第六話「特訓開始~!」
百地流古舞踏初日、和服を着せられた俺は母に付き添われて百地流の道場へとやって来た。
「百地師匠、よろしくお願いします」
「まるでなっとらん。今日はそこから叩き込んでやる」
入ってすぐまずは頭を下げた。すると浴びせられたのがこの言葉だ。
「よろしくお願いします先生。咲耶!頑張るのよ!」
母が隅の方に座って見ている。今日は俺の練習の様子を眺めるつもりのようだ。これじゃ格闘技の練習が出来ない。
「そわそわするな!よいか。まずは立ち座りを教える。よく見ておけ。右足を半歩引いて、片膝をつき、足を合わせてかかとの上にお尻を乗せて座る。そして裾を直す。わかったか?」
「はい、百地師匠」
「そうか。やってみろ」
言われた通りにやってみる。足を引いて、膝をついて、足を合わせてかかとにお尻を乗せて座る。そして裾を直す。簡単だ。
「違う!まったく出来ていない!」
「えっ!?」
どこが?何で?座るなんて誰がやっても同じだろ?
「よいか。もう一度やるからよく見ておけ!こうだ!」
百地師匠はキビキビした動きで座った。もしかしてあれか?師匠みたいにキビキビしてたらいいのか?
「こうですか?」
「違う!まったく出来てない!」
何で?何で?何が?全然わからん!
「背筋を伸ばせ!足を引きすぎだ!片膝をついて!両膝を合わせて座れ!最後に裾を直す!」
ひぇ~~!もうわけがわからなくなってくる。何がおかしいんだ?これで良いんじゃないのか?
「もっと美しく!もっと淀みなく流れるように!」
全然わからない。何が違うんだ?何が間違ってるんだ?俺と師匠でどこが違うっていうんだ。さっぱりわからない。でも何をしても全て駄目出しをされる。
何度も何度もただ座る練習……。こんなものに何の意味があるんだ?
「もういい。一先ずそこまでだ。今度は立ち方だ。座る時の逆をすれば良い。片膝を立て、立ち上がり、足を戻す」
「これで……」
「ちっが~う!何度言ったらわかるのだ!まず背筋を伸ばせ!頭を下げるな!足を引きすぎだ!もう一回!」
何で何で~?全然わからん!
「頑張るのよ咲耶!」
母の応援が聞こえるけど俺はそのあとまったく一度たりとも師匠に褒められることはなかった。
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何度も何度もただ立って座るだけ。ひたすらひたすら繰り返す。何なんだこれは?母はずっとこっちを見ているけど飽きないのか?それと足が痛い。痺れたとかじゃなくて単純に筋肉の使いすぎだ。膝を曲げて中腰状態でいれば誰でも疲れるだろう?俺がやらされているのはずっとその繰り返しだ。膝が笑っても当然だろう。
「もう良い!どうせ膝が笑ってまともに立てんのだろう。次だ。次はお辞儀だ」
お辞儀……、そんなものに練習が必要なのか?もう立ち座りだけで相当時間が経っているというのに……。こんなことしかしていないなんていい加減母が怒り出すんじゃ……?
そう思って母の方を見てみたけど熱心に見ている。これでいいのか?こういうものなのか?しかも地味に母もちょこちょこ練習している。母よ……、自分も習いたければどこへなりとも習いに行けば良いんじゃないのかな?お金も暇もあるでしょ?
「左手で帯を抑える。右手で扇子を抜く。扇子の持ち手を右側にして前に置く。両手をついてお辞儀をする」
これは簡単だろう。師匠がやったように真似をして扇子を抜いて前に置いてお辞儀をする。
「どうですか?」
「まるでなっとらん!扇子は要を隠すように持って置くのだ!」
えぇ……、さっきはそんなこと言わなかったじゃん……。それに要って何よ?
「手のつきかたが違う!親指と人差し指で三角形を作るように!」
それもさっき言わなかったよね?今初めて聞いたぞ?後付けじゃないのか?
「親指は隠せ!」
むぅ!それなら最初に言っとけよ!
「背筋を伸ばせ!」
も~~~っ!知らない!そんなにあれこれ言われてもわかるか!後出しであーだこーだ言うし!どうせ何をやっても全部駄目なんだろ?
「ふむ……、不満がありそうだな?」
「いえ、別に……」
そりゃ不満だらけだよ!こんなどうでも良い動作ばかり何度も何度もやらされて……、それも結局俺がいくらやっても全部否定するんだろ?俺がやりたいことはこんなことじゃ……
「礼儀作法は全てに通じる。舞踊も舞踏も武道も、古今東西どんなものでも礼に始まり礼に終わる。その礼をきちんとすることはどんなことにおいても当然のことだ。それができんというのであればもうやめるが良い。礼も尽くせぬ者に先はない。何をやっても全て無駄だ」
「…………申し訳ありませんでした。私が間違っておりました」
俺は素直に師匠に頭を下げた。師匠の言うことは尤もだ。柔道でも剣道でもあらゆる武道でもそうだ。全て礼に始まり礼に終わる。礼というのはただ頭を下げたり言葉を言えば良いわけじゃない。相手を敬い健闘を讃えるためのものだ。
それは『こんなもんでいいだろう』とか『決まっている形をやれば良いだろう』というものじゃない。きちんと出来るようになるまで何回も何回も、何千回も何万回も繰り返すものだ。もうこれでいいとか、どこが出来てないんだとかそういうものじゃなかった……。出来てなかったのは俺の心だ……。
「うむ……。わかったようだな。よし!それでは続けるぞ!」
「はい!百地師匠!」
この後また俺はずっと立ち座り、お辞儀の練習をひたすら繰り返したのだった。
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「本当に咲耶ったら一生懸命だったのよ。百地先生の所にお任せしてよかったわぁ」
家に帰ってから母はずっとこうだ。今も夕飯の席で父にずっと今日の百地流の練習のことをしゃべり続けている。同じ話、というかただ立ち座り、お辞儀を繰り返していただけだからもう何も言うことはないはずなのにそれでも母の口は止まらない。ずっと同じ話が延々と続いている。父もゲンナリしているようだ。
「へぇ、凄いじゃないか咲耶」
「お兄様」
兄も母の話を聞いて俺を褒める。でもそんな褒められるようなことか?ただずっと立って座ってお辞儀してただけなのに……。
「それだけすごいならパパにも見せておくれ」
いい加減同じ話を繰り返す母の相手が苦痛になったのか父はそう言って俺に話を振ってきた。母も見せてやりなさいとばかりに期待した視線を送ってくる。だけど今日やったのは何度も言うけど立って座ってお辞儀しただけだから……。
「私はまだ人様にお見せ出来るようなものではありませんので……」
「ほ~、咲耶は謙虚だなぁ」
父よ……。母の話を聞いていなかったのか?今日俺が習ったのは本当に立って座ってお辞儀をすることだけだぞ?そんなの誰でも出来るだろう……。
「お転婆な咲耶が謙虚さまで身につけるなんて!やっぱり百地先生にお願いしてよかったわぁ」
母はそればっかりだな……。あの爺さんは相当曲者だぞ……。
でもこれはまずいな……。毎回毎回ああやって母が同席するとなると他の修行が出来ない。このままでは本当に百地流古舞踏を極めさせられてしまう。どうにかして母とは別行動する必要がある。
……まぁそれは追々でいいか。今考えても良い案は浮かばない。それに初回くらいは母もついて来るかもしれないけどそのうち飽きるだろう。母も色々出かけているから友達に誘われたとかでどっかに行くことも多いし……。
とにかく今日は疲れたから早めに休もう…………。
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今日やってきたのは超高級フィットネスクラブ『グランデ』だ。ここは母も会員だしお金持ちの樽マダム御用達となっている。こういう所での上流階級の交流というのは馬鹿に出来ない。むしろこういう場で輪に入っていなければ色々と大変な目に遭うだろう。
樽のマダム達が歩いている中を俺も更衣室に入って水着に着替える。マダム達の眩しい裸体も見えるけど生憎と興味は湧かない。これが若くて綺麗な女の子だったらお金を払ってでもがっつり見ていたかもしれないけどむしろ樽マダム達を見せられるならお金を払って欲しいくらいだ。
あまり幼い頃に筋トレとかしすぎるのもよくないようなので俺は基本的に水泳を中心にトレーニングをしていくことになっている。
「古堀先生、よろしくお願いします」
「はい、よろしくね」
俺のトレーナーはこの古堀七平という人だ。残念ながら男でがっかりだった。でもこの古堀先生はこのフィットネスクラブで大人気らしい。まぁその人気もわからなくはない。
古堀先生は引き締まった良い体をしている。トレーナーが太っていたら説得力がないから当たり前ではあるけど鍛えられた体だ。それもボディビルダーのように筋肉をつけているわけじゃなくて水泳選手のように余計な筋肉を付けすぎない範囲で鍛えている。
性格も温和で丁寧に教えてくれるそうで、若くて甘いマスクの引き締まったボディを持つ男性トレーナーとなれば樽マダム達に人気なのもわかるというものだろう。
もちろん俺は男になんて欠片も興味はない。古堀先生は良い体格だし自分自身のトレーニングや肉体のコントロールは出来ていると思う。適度に食べ、適度に休み、適度に鍛えていなければこうはならない。食にだらしないともっと体も弛むだろうし、マメにトレーニングをしていなければこの体型は維持されるはずがない。
そういう点では尊敬と信頼に値するかもしれないけど人に教えるのもうまいか?人を管理するのも適切か?という意味においては直接この目とこの身で確かめてみないことにはわからない。
「って、古堀先生!なんですかこれは!?」
「アームリングとスイムヘルパーだよ。これをつけて泳ごうね」
「ちょちょちょっ!」
腕に小さな浮き輪みたいなものをつけられて、腰にも浮きを巻きつけられる。ちょっと待って欲しい。これは子供が溺れないようにつけるやつじゃないのか?俺にこんなものは不要だ。
「古堀先生!私はこんなものはいりません!こんなものがあったら邪魔で泳げません!」
こんなのがついてたら余計に泳ぎ難い。
「う~ん……。そうは言っても幼児は着用しなきゃプールに入れないんだよ、って言ってもわからないかぁ……。えっとね、これは皆が最初はつけるものなんだよ。だから咲耶ちゃんが泳げるようになったら徐々にとっていこうね?」
うわぁ……。完全に幼児の水泳教室になってるよ……。俺はこれでもフォームが綺麗で体育の授業で先生に『水泳を習っていたのか?』って言われたくらいだ。水泳なんて習ってなかったのにな!まぁ速さはそんなに速くなかったけど……。
「じゃあ古堀先生、最初は先生が補助に入れる位置で浮きなしで泳がせてください。それで泳げなければ浮きをつけます」
「う~~~んっ……。でもなぁ……、それで事故があったらなぁ……」
そりゃそうか。古堀先生の立場じゃ事故があった場合の心配をするよな。でも腕に浮きをつけていたら泳げない。ただ浮かんでいるだけだ。それじゃ意味がない。
「泳げるようになったら浮きも外して泳ぎの練習をするんですよね?だったら私が泳げたら問題ないんじゃないですか?」
「う~~~~~ん……。わかった。わかったよ咲耶ちゃん。それじゃ一回だけね?それで泳げなかったらきちんとアームリングとスイムヘルパーをつけるんだよ?」
「はい!ありがとうございます!」
やった!言ってみるもんだな!先生にとっては面倒で手間のかかることかもしれないけど、逆に俺が泳げたらそれだけ先生の無駄な負担も減るというもんだ。いくら浮きをつけているとはいえ泳げない子供を相手にしていたら先生も大変だろう。ある程度でも泳げる相手なら先生も安心出来るはずだ。
「それじゃとりあえず25mほど」
「ええ!咲耶ちゃん……、それは無理だよ……。先生がいつでも持ち上げられるように上下に手を入れておくからそこからプールに入って泳げるところまで泳いでごらん」
まぁいいか。幼児の体じゃさすがに25mはきついだろうしな。体力的にもそうだし、一掻きで進む距離も知れている。単純に25m泳ぎ切るだけの体力がないだけじゃなくてその距離を進むのに何倍もの労力もかかる。歩くのに歩幅が小さいと何歩も歩く必要があってその分疲れるし足が遅いのと一緒だ。
先生の補助に合わせてプールに入って泳ぐ。やっぱりクロールをしても中々進まない。十掻き、二十掻きしてもいくらも進んでいなかった。
「すごいじゃないか咲耶ちゃん!これなら本格的な水泳教室に通った方が良いんじゃないかい?」
見事泳いで見せて古堀先生を納得させた俺はこれから浮きをつけずに泳げることになった。古堀先生の言葉を聞いて俺も思う。俺だって本当はフィットネスクラブじゃなくて水泳教室にでも通いたかった。ただ生憎うちの母がそんな所へ通うのを許してくれなかっただけだ。
俺が古堀先生とトレーニングを終えて戻ってくると母はまだ何もトレーニングせず樽マダム達とおしゃべりに興じていたのだった。