婚約破棄の夜、私は心から毒を歌った
「メラリス・リヴァルクローズ公爵令嬢。貴様との婚約を今をもって破棄する!」
それは予想された日の、予想された言葉だった。
ただ、わかっていても。
その明確な否定の言葉に、胸にちくりと痛みが刺した。
「……ええ。ダナート殿下。貴方様はやはり、そうなのでしょうね」
ダナート・ヴェリシオ・アグレイド王太子は、聡明な方だった。
3年に渡る私との蜜月。
その中で、私の正体に気付き、平然と振舞いながらも、段々と距離を取るようになった。
ですが王太子。
それは大局的に見れば、やはり誤りだったのです。
大広間に響き渡った突然の宣言に、王家主催の夜会に招かれた、高貴な人々は困惑を隠せない。
「メラリス! 何を開き直っているか! 貴様が隣国のスパイであることは、とうに調べがついている! 神妙に処罰、いや神罰を受けるがいい!」
ダナート王太子は、いつもの尊大な様子で、大階段の上から私を見下ろしている。
頼もしい、とも見えるだろう。確かにいずれ国を治める人間には必要な資質だ。
隠れていた──もちろんこちらは把握していたが──衛兵たちが、統率された動きで私を囲む。
剣や杖の先が、私に向けられる。全員油断も隙もない。剣士も魔術師も、王太子直属の精鋭揃いだ。この国の水準においては。
私は、ステンドグラスの向こうに浮かぶ三日月を見上げる。
こんな日だというのに、美しい。こんな日だから美しいのか。
貴方と見上げ、偽りの夢を騙り合った日もあった、二度と拝めることのない月。
「ダナート殿下。それはさておき、お聞きしたいのですが──」
「それはさておき、だと!? これよりも重要なことがこの世にあるか!!」
「ありますとも。乙女には」
焦りも悪びれもしない私の様子に、ダナート王太子は少しの苛立ちを見せた。
思い通りにいかない時に見せる、子供のような感情。
王太子としての能力の高さの、裏返し。その自負は正しく、故にこそ少し可愛らしい。
「申してみるがよい! それが貴様の最期の言葉になるやもな!」
優れた王は、民の言葉を蔑ろにしない。
私は素直にほほ笑んだ。
「私の歌が、美しいと仰ってくださいましたね。あれは偽りですか?」
私たちの間には、欺瞞しかなかった。
朝昼晩の挨拶も、食事中の歓談も、夜の帳の内でさえ。
ただし、歌の時だけは。
国全てが寝静まった深い夜、貴方様にうっかり聞かれて、渋々歌い直したあの子守歌だけは。
ええ、祖国を裏切るわけでもなし。
貴方様の安眠を願っての、心からのものだったのです。
「──そんな筈があるか! 卑怯なスパイの歌など、汚らわしい!」
わかるものだけにわかる、一瞬の逡巡。
息を吸う唇のすぼめ方。
右目の震え。
それが答えだった。
当然のことだが、このような衆人環視の中、スパイの歌を褒めることなど出来るはずもない。
聞きたかったのは、見たかったのは、その反応だ。
少し困らせるくらいはいいでしょう?
どうせこの後、もっと困らせるのですから。
「……ありがとうございます。では、どうでもいい方の話を致しましょう」
私がさっと手を振ると、兵士たちがバタバタと血を吐いて倒れた。
ついでに王をはじめとした、重要人物たちも倒れる。もちろんダナート殿下以外の。
大広間に悲鳴がこだまする。聴き慣れた音色。
「なっ……貴様、何をした!!」
「毒殺です。私の祖国は、貴方様の国と違って卑怯な魔術が専門なもので。ご心配なく、苦しまない形式のものです……うるさい!」
私が一喝すると、大広間の喧騒が止まり、声も足音もなくなった。
伝わったのだろう。
今、私の邪魔をするなら、殺すぞ、という意思が。
「それが貴様の本性か……メラリス!」
「さて、どうなのでしょう。メラリスと入れ替わるまでは、孤児だったもので……性根はすさんでいるのでしょうね」
貴方の御父上が引き起こした、傲慢な侵略戦争で、というのは付け加えなくても伝わったことだろう。
両親の記憶はない。
強いて言えば、ふと口をついて出る歌の欠片たちが、きっとそうなのだろう。
「それで復讐か? ふん、くだらん! 使い捨ての道具にされているだけだろう!」
どうやら、私の正確な出自までは調べが至っていなかったらしい。
私を早々に処分しなかったのは、私の背後にある組織の尻尾を掴むため。
それはこちらも承知だったのだが、諜報勝負ではやはり私の祖国が勝るようだ。
逆に、正面から戦えば一捻りにされるのはこちらのほうだが。
「ええ、同感ですわ。で、くだらない話の続きですけれど。貴方様は、私を弾劾するのではなく──懐柔すべきだったのです」
こうしてスパイであることを白日の下に晒されてしまっては、私も事を起こすしか選択肢がなくなってしまう。
私とて、スパイであり続けることに疑問がないではなかった。
よく教え込まれているので、祖国を裏切るには、恐らく多大な勇気がいるだろうけれど。
ああ、ダナート殿下。
貴方様に真の意味で王の器があったのなら、この身を捧げる覚悟はあったのです。
「ふざ──けるな! 何故俺が、将来の王たる俺が、そのような姑息な真似を!」
「それで国が滅んでも?」
私は、大階段を一歩ずつ登っていく。
歩みを邪魔する者はいない。いれば殺す。
断頭台に登るようだ。死ぬのは私ではないけれど。
「ちっ……近寄るな! 俺に毒などと下等なものは効かぬ!」
ダナート殿下は倒れた衛兵から剣を奪い、素早く構える。正しい判断だ。
隙のない構え。殿下は優れた剣士でもある。
そして、通常の毒が効かないのも強がりではない。王家の加護が働いている。
「では。あの時と同じ心で」
私は立ち止まり。
無音の大広間の中で歌う。
ほんの一瞬の間、脳裏に浮かんだ偽りの日々。
穏やかな日差し。ごつごつとした、たくましい腕。心の通わない、たくさんの言葉たち。
私は。
あの時と同じ子守歌に。
あの時と同じ気持ちを乗せた。
「なっ、これは……グハッ」
ダナート殿下が、血を吐いて倒れる。
もう少し歌っていたかったけれど──すぐ死なれても困るので、一旦歌を止め、殿下に近付く。
「もちろん、これも毒です。あの時仕込み、貴方様の体内でゆっくり育てたものです」
「下種がっ……あれすらも、罠とはっ……!」
それは誤解ではなかったけれど。
殺意とそれ以外のものが混同することだって、あるだろう。
都合がいいから仕込んだものの、あのタイミングでそうする予定はなかった、なんて。
気持ち自体は偽りがなかった、だなんて。
わかって欲しいとは、もう思わないとしても。
「安眠を願う歌ですから。痛みはないでしょう?」
地面に倒れながら、健気に剣を手放さないダナート殿下。
その指から、そっと剣を解く。もう必要のないものだ。
見下ろした殿下は、随分と小さく見えた。
「く、そ……」
「ああ、ダナート殿下。恐れることはありません。恥じることはありません。貴方様は有能でした。私が傀儡として操れぬほどに有能で、私をスパイと見抜けるほどに有能で──殺さなければ始末に負えないほどに、有能だったのです」
だが、それ以上ではなかった。
残念ながら、私や祖国を出し抜けるほどではなかったのだ。
そう突き付けてみれば、何らかの留飲は下がるのだろう。
しかし仮にも、3年を過ごした仲だ。
歴史書には、国を滅ぼした愚かな王太子と書かれることになるだろう。
なけなしの誇りをわざわざ汚さずとも、もう、充分だ。
殿下の手に触れる。
少しずつ冷たくなっていく、触り慣れた体。
「では、──あなた。どうか、良き眠りを」
子守歌の続きを歌う。
貴方が、滅びゆくこの国が、どうや安らかに眠れますように。
「……まさか……」
王太子の言葉は、続かなかった。
聞かせてくれても、よかったのに。
ステンドグラス越しに、目を閉じたような三日月が見守っている。
やがて、静かになった。
御清覧ありがとうございました。