第三十話「話し合おう」
「僕は何があっても咲耶の味方だからね」
「お兄様」
帰りの車の中で、良実君が真剣な表情で急にそんなことを言い出した。その真剣な表情は状況に酔っているとか、上辺だけで言っているとか、そういうものが一切ないことだけはわかった。良実君は心の底から咲耶お嬢様の味方だと思っている。それだけは間抜けな俺にもわかる。
「ありがとうございますお兄様」
「僕は悔しいよ。咲耶が言われなきことで批難されているのも、皆に無視されているのも……。でも咲耶の意思を汲んで僕からは何も言わない。だけど……、どうしても辛かったら僕が話を聞くよ。咲耶が本当のことを言うのなら僕も手伝うよ。それだけは覚えておいて」
「…………はい」
もしかしたら良実君は俺が薊ちゃんを庇ったのを見ていたのかもしれない。ダンスを終えた後一緒に端に寄っていたからそれほど遠く離れていたわけじゃないからな。ダンスの後兄は広幡水木と色々と話していたからこっちのことは気にしていないと思っていたけど見られていたのならこの反応も頷ける。
兄に頭を下げてから帰りの車の中でも俺は考え続けていた。師匠にも言われた通り俺はどうしたいんだ?俺がどうしたいかによって対応はまったく変わってくる。
俺はどうしたい?どうしたらいいんだ?
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さらに数日が経過しているけど周囲の態度はますます悪化しているような気はする。まぁただの被害妄想な可能性もあるからあくまで俺の主観でしかないけど……。
元々ほとんど誰も親しい友人もおらずボッチだった俺からするとあまり大差がないといえば大差がない。時々俺の方を見ながらヒソヒソ言われている以外は前までと同じだろう。
じゃあ問題ないじゃん、……と言いたいところだけどそうはいかない。俺がこれだけ悪評を垂れ流していると九条家にまで迷惑をかけかねない。俺一人が何か言われたり無視されるだけならそれほど問題じゃないけどこの界隈ではそれだけで済まない。
子供の躾けとかにうるさい界隈だし、個人は個人であって家は家だという考え方もない。そこに属する者が何か仕出かせば家全体が批判される社会だ。小学一年生だからと許されるものではなくその批判の矛先は家や両親に向いてしまう。
俺一人だけの問題だったなら無理にどうにかしなければならないということもなかったけど……、さすがに九条家に迷惑をかけたまま放っておくというのもどうなんだろう……。そもそも本当に俺はどうしたいんだ?
「咲耶ちゃん、ちょっと良いですか?」
「え……?ええ……」
昼食の後に皐月ちゃんに呼ばれて二人で人気のない所へと移動した。何か話でもあるんだろうか?
誰もいない中庭まで来た所で皐月ちゃんが振り返って口を開いた。
「あまり言いたくはないのですが徳大寺さんが所属する門流が咲耶ちゃんの悪い噂を広めています……。このまま放っておいてはもっとよくないことになると思いますが……、どうするのですか?咲耶ちゃん」
「そうですか……」
どうすると言われても俺にもわからない。ただこれはまるで薊ちゃんやその派閥と俺や九条家の派閥との争いを誘発しようとしているような気もする。下手にこちらが騒いだら両者の争いを望む者を喜ばせるだけじゃないだろうか。
少なくとも薊ちゃん本人はそんなこと望んでいないし自分から進んで広めているとも思えない。派閥の他の者が前の事件を利用して九条家との争いで有利になろうとしているのか、それとも徳大寺家や九条家以外の者がこの状況を利用して両者を潰し合わせようとしているのか……。
考えすぎと言われたらそうかもしれないけど本当にそういうことがある世界だ。ほんの些細なスキャンダルでも針小棒大に広めて相手を徹底的に叩くなんて日常茶飯事の世界だけに何とも言えない。
「心配していただきありがとうございます皐月ちゃん。ですが……、私もまだよくわからないので……」
「あまり時間をかけすぎるとそれが嘘であれ本当であれ噂が定着してしまうこともあります。判断は気をつけてくださいね。ただ……、私は咲耶ちゃんの味方です。それだけは忘れないでください」
皐月ちゃんが胸の前で手を組んでこちらを見詰めながらそんなことを言ってくれる。それだけで俺は胸が詰まる思いで……。
「ありがとう皐月ちゃん」
そう言葉を絞り出すのが精一杯だった。
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家に帰ってじっくり考える。もういい加減結論を出さないとこのままずるずる引っ張るのはよくない。
…………よし!明日薊ちゃんとじっくり話し合おう。まずはそこからだ。
「咲耶お嬢様、何かご用はおありでしょうか?」
「あぁ椛……。いえ、大丈夫です。今日はもう下がってください。お疲れ様でした」
「かしこまりました。失礼いたします」
椛が下がったのを確認してからベッドに寝転がる。まだはっきりと何かが決まっているわけじゃない。でもまずは薊ちゃんと面と向かって話し合おう…………。
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「御機嫌よう」
「…………」
「御機嫌よう」
「――っ!」
今日も挨拶しても誰も挨拶を返してくれない。俺は前世の記憶もあるし精神的に大人だからまだマシだけどこれが実際に小学一年生だったら相当堪えるんじゃないだろうか。直接的に何かされるいじめも堪えるんだろうけどこういう無視されるのも結構効くものだ。
「皐月ちゃん御機嫌よう」
「御機嫌よう咲耶ちゃん」
今やほとんど誰も俺に挨拶も返してくれない中でほぼ唯一と言っても過言ではない返事を返してくれる相手にほっとする。これで皐月ちゃんにまで無視されてたらさすがに俺でも少々落ち込んでいたかもしれない。
とはいえ俺が皐月ちゃんに付き纏ったら皐月ちゃんにまで迷惑をかけかねない。こっそりと簡単な挨拶を済ませるとそのまま通り過ぎる。
「おはよう……」
「アザミちゃんおはよう」
「ごきげんようアザミ様」
「アザミ様おはようございます」
薊ちゃんが入ってきて挨拶すると全員が一斉に応える。別にいじけたり妬んだりしているわけじゃないけど俺との時とえらい違いだな。
まぁそれはいい。それは前からだから今に始まったことじゃないけど……。そんなことより薊ちゃんの様子がおかしい。周りは気付かないのか?それとも気付いていて放っているのか?
確か前にもこんなことがあったな……。あれは……、皐月ちゃんが落ち込んでいるかのような様子がおかしかった時のことだ。あの時薊ちゃんに言われたんだっけ……。友達だったら相手の様子がおかしかったら無理にでも聞き出してあげるものだと……。
だったら……、やっぱり今日薊ちゃんと話をしなければ……。俺のことだけじゃなくて薊ちゃんの様子がおかしいこともきちんと聞いてあげなければならない。それが友達ってことなんだよね?薊ちゃん……。
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今日はやけに時間が進むのが遅い。まだお昼休みだ。こういう時は何故か時間が過ぎるのが随分遅く感じる。またそれと同時にちょっとドクドクと嫌な感じに鼓動が脈打っている。興奮したり頭に血が昇っている時のようなドクドクではなく、何かあって血の気が引いているのにドクドクと心臓だけがやたら脈打っているというか、そういう感じだ。
俺が食堂で食べていても周りには誰も近寄ってこない。相席するような者がいないのは前からだけどこんな周囲の席が完全に空いているのはここ最近の話だ。俺の隣席にすら誰も来ないようになってしまった。
まぁ周りを気にすることなく広々と座れるんだからむしろよかったと言えばよかったかもしれないけど……。
前までならたまには皐月ちゃんと一緒に食べたり、食事は別でも食後に薊ちゃんと話したり出来ていたけど今の状況では難しい。薊ちゃんと話そうと思っても周りの取り巻き達が物凄い形相で睨んでくる。それどころか凄い剣幕で色々言われたこともある。到底薊ちゃんとゆっくり話せる状況じゃない。
そして皐月ちゃんとも相席したりしたら皐月ちゃんにまで迷惑をかけてしまう。今の状況だと俺と親しくしているというだけでその相手まで同じ目に遭わされる可能性が高い。俺なら我慢出来るけどさすがに小学一年生の女の子がこんな環境じゃ辛すぎるだろう。
こうしてポツンと一人だから時間が長く感じるんだろうな。ただ一人で退屈な時間を過ごさなければならない。それは普通以上に長く感じられてしまうものだろう。
折角一人の時間だから今日の放課後に薊ちゃんと話すことの整理やシミュレーションでもしとこうかな。まずは近衛家のパーティーでのことと、今朝薊ちゃんが随分元気がなかったこと。その二つについて薊ちゃんと話そう。いつまでもこんなモヤモヤした状況のままいるのはよくない。
その後俺はチャイムが鳴るギリギリくらいまで一人で薊ちゃんとの会話のシミュレーションを続けたのだった。
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ようやく放課後だ。随分長く感じた一日もようやく放課後まできた。後は薊ちゃんをどうにかして呼び出して……。
「咲耶ちゃん……、ちょっと良いかな?」
「皐月ちゃん?ええ、良いですけど……」
五北会のサロンへ向かおうとしていた俺は途中の廊下で皐月ちゃんに呼び止められて連れて行かれた。俺に声をかけた皐月ちゃんが歩き出したからついて来いという意味だろうと思ってついて行った先はいつかのバルコニーだった。あの時は皐月ちゃんのことで薊ちゃんと一緒に来たんだったな。
「咲耶ちゃん……、今日の徳大寺さんは様子がおかしかったですよね?」
「うん……。今日薊ちゃんとお話しようと思っていたのだけど……、今朝は様子がおかしかったからそのことも聞こうと思って……、でもサロンではお話出来ないし私が声をかけようとしても周りの方が近寄らせてくれないのでどうしようかと思っていました」
クラスでも派閥というか取り巻きの子達が薊ちゃんの周りを固めている。俺が近づこうものならそれだけで威嚇されるくらいだ。とてもじゃないけど落ち着いて話せる状態じゃない。
そして五北会のサロンでも状況は変わらない。サロンでは門流の上級生達が囲んでいるから俺が近づくだけでも大騒ぎになる。到底俺と薊ちゃんがゆっくり話せる環境ではなく、前のようにジェスチャーで呼び出すというのも無理だろう。
そもそも俺が呼び出して話をしようとしているなんてバレた日には周り中がついてきて二人でゆっくり話すなんて到底不可能だろう。
よくよく考えたら薊ちゃんと話すシミュレーションはしてきたけどどうやって薊ちゃんだけを呼び出すかは考えていなかった。今の状況じゃ俺が薊ちゃんと二人きりでゆっくり話すなんて出来そうにない。
「あぁ……、今咲耶ちゃんが近づいたら大騒ぎになりますもんね……。わかりました。それでは私が徳大寺さんを呼んでまいります。咲耶ちゃんはここで待っていてください」
「……え?良いのですか?」
皐月ちゃん本人と薊ちゃん本人の仲はそれほど悪くないと思う。最初の頃よりずっと二人は親しくなっただろう。でも周りはそうじゃない。西園寺家の所属する門流と徳大寺家の門流はあまり仲が良くない。基本的に別々の門流というだけでもあまり仲は良くないからな……。
だからこそ前も表立って皐月ちゃんと薊ちゃんは直接絡まなかったわけで、それなのに今回皐月ちゃんが直接薊ちゃんを呼び出しても大丈夫なんだろうか?しかもそれが俺の前に連れて来るために呼び出したと徳大寺家の門流にバレたら俺だけじゃなくて皐月ちゃんまで……。
「心配しないでくださいな。ここに徳大寺さんを呼んできますから咲耶ちゃんは待っていてください」
「ぁ……」
俺が何か言う暇もなく皐月ちゃんはニッコリ微笑んでそう言うとさっさとバルコニーから校舎内へと入っていった。そう言われたらもうここで待っているしかない。勝手に動いて入れ違いにでもなったら余計ややこしいことになるし、皐月ちゃんが薊ちゃんを連れてきてくれるまでここで待っているしかないだろう。
…………結構遅いな。ここからサロンまで歩いて往復してもこんなにかからないと思うんだけど……。そういえば兄には何も言っていなかったから心配してるだろうか。あんな針の筵のようなサロンに耐えられないから逃げ出したと思われているかもしれない。
「九条咲耶……」
「薊ちゃん」
俺がそんなことを考えながら空を眺めていると後ろから薊ちゃんの声が聞こえたのだった。