第二十九話「噂」
近衛家のパーティーが終わってから数日、ここ最近で周りが色々と変わってしまった。
まず母だ。母はあのパーティー以来俺に何も言ってこない。最初は帰ったらすぐに怒られるかと思っていたけど怒られるどころか声すらかけられずあの日以来一言も話していない。
これはガチ切れということだろうな……。
いつものように声を荒げて怒鳴るくらいならまだ怒っているといっても普通の怒り方だ。だけど目の前にいる娘に対して何日も一声すらかけないというのはもう完全に切れているということだろう。
そして学園でも……。
「御機嫌よ……」
「――っ!」
「あっ……」
俺が声をかけると皆そそくさと逃げていく。前までは一応返事くらいは返ってきていた。『何だこいつ?』みたいな風には見られていたけど声をかけられれば返すくらいの反応はあった。でも今は違う。俺が声をかけても皆慌てて逃げていくかこちらも見ることなく無視するばかりで返事を返してくれる者はほとんどいない。
「御機嫌よう皐月ちゃん」
「…………ちょっと来て」
ほとんど誰も挨拶を返してくれない中で僅かに残っている返事を返してくれるうちの一人である皐月ちゃんに挨拶をした。でも今日は返事が返ってくる前に立ち上がって俺の腕を引っ張って行った。せめて荷物を机に置きたかったんだけど……、とは言えない雰囲気だ。明らかに皐月ちゃんの雰囲気が厳しいものだった。
皐月ちゃんに引っ張られるまま五北会のサロンまでやってきた。短い休憩時間にサロンまで来る者は少ないけど朝からサロン自体は開いている。ただ忙しい朝や短い休憩時間にわざわざ来る者はほとんどいない。お昼休みに来る人はいるみたいだけど俺は来たことがないから知らない。あくまで兄情報だ。
今朝も誰もいないようで皐月ちゃんが開けた扉の奥は無人だった。皐月ちゃんは扉を閉めるとすぐに俺の肩を掴んで真っ直ぐに顔を合わせて口を開く。
「咲耶ちゃん!どうしてこんなことになってるのよ!」
「え?」
『こんなこと』と言われても意味がわからないのに『どうして』と聞かれても答えようがない。そもそも何のことを言っているのか……。
「今咲耶ちゃんには大変な噂が流れているの!だから皆咲耶ちゃんを避けているでしょう?」
「あぁ……。確かに避けられていますが噂って?」
どうやら今の俺の状態の原因を知っているらしい。それは是非聞いておきたい。何で俺は今皆に無視されているかのように扱われているのか。
今までも特に親しかったわけじゃないけど声をかければ返事くらいは返ってきていた。それがここ最近では無視される。これだけ上流階級の家が通う学園なのに露骨ないじめみたいなことはないだろうと思っていたから何か理由でもあるのかと思ったけど、皐月ちゃんが何か知っているのなら教えてもらいたい。
ショックで自殺する、というほどのことはないけどさすがにこうも露骨に無視されていたら色々と気になる。俺に原因があったのなら謝ったり改善したりしたいし理由がわからないことにはどうしようもない。
「咲耶ちゃんが近衛様の許婚のライバルである徳大寺さんの足を引っ張るためにわざと料理をかけてドレスを汚したと……。咲耶ちゃんは相手を蹴落とすためならどんな汚いことでもすると噂になっています……」
「あっ……、あ~~~……」
まぁ……、内容は随分飛躍しているけど俺が薊ちゃんのドレスを汚したと言われることには思い当たる節がある。あの時薊ちゃんはお皿を零してうろたえていた。あのままだったら薊ちゃんが周りの大人達に笑われかねないと思った俺は咄嗟に俺が零したことにして頭を下げた。
それで下がってドレスを拭けば良いかと思ったけど薊ちゃんの母親らしき人が出てきたり、うちの母が来たりして話が大きくなってしまった。
確かに俺も軽率だったかなとは思う。でも後悔はしていない。あのままだったら薊ちゃんは大恥をかくところだった。それに比べたらちょっと俺が不注意で料理を零して薊ちゃんのドレスを汚してしまったと言われてもどうってことはない。
基本的に零すのは重大な失敗ではあるけど誰だってすることはある。問題なのはその後のフォローであって料理を零してしまったり衣装を汚してしまったらその後に適切に対処すれば良いだけだ。だから俺が零してしまったということにしても後で適切に対処すれば良いだけだった。
ただタイミングが悪かったというか何というか……。俺と薊ちゃんが下がる前に薊ちゃんの母親やうちの母が来てきちんと処理出来なかったのが問題だったんだろう。あそこで俺が謝って薊ちゃんが許したという形で下がってドレスを拭いていればすぐに済んだはずだと思うんだけど……。
「咲耶ちゃん……、その時私は丁度見ていなかったからわからないのだけど……、本当に咲耶ちゃんが徳大寺さんのドレスにわざと料理をひっかけたの?」
「え~……、まぁ……、料理を零してドレスを汚してしまったということにはなるかもしれません。ですがわざととかそういう話ではないのですが……」
別に言い訳するつもりはない。でもわざとドレスを汚してやろうと零したわけじゃない。そもそも本当は俺が零したんじゃないんだからわざとも何もないからな……。
でも例え皐月ちゃんであっても本当のことを言うわけにはいかない。薊ちゃんが料理を零した上にきちんと対処も出来なかったから俺が罪を被ってやったんだなんて偉そうなことは口が裂けても言えないことだ。そんな恩着せがましくするつもりでやったことじゃない。
「咲耶ちゃんがわざと人のドレスに料理をかけたりするような人じゃないのは知ってるわ。でもそれならどうしてこうなるまで放っておいたの?もう皆この噂で持ちきりで大変なことになっているわよ」
「そうだったのですか……」
俺が無視されるようになったのはそれが原因だったということか。
「それから……、これはあまり言いたくないんだけど……、徳大寺さんはそのことを広めているそうよ……。徳大寺さんも咲耶ちゃんと打ち解けてきたと思っていたけど……、やっぱり……」
「…………ううん。良いのよ。ありがとう皐月ちゃん」
皐月ちゃんは薊ちゃんが故意にその誤った情報を流しているみたいに思っているみたいだけど、俺はそんなことはないと思う。薊ちゃんはそんなことをする娘じゃない。
自分が零したと今更言えずに俺にかけられたんだということは言うかもしれない。それはいい。俺だってそうなるようにしたんだ。ただ薊ちゃんは卑怯なこととかが嫌いで、相手が誰であろうと正面からはっきり言いたいことを言うタイプだ。
そんな薊ちゃんが自分で零してしまったことを自分自身が一番良く知っているはずなのにわざと人を貶めるような嘘を広めるはずがない。そしてもしそんなことがあったとすればそこには何か理由があるはずだ。
だから俺は薊ちゃんを問い詰める気もないし責めるつもりもない。俺が自分からそう名乗り出たのだから俺に零されたと言ってくれていい。もし本人の意思に関わらずわざと俺にかけられたと嘘を言わなければならない状況なのだとしたらその状況をどうにかしてあげたい。
「さっ、授業が始まる前に教室に戻りましょう」
「咲耶ちゃん…………」
何だか自分が泣きそうな顔をした皐月ちゃんの肩をポンポンと叩くと俺達は二人でサロンを出て教室へと向かったのだった。
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皐月ちゃんの情報が正しいのなら俺が無視されている原因はわかった。あの場で俺の方から認めたのだから今更違うと言うわけにはいかない。だから料理を零して薊ちゃんのドレスは汚してしまったけどわざとではなかったと説明していくしかないだろう。
でもそれも聞かれてもいないのにこっちからそういうことを言いふらすのもどうかと思うので聞かれたら答えようと思う。
まぁ……、俺は現状全ての生徒達から無視されているからそんなことが聞かれることすらないんだけど……。
無視されているのは何もクラスだけじゃない。放課後のこの五北会のサロンでも完全に無視されている。五北会のサロンでは俺はいつも奥の席で一人こっそり座っているから一見いつもと変わらないように見えるだろう。でもその空気がまったく違うことはあの日以来はっきり感じていた。その理由も今朝の皐月ちゃんの話でわかった。
五北会のメンバーは全員あの日のパーティーに来ていた。だからその話を聞くのも早かったんだろう。恐らくあの日帰ってすぐに家でその話題で持ちきりになったに違いない。だから翌日からすぐに無視されるようになっていたんだろう。
前までなら俺が奥で一人座っていても話しかけてくる者もいたし何らかの会話になることもあった。でも今はまったく俺は存在していないかのように誰も話しかけてこない。そしてこちらから尋ねても全て無視される。
まぁ一度、二度無視されてからはこちらから声をかけていないのでその人がたまたまそうだっただけかもしれない。全員が俺を無視しているとは言い切れないけど……、全体の空気からしてそうだろうとは思う。明らかに俺に鋭い視線を向けてくる者もいるからな。
兄もこのサロン内の空気は感じているようだ。兄だけはいつもと変わらず俺と接してくれているけど周囲の空気も感じ取って時々顔が怖いことになっている。俺が話しかけて無視される現場を見せたわけでもないのに時々兄は他のメンバーを睨みつけていた。
「咲耶、もう帰ろうか」
「え?ええ……」
まだ早い。迎えが来る前の時間だ。でも兄がそういって立ち上がり俺を急かしてくるから一緒にサロンを出た。出る時も挨拶したけど俺の言葉には誰も反応しなかった。その時の兄の鬼の形相は凄まじいものだった。良実君は本当に小学校六年生なのか?
「この時間ではまだ車が……」
「大丈夫だよ。今日からはこの時間に来てもらうように言っておいたから」
俺の手を握った兄は前を向いたままそう言った。今どんな表情をしているかはわからない。ただ俺の手を握り締める手に篭っている力の強さが兄の心を表しているようだった。
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今日は百地流の修行の日だったから早くついても問題はなかった。蕾萌会は授業の時間が決まっているから早く着いても何も出来ない。それに比べてフィットネスクラブ『グランデ』やこの百地流なら始まりや終わりの時間が決まっていないから今は都合が良い。早く来ればそれだけたくさん修行が出来る。
「…………というようなことになっているのです」
「ふん!巡り合わせが悪かったと言えばそれまでだが咲耶が甘く考えすぎていたな」
師匠に今の俺の状態について相談してみたらそんな言葉が返ってきた。返す言葉もない。確かに俺の考えが甘かったのはある。
あの時に俺が謝って薊ちゃんが受け入れてドレスの汚れを落としていればそれほど大きな問題にはならなかっただろう。師匠が言うように巡り合わせが悪かったというか、あそこで双方の母が出てきてあんな中途半端で離れなければこうはなっていなかったんじゃないだろうか。
とはいえ過ぎたことを言っても仕方がない。ちょっと俺が怒られたり失敗したと後ろ指を指されたら終わりだと思っていた事態が思わぬ事態にまで発展しているのは確かだ。それをもう少しどうにか出来ないかと師匠に相談してみたんだけど……。
「恐らくそれは利用されておるぞ」
「利用?」
「そうだ。本当に咲耶が相手に料理をかけたかどうかなどどうでも良いのだ。ここで大事なのは公衆の面前でお前が零したと認めて謝ったこと。それをうまく使えばライバル関係にある両者の立場で色々と利用出来る」
師匠の言っていることもわからなくはないけど考えすぎじゃないのかな?
「咲耶とその娘が敵対関係にないつもりでも実家同士がそうとは限らん。その徳大寺家という者達が九条家に対して有利に出ようとその事件を利用する可能性は十分にある」
「なるほど…………」
そうか……。確かに薊ちゃんはそんな悪い子じゃない。というか文句があれば正面から言いに行くタイプであって裏でこそこそ人の悪口を広めるようなタイプじゃない。でも師匠が言うように徳大寺家ならばそういう状況を利用しようと言う者もいるかもしれない。
俺は徳大寺家の他の人達まで全て知っているわけではないし、九条家と徳大寺家の関係性も知らない。『恋花』では咲耶お嬢様と薊ちゃんは主従のような関係になっているけど、実家同士までそうとも限らないわけだ。そもそもここはゲームとは微妙に、というかかなり違うと思う。ゲーム知識だけに頼れない状況だ。
「どうすれば良いでしょうか?」
「ふむ…………。どうすれば良いかはどうしたいかによって変わる。咲耶、お前はどうしたいのだ?」
師匠の言う通りだな。噂を払拭したいのか、嘘を広めている相手を糾弾したいのか、俺がどうしたいかによってするべきことは変わってくる。
「私は…………」
でも俺はどう思っているんだろう?どうしたいんだろう?
正直わからない。確かに変な噂が広まりつつあって困っている……、というほどでもないかもしれないしな。別に皆に無視されたって皐月ちゃんは前までと同じように話しかけてくれている。いちいちどうでも良い相手から話しかけられないのならそんなに悪くない気もしてきた。
でも……、このままじゃ駄目なんだろうな……。じゃあ……、俺はどうしたいんだろうか?