけでもない。金銭を奪われたわけでもない。だから俺は何も被害に遭っていない……。
「…………」
「咲耶……」
授業なんて受けていられる状況ではなく、学園と警察の聞き取りが行なわれてようやく事情聴取が終わった。外で待ってくれていた兄と廊下を歩くけど……、丁度休み時間だったこともあり大勢の生徒達がいる中を……、またヒソヒソと言われながら歩く。
ああ……、この世界は呪われた世界だ……。何故この世界はこんなにも九条咲耶に厳しい?九条咲耶が一体何をした?何故こんな理不尽な扱いを受けなければならない!
「ふーっ……、ふーっ……」
自然と鼓動が激しくなり呼吸が上がる。いつの間にか拳を握り締めていた。
「咲耶、教室まで送るよ」
「いえ……、一人で大丈夫です」
兄のエスコートを断って一人で歩く。
九条咲耶は気に入らない相手を退学に追い込む。
九条咲耶は無抵抗な相手に暴力を揮う。
九条咲耶は人に無実の罪をなすりつける。
九条咲耶は……。
「ギリッ!」
噛み締めた歯が鳴る。何で………………。
「咲耶様!」
「大丈夫咲耶ちゃん?」
「咲耶ちゃん!」
「あぁ……」
いつの間にか自分の教室の前まで来ていたらしい。飛び出して来た薊ちゃん達が俺を囲んで声をかけてくれる。それだけで救われた気分だ。さっきまでの鬱屈した気持ちが嘘のように晴れていく。
まだ大丈夫……。皆がいてくれるなら……、俺はまだ歩ける。
失った評判なんて大したことじゃない。失ったのならまた積み上げればいい。俺は……、本当に大切なモノは何一つ失ってはいない。だから大丈夫。またここから歩いていけばいい。
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家でも桑原桂の事件は問題になったけど、やっぱり表立って何か対応するということもなく、ただ桑原桂に対して一応被害届と損害について警察に届けが出されただけとなった。どうせ警察は何も対処しない。ただそれを受理しましたというだけだ。
別に桑原家に報復してやろうとか、何か罰を与えてやろうというつもりはないけど……、このあまりの現実にめまいすら覚える。あれだけのことを仕出かしても学園を退学になっただけ……。
確かにこの界隈ではとんでもないことだろう。もう二度と上流階級には復帰出来ないかもしれない。でも……、例えば最初からもう失うものがなかったとしたら?
俺は把握していないけど、例えば桑原家が莫大な借金を抱えていて、それをどうにかしなければならないとしたら?どうせもう借金地獄で上流階級から転落は確定ならば、今更何か躊躇する理由などない。その借金を肩代わりしてくれるなり、何か報酬が出るというのならこれくらいの茶番をしても何も失うものなどないだろう。
大人達はその背後関係も薄々気付いているんじゃないのか?そしてだから黙っている……。それを掘り返したらとんでもない爆弾が出てくるとわかっているから……。
もちろんそれは俺の想像でしかないけど……、父や学園の対応からしてあながち間違いとも思えない。でも……、大人達が爆弾を掘り起こすことを躊躇っているとしても……、俺は忘れない。この黒幕だけは……、この気持ちはずっと忘れない……。
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月曜日のお昼休み……、昼食も摂らずに俺達は集まっていた。
「…………………………え?」
「咲耶ちゃんごめんなさい!」
「私も……」
「咲耶様…………」
皆の言っていることが理解出来ない。理解したくない。薊ちゃんが、皐月ちゃんが、茜ちゃんも椿ちゃんも譲葉ちゃんも蓮華ちゃんも……、皆……、皆が俺の下からいなくなってしまう。皆が離れていく。
別に……、大したことじゃないはずなのに……、何でだろう……。俺は元々一人だったんだから……。だから耐えられる。一人でも我慢出来る。そのはずなのに……。
「……え?……あれ?」
ポツリと制服が濡れる。雨でも降ってるのかな?そんなわけないよね……。だってここは屋内で……、雨が降っていたとしても濡れるはずはない。でもどうしてだろう……。まるで目の前が水に濡れたように滲んで見える。これは……、何だ……?