第五十六話「お役目のために」
「うまくいっているのだろうな?」
「はい……」
祖父の言葉に皐月は頭を下げる。何のことについてかは確かめるまでもない。今祖父が一番関心を寄せているのは九条咲耶を追い落とすことについてだ。皐月が祖父と話すことといえばそれしかない。
皐月はうまくいっていると答えたがそれは嘘だ。まったくうまくいっていない。徳大寺薊の件で騒ぎを広げた時はうまくいったと思った。しかし実際にはうまくいっておらず……、それどころか逆に徳大寺派閥を取り込まれるという事態の後押しをしてしまったようなものだった。
そして近衛伊吹をぶちのめしたことを利用しようと思った時も失敗してしまった。九条咲耶を五北会から孤立させて追い出すどころか、近衛家や鷹司家との接近を後押ししてしまったようなものだ。
何をやってもうまくいかない。どうやっても失敗する。そしてそれは必然なのだ。
皐月が失敗しているわけではない。作戦が悪いわけでもない。もしこれが普通の者が相手だったならばとっくに学園から追い出せていることだろう。しかし相手が九条咲耶ではそうはいかない。
九条咲耶は頭が切れすぎる。皐月がいくら策略を巡らせてもその遥か上をいってしまう。全て利用されて相手を利するだけだ。皐月やその周りのブレーンでは咲耶の裏をかくことは出来ず、どう頑張っても策略で貶めることは出来ない。
そして九条咲耶は演技がうますぎる。いつも咲耶を観察している皐月は知っている。九条咲耶は相手によっていくつもの顔を使い分けている。
時には人畜無害なお人好しのような顔で、時には目線だけで相手を殺してしまうのではないかというほど冷徹な顔で、時には無垢な少女のような顔で、時には老練な策士の顔で、ありとあらゆる顔を使い分け、人を誑かし、取り込み、脅し、賺し、常に高みを飛び続ける。皐月では届かない遥か高みを……。
しかしだからといって諦めるわけにはいかない。お役目を果たすことこそが皐月の存在意義なのだ。お役目を果たせないのならば存在する意味はない。
だから皐月は祖父に答える。必ずうまくいくと、うまくやると答えるしかない。それ以外の答えを口にすることは許されない。
「そうか。下がれ」
「はい。失礼いたします」
一度たりとも皐月の方を見ることなくそう言った祖父に、もう一度頭を下げてからその前を辞したのだった。
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今日は九条咲耶と遊ぶ約束をしている日だ。九条咲耶が一体何を企んでいるのかはわからない。呼び出された辺りにある店は非常に程度が低い。普通なら藤花学園に通うようなレベルの家の者が利用するような店ではないだろう。そんな所に呼び出して一体何を企んでいるというのか。
焦ることはない。いつも通りにやればいい。これまで皐月は毎日厳しく躾けられてきた。藤花学園に通う者は上流階級育ちだとは言っても、皐月が受けてきた教育から比べれば子供の遊びだ。
皐月はこれまで血反吐を吐く思いで修行に明け暮れてきた。他の者達が遊んでいる間、皐月は一切子供らしいこともせず常に修行をしてきたのだ。勉強も、作法も、帝王学も、あらゆることを学び身につけてきた。例え皐月には才能がなかったとしても努力では誰にも負けていない。その自負がある。
だから大丈夫だ。どんな時でも今まで身につけてきたものを発揮すればいい。
「お待たせして申し訳ありません咲耶ちゃん」
「あっ、皐月ちゃん、御機嫌よう。まだ時間になっていませんから気にしないでください。私が早く来すぎたんです」
先に来て待っていた九条咲耶に頭を下げる。皐月も早めに来たつもりだったがまさかもう九条咲耶が待っているとは思わなかった。これからどうするつもりなのか尋ねる。こんな所に来て一体どうしようというのか。
しかしその答えに皐月は訝しむ。この辺りで買い物をしようというのだ。まったく意図が読めない。ただそう言われれば従うしかない。二人でその辺りの店に入って商品を見ていく。
そしてまた不可解なことが起こる。咲耶があまりに程度の低い服ばかり勧めてくるのだ。どう考えても藤花学園の生徒が着るようなレベルの服ではない。そんなものを勧める意図が何なのか……。皐月は慎重に咲耶の意図を読み取ろうと頭を働かせる。
「(皐月ちゃん……、お店でこういう……、普通の人が着ている服を買って着替えて逃げ出しましょう)」
「えっ!?」
そして聞き出せた目的に皐月は驚く。一体そんなことをして何が目的だというのか。九条家のご令嬢ともあろうものがそんなことをすれば後で相当怒られるはずだ。それなのに脱走を企てるなど意味がわからない。それとも九条家側はそれを把握しているのだろうか。
自分は別にそれで怒られることはないだろう。九条咲耶の策略に乗ったのだと言えばどうとでも言い訳出来る。相手に不審に思われず策に乗るためだと言えば多少の無茶も許されるだろう。少し考えた皐月は咲耶の案に乗ることにしたのだった。
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事前に着替える安物の服を買い、トイレに持ち込み着替える。その手際の良さはどうだ。最初皐月は気付かなかったが、トイレから出る時に同世代くらいの子供達とタイミングが被った。でもそうじゃない。これは咲耶が狙ってこうしたのだ。
子供達がトイレに向かいそうなタイミングでトイレに入り、手早く着替えて他所の子供達に紛れてお付きの者達の目を眩ませる。咲耶はそこまで考えてトイレに向かうタイミングまで狙っていた。やはり侮れない。咲耶の鮮やかな手際を見ていた皐月は戦慄を覚えた。到底同級生の手腕とは思えない。
皐月は安物のTシャツに着替え、咲耶はズボンにぶかぶかの帽子を被って髪を全て帽子の中に隠してしまっている。ぶかぶかの帽子なので目立ちすぎる端整な顔立ちも隠せて一石二鳥だ。
お付き達は一切気付くことなく咲耶の策通りに見事に騙された。ここまで鮮やかなお手並みを見せられると拍手の一つも送りたくなってくる。
そうして抜け出して向かったのは大きなショッピングモールだった。車で通る時に見たことはある気がするがどのようなところかは知らない。ショッピングモールという名前やテレビなどで映っていることはあるが、実際に入ったことなどあるはずもない。
少しトイレに行く振りをしてお付き達に電話をかける。現在咲耶の策に乗って脱走しているが心配はいらないから騒ぎを大きくするなと伝える。それから九条家側がこの展開を知っていたのか咲耶のお付きに確認するようにも伝える。
どうやら咲耶の付き人もこの展開は知らなかったようで本気で警察に連絡しようとしていた。それを止めさせて咲耶の策で抜け出しているが心配ないように伝えさせた。これで騒ぎが大きくなることはない。
それにしても……、まさか自分の家の者にも黙っていたとは驚きだった。もし皐月が連絡しておらず騒ぎが大きくなっていたらどうするつもりだったのか……。
「あ……」
そしてそこで皐月は気がついた。もしかして……、まさか……。咲耶はわざと九条家側にも今回の件について知らせていなかったのではないのか?『こうなることを見越して』!
皐月は何も考えずにお付きに連絡して咲耶のお付きともコンタクトを取って、騒ぎが大きくならないように手を打ってしまった。皐月は示してしまったのだ。自分の対応能力を。『西園寺家には九条家が騒ぎにならないようにする手段がある』と示してしまったのだ。もしこれが全て咲耶の策であったならば皐月は不用意に手の内を晒してしまった。
大失態だ……。それでなくとも圧倒的に不利である皐月がその手の内まで知られてしまった。いつか重要な時に使えるように長い年月をかけて仕込んできた仕込みが露呈してしまった。これは脱走して怒られるとかいう程度の話ではない。
つまりはそういうことだ。咲耶は脱走して怒られるかもしれない、という程度のリスクで西園寺家の奥の手を暴いてしまった。完全なる敗北……。それがこの脱走劇の狙いだったのだ。
しかし……、そう思って全てを諦めたら……、何だか少しワクワクしている自分に気がついた。
今まで全て決められたレールの上を進んできただけだった。全てはお役目のために。しかしそんなお役目を全て捨て去ってただの一人の小学校一年生の女の子になってみれば……、世界はこんなにも色が溢れている。今までは一色にしか見えなかった世界が、今はこんなにも彩り豊かに見える。
レストラン街に並ぶ食品サンプルたち。皐月が今まで食べたこともないような取り合わせやセットになっている。見ているだけでも楽しくなってくる。
人混みの中にあるテーブルで食べるフードコート。注文の仕方も独特で料理を運んできてくれるウェイターもいない。自分で取りに行って自分で片付ける。面白い。味はそれほどでもなかったがそれもまた新鮮だった。
並んでいるお店に次々入っていっては出てくる。いつも行くような店ならば店員が扉を開けて迎え入れてくれて、付きっ切りで商品の説明をしてくれて相談しながら買う物を選ぶ。しかしここでは店員にあれこれ説明されることもない。
全てが珍しく新鮮だった。売っている服も雑貨も小物もチープだ。どれもくだらないガラクタだろう。そのはずなのに……、何故かそのガラクタは皐月には全て輝いて見えた。
駐車場なんて行っても面白くないはずなのに……、それでも屋上の駐車場ですら新鮮だった。今まで風がこんなに心地良いと感じたことがあっただろうか。
そして屋上駐車場に出てみれば……、何やら騒ぎが起こっていた。自分達と同じくらいの子達が年上に囲まれている。どうやら喧嘩のようだ。その喧嘩の輪の中に咲耶は躊躇うことなく割って入っていった。皐月にそんなことが出来るだろうか。
あの程度の相手ならば習っている護身術でどうにか出来るかもしれない。しかし咲耶のように躊躇うことなくあそこに割って入って行くことは出来なかった。その前に皐月はあれこれと考えてしまう。だが咲耶はそれを見た瞬間にはもうあそこへと入って行ったのだ。
そしてまるで投げられた方がそういう約束でわざと投げられたのかと思うほどにポンポンと飛んでいく。皐月も護身術を習っているがあそこまでではない。皐月もそれなりの腕前があるからこそ咲耶のその常識はずれの実力の一端がわかるのだ。
一体どれほど努力すればあれほどの技が身に付くのだろうか。自分は何度も床に叩きつけられて、血反吐を吐く思いで努力してきた。しかし……、その自分を遥かに凌駕している咲耶は一体どれほど……。
そんなことを考えている間に、ほんのあっという間に年上を五人も倒してしまっていた。皐月は咲耶に駆け寄る。こんな所にいたらまずそうなのでさっさと立ち去る。
売り場に戻ってまた店を見ていく。あんな邪魔が入ったせいでせっかくのショッピングモール探検が中断してしまっては困る。
「あっ!咲耶ちゃん、あれを見てください」
「え?あぁ……、可愛いですね」
入った小物屋で小さなガラスの小物を二人で見る。丸いガラス玉の中にラメや星が入っている。キラキラと綺麗だった。
「綺麗ですね」
「そうですね……。あっ!そうだ。それではこれをお揃いで買いましょう」
「え?」
そう言うと咲耶はその小さなガラス玉を二つ持ってレジに並んだ。皐月と二人で手を繋いで並ぶ。
「会計は一緒で、袋は別々に入れてください」
「彼氏からのプレゼントかな?はい。どうぞ」
会計を済ませた店員は袋に入れたガラス玉を一人ずつに渡す。二人の手が繋がれていることから微笑ましそうにそう言った。
「かっ、彼氏って……」
そう言われて皐月は急に顔がかぁっと熱くなるのを感じた。チラリと咲耶の方を見てみれば……、ばっちり目が合ってしまった。ますます顔が熱くなって下を向く。
一体自分はどうしてしまったというのか。自分でも自分のことがよくわからない。ただ……、こうして咲耶と手を繋いで歩いているとポカポカとする気持ちが心地良かった。
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家に帰ってから……、色々な報告を済ませて自室の机に座り、そっと袋からガラス玉を出して机の上に置いてみる。
「私の部屋には似合わない安い作りですね」
そう言いながら指で少しだけ傾けて転がす。何故か面白くもないのに頬が釣りあがってニヤニヤとしてしまう。
「本来ならば私の部屋にこのような物は置いておけませんが……、お役目のためです。後日聞かれてもきちんと持っていると言えるように保管しておかなければなりません」
皐月はそう言いながら咲耶に買ってもらったお揃いのガラスの小物が汚れず、壊れないように、絶対に安全で、それでいて見えやすいように、透明のケースの中に入れて飾ったのだった。