第三十一話「吐露」
日が経つにつれてますます言い出しにくくなる。そもそも母に言われて薊は本当のことを言えない。しかし気持ちは焦り、申し訳なさでいっぱいになる。今日もまた……、九条咲耶は一人ポツンと周囲から無視され座っている。
パーティーで自分の失態を被ってくれて以来九条咲耶は薊にわざと料理をひっかけたと言われなき非難を受けて周囲から白い目で見られていた。それなのに九条咲耶は言い訳一つせずただ黙って静かにしているだけだった。
一体今どんな気持ちであそこに座っているのだろう。周囲のほとんどから無視されてどれほど傷ついているだろう。本当のことを話さず全てを咲耶に押し付けてのうのうと座っている自分のことをどれほど恨んでいるだろう。
少し想像するだけでギュッと胸が苦しくなる。もし自分があんな環境に置かれていたらきっととても傷ついているはずだ。学園になんて来れないかもしれない。それなのに……、九条咲耶はただ静かにそこに座っている。感情を昂ぶらせることもなく、泣きも喚きも言い訳もせず……。
「九条咲耶、あの子パーティーでアザミ様のドレスをわざと汚してひどいことをしたのによく学園にこれるわよね」
「ほんとほんと」
「――っ!」
薊の席よりさらに咲耶の席から遠い位置に座っているグループがヒソヒソとそんなことを言っていた。相手が九条の名を持つから表立って本人には言えないが裏でコソコソとそんなことを言っているのだろう。咲耶の席からは遠すぎて会話の内容は聞こえなかっただろうが薊にははっきりと聞こえた。
九条家を恐れて表立っては言えないくせに九条家や咲耶に嫉妬して裏ではヒソヒソと悪口を言う。九条家というブランドを羨み、咲耶の美しさや完璧さを妬む。普段は自分達の方がもっとえげつないことや汚いことを平気で行い相手を貶めているというのに、妬ましい相手である咲耶を叩けると思ったらそれに便乗して言いたい放題だ。
「あなたたち!」
「はっ、はい!何でしょうかアザミ様?」
居ても立ってもいられなくなった薊は席を立ち、今ヒソヒソと話していたグループの前に立って声をかけた。突然薊に声をかけられたそのグループの者達は普段それほど親しくもない薊がやってきたことで緊張に体を硬くしていた。
「当事者でもなく何も知らない部外者が知った風なことを言うんじゃないわよ!それでも文句があるのならこんな所でヒソヒソと陰口を言っていないで本人に直接言ってごらんなさい!」
「ひっ!もっ、もうしわけありません」
「ごめんなさい」
全然わかっていない。薊に謝っても仕方がないだろう。そうは思うが薊は『ふぅ』と溜息を吐くと自らの席に戻った。これ以上その者達に何か言ってもどうせ理解されない。咲耶に謝りに行かずに自分に必死に謝っている時点で何を責められているのかわかっていないし理解する気もないのだ。
それに……、自分も偉そうになど言えない。薊も咲耶が罪を被ってくれているというのにそのことを何も言わずに黙っているのだ。自分とあの陰口を叩いていた者達の何が違うというのか。むしろ元凶であり全ての事情を知っていながら黙っている自分の方がもっと悪いではないか。それを思うと薊はますます気持ちが沈んでいくのだった。
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それなりに日数が経っているのに咲耶の噂話は沈静化するどころかますます酷くなっている。最初の頃は薊のグループの子達も咲耶の悪口を広めていた。だから薊は自分のグループの者達には咲耶の悪口を広めるなと徹底的に注意した、……はずだ。それなのに噂は沈静化するどころかますます広がっている。
自分の派閥や門流の者達もまだ薊の知らない所でその噂を流している可能性はある。しかし薊があれだけ徹底的に注意して余計なことを言ったり広めたりするなと言ったはずなのにこれほど燃え広がるものなのだろうか。
被害者側であるとされている薊側が言いふらしているのならばそれもわからなくはない。しかしそれは薊が止めているというのに何故こうも次々に燃え広がってしまうのか。それはまるで誰かが意図的に広めているような……。
しかし今はそんなことは関係ない。本当は薊が料理を零す失態を演じて咲耶がそれを庇ってくれただけだ。それなのに……、自分は全てを咲耶に擦り付けてのうのうとしている。全てを被った咲耶はあれほど辛い目に遭わされているというのに我が身可愛さにそれを黙っている。
薊は次第に気持ちが塞ぎこんできていた。ただただ胸が苦しくて……、どうすれば良いのかわからない。今までこんな風になったことなど一度もない。だから薊にはどうすれば良いのかわからなかった。そんなある日の放課後、いつものように五北会のサロンに行くと遅れて入って来た西園寺皐月がそっと声をかけてきた。
「咲耶ちゃんが話があるとバルコニーで待っていますよ」
「――ッ!?」
その言葉を聞いて薊の肩が跳ね上がる。きた……。ついにきてしまった。
行かなくても話の内容はわかる。何故薊がいつまで経っても本当のことを言わないのかと咲耶に追及されるに違いない。いつ呼び出されてそう迫られるかとずっと怯えていた。それが今日になっただけだ。
それはそうだろう。自分が逆の立場だったのならもっと早くに相手を呼び出して抗議していたはずだ。何故本当のことを言わないのだと。人が言われなき罪で非難されているのに何故いつまでも黙っているのかと問い詰めるはずだ。
とうとうその時がきた。ただそれだけのこと。むしろ遅すぎたくらいだ。そして……。
「あぁ……、そっか……。そうだったんだ……」
薊はようやく気付いた。自分は本当はもっと前にそうして責められたかったんだ。ここの所ずっと心が晴れなかった。苦しかった。それは咲耶が薊を責めることもなくただ黙って全てを受け入れていたからだ。薊は心のどこかで咲耶に責められたいと思っていた。罵倒されたいと思っていた。そうすることで自分の罪が少しでも軽くなる気がしていた。
だからこの呼び出しを受けて、行くのが怖いと思っている自分がいながら、どこかほっとしている自分もいる。これでようやくこの苦しみから解放される。九条咲耶のもとへ行って、罵倒されて、責められて、何故自分から本当のことを言わないのかと追及される。それで自分は解放されるのだ。この心の奥底に隠した罪の意識から……。
何て浅ましい……。結局自分が救われたいだけではないか。そのために何故もっと早く自分を責めてくれなかったのかと咲耶に恨み言まで考えてしまっている。ここのところの咲耶の苦しみが一体どれほどだったのか。自分にはわからないが相当な辛さだっただろう。それなのに自分はあくまで自分が救われたいだけだなんて……。
自分の浅ましさに呆れながらも薊はバルコニーへと向かったのだった。
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「薊ちゃんごめんなさい!まさかこんな大事になるなんて思ってもいなかったの!薊ちゃんにまで迷惑をかけてしまってごめんなさい!」
「…………え?」
バルコニーで物憂げに空を見上げていた綺麗な黒髪の少女の名前を呼ぶと、その少女は振り返ってすぐに頭を下げた。少女の、九条咲耶の言っている言葉の意味がよく理解出来ない。
顔を合わせたらまず罵倒されると思っていた。責められると思っていた。それなのに九条咲耶は何故か謝っている。何を言っているのかわからない。謝らなければならないのは自分の方だ。
「ぁ……」
まずは相手の言いたいことを聞いてから謝ろう、そう思っていた薊にとってこれはあまりに予想外すぎた。だからどうしていいかわからない。ただ呆然と立ち尽くす。
「それから……、今朝の薊ちゃんはここ最近にも増して元気がなかったよね?何かあったの?私でよければ話を聞くから話して?」
「な……?」
頭を上げた咲耶はそう言いながら薊に近づきその手を握った。じっと心配そうな目で薊を見詰める。そこには嘘や取り繕った感情など存在しない。心の底から薊を心配してくれているのだとはっきりとわかった。
母ですら……、いや、むしろ母は薊の心など気にも留めずに辛いことを強要してくるだけだ。家族ですら誰も薊の苦しみなど気にも留めない。それなのに……、自分が辛い状況にあるはずなのに……、九条咲耶だけは薊の異変に気付き気遣ってくれる。
取り巻き達も誰一人薊の様子がおかしいことに何も言ってこなかった。派閥の者も門流の者も誰一人薊の悩みなど気付かない。あるいは気付いていても気付かない振りをしているのか。誰だって面倒事に巻き込まれたくはない。それが自分の上役にあたる者の悩みだったらなおさらだ。
しかし咲耶はそんな薊の様子に気付き、怖気づくことなく真っ直ぐに向き合ってくれている。咲耶を苦しめている自分に何故そこまで……。
「悩みそのものが言えないのなら無理に言う必要はありませんよ。でも……、苦しいのなら苦しいと、悲しいのなら悲しいと言うだけでも少しは気が晴れます。だから薊ちゃんの苦しみを少しでも私に分けてください。ね?」
「何……で……?」
何故咲耶を苦しめている自分にそんなことが言えるのか。周りの派閥や門流の取り巻き達ですら知らん顔をしているというのに何故……。
「私と薊ちゃんはお友達でしょう?お友達なら相手が悩んでいる時、困っている時、悲しい時、辛い時、話を聞いてあげるものだと教えてくれたのは薊ちゃんではないですか」
「…………ぁ?」
咲耶の言葉を聞いて、ポツリ……、ポツリと……、薊の頬に雫が伝い濡らしていく。
「あっ……、うわあぁぁぁぁ~~~~っ!」
自分でも何故自分が泣いているのかわからない。ただ、いつもの、優しい笑顔で微笑んでいる目の前の少女に縋り付いて声が枯れるまで泣き続けたのだった。
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一体どれほどそうしていただろうか。とても長い時間だったような気もするしほんの短い時間だったような気もする。
「ヒッ……、ヒグッ……、ヒック……」
「…………」
縋り付いてしゃくりあげている薊を咲耶はただじっと抱き締めてその背中を、頭を、薊が落ち着くまで何も言わずに撫で続けてくれていた。咲耶の制服を随分濡らしてしまっているがそれでも咲耶は何も言わない。
「ごめんなさい……」
「……」
「ごめんなさい!全部私が悪かったのに!ごめんなさい!」
少し落ち着いてきた薊は堰を切ったように言葉を吐き出した。言葉の意味だとか、相手にわかりやすいように話すだとか、前後の相関関係だとか、何もない。ただ思いのままに、支離滅裂でも言葉を吐き続ける。
咲耶は何も言わずにただ薊の言葉を聞きながら抱き締め、頭を撫で、背中をさすり、耳を傾けてくれる。
「お母様に言われて……、本当は咲耶のせいじゃないって言わなきゃいけなかったのに!でも私は近衛家と結婚しなきゃいけないから……、何でも利用出来るものは利用しなさいって……、本当のことが言えなくて……、苦しくて、本当に苦しいのは咲耶なのに!私は言うのが怖くて黙ってたの!」
「いいんですよ、薊ちゃん。何でも話して。言って楽になるのなら私が何でも聞くから……、ね?」
あまりに断片的で、話が前後していて意味がわからない。それでも咲耶は無理に問い詰めたりすることもなく薊のしゃべりたいようにしゃべらせる。ただ薊の吐き出したい思いを受け止める。
薊も、自分でも何を言っているのかわからないままに、とにかく思いつくままに心の内を全て吐き出していった。何度も同じことを言ったり、話が前後したり、それでもとにかく何かを吐き出したくて、黙って聞いてくれる咲耶に全てをぶつけていく。
一体どれほどそうやって心の内にある激流を吐き出し続けていただろうか。話も支離滅裂で相手にきちんと伝わっているかも怪しい。しかしそんなことは関係なく、とにかく心の中の蟠りを全て吐き出した。
「ごめんなさい……。本当は私がもっと前にきちんと言わなければならなかったのに……」
「いいのですよ、そんなこと。ただ……、私が余計なことをしてしまったために薊ちゃんをこんなに苦しめてしまってごめんなさい」
「違う!咲耶は何も悪くない!私が……」
いつしか二人はお互いに自分が悪かったと言い合っていた。それに関してはどちらも譲らない。ずっとその繰り返し。そして……。
「ぷっ」
「ふふっ」
「「あははっ!」」
いつまでも譲らない二人はいつの間にかお互いに笑っていた。まだ何も解決はしていないけど……、それでも心の内にあった蟠りを全て吐き出した薊は久しぶりに心の底から笑っていたのだった。