彼と私のファーストバレンタインデー
香月ようこ様主催の『バレンタイン恋物語企画』参加作品です。
よろしくお願い致します。
ゆったりと白く薄いベールのような雲が流れている青い空の下、春の穏やかに降り注ぐ陽の光に照らされている木製のデッキが、時折りスカートの裾をふわりと揺らして通り過ぎてゆく名残りの北風が置いていく冷気を、温かく包み込んでくれている。
賑わっている店内とは違って、緩やかな時間のながれているカフェのオープンテラス席で突然、その静けさを遮るように小さく柔らかなメロディーがテラステーブルの上に置いてあるスマホから流れてきた。
(あっ! もうそんな時間……)
誰もいないのだけれども、私は周りを気にして慌てて人差し指でトン、と画面のアラーム停止ボタンを押してから軽くスマホを起こして時計を確認する。
そして視線をそそ〜っと移動させてカフェの店内カウンターを確認してみた。
(来てる来てる! 次のシフトの人たちが——。引き継ぎしてるっぽいから、『あの人』もすぐにあがるよね——って、まだテイクアウトのコーヒー淹れてる⁉︎ 誰よもう、最後に注文したひとぉ!)
内心でプンスカしていても表面ですました顔を作っている私は、テーブルに開いてあるノートパソコンに視線を戻すフリをして、隣りの椅子にカバンと一緒に載せてある小さな小さな紙袋をチラ見した。
今日はバレンタインデー。
この時期にしては珍しく暖かい日なのでここ、新しく出来たカフェに、いつもは店内席の端っこに座って一人で大学のレポートとかを作るのだけど、花粉症の無い私は三テーブルがちょこちょこと点在する誰もいないテラス席へ出て、資料を広げながらノートパソコンを開いている。
だけども!
私の目的はカフェでオシャレに宿題をする事ではないの。
どちらかと言えば、そんなものは誰もいない自分の部屋で集中してやりたい派。
それでも、この店に通ってしまう私のお目当てと言うのは——。
オープニングスタッフからここでバイトをしている『彼』に会いたいから。
理由なんて一つしかない。
私は彼に『恋』をしているってこと。
あまりにも好みすぎているのかしら、同じ大学の同じ学科だから教室で初めて見かけた瞬間に……私は彼に落ちてしまったの。
優しげな顔立ちにいつも細い銀ぶちの眼鏡をかけていて、短く清潔な髪は柔らかそう。華奢ではないけどほっそりとした身体からは穏やかなオーラが出ている感じ。
好き。
好きすぎる。
彼の姿をちょっと思い出すだけでも、頭がのぼせて心臓が破裂しそうなくらいにドキドキしてしまう。
……私は性格的に人に対してドライな方だと思う。
だから、自分がこんな風に誰かに夢中になってしまう日がくるとは夢にも思わなかった。
こんなにも彼の事ばかり考えていてドキドキする恋なんて、恋愛小説やドラマの中だけなんだと……。
でもきっと、彼にはさぞや自分とは正反対のおっとりとした可愛い彼女でもいるんだろうな、って思っていた。
そう、思っていた。
そしたらなんと! いなかったと知った時には心底驚いたのだ。
それを知った時は本当に信じられなかったけど同じ学科の友人達が言うには、顔は悪くないんだけどたぶん、彼は大人しすぎるからモテないんじゃないかと。
服装も地味で静かだから性格が暗そうだとも、そして極めつけは、オシャレなデートとかしなさそう〜ってふざけて笑ったのだ。
いや、デートなんてどこでもいいよ! だいたい学生なんてほぼみんなお金持ってないんだし。
私なんて実家出の一人暮らしだから毎日カツカツだし、服装だってファストファッションと古着屋めぐりでプチプラコーデで——てか、みんなだってそうじゃない〜。
そうふざけてむくれて見せたら、冗談なのに、え? マジで惚れてるの? 面白い! ってからかわれてしまった……。
みんなからほっぺたをツンツンされまくりながらそれでもこの時、私はちょっと安心していた。
だって、みんながそう言うって事はライバルがいないって事でしょ?
私からすればさっき言われた事なんて心底どうでもいいくらい素敵なんだし、むしろ地味でいてくれたおかげで彼女いないんだったらありがとうかな。
なんて油断をしていたら——とんでもない事が起こってしまった。
先月の始め頃、このカフェがオープンしたその日。
大人しい彼が、住んでいるアパートの最寄りだからと言う理由でここのバイトを選んだと話しているのを聞いていた私はもちろん、大学が終わってからそのカフェに直行した。
人気のチェーン店だったので賑わいがすごかったけど、とりあえず店内に入ろうと開いた自動ドアから、ドキドキと緊張しながら足を踏み入れる。
どこにいるのかな? 注文カウンター? レジだろうか? それとも奥にあるコーヒーメーカーの所?
ドキドキしながら辺りを見回そうとした時、いらっしゃいませ、と聞こえてきた声の方へ顔を向けた瞬間——。
気絶しかけてしまった。
真っ白な七分袖のシャツに、ストレッチパンツの腰回りにはベージュのショートエプロンの制服姿で、慣れない接客からかぎこちない笑顔でテーブルへコーヒーを運んでいる彼を見つけたのだ。
それ、似合いすぎるでしょ!
制服マジックなのかしら、カッコいいを通り越してもうそこには神がいる。
恥ずかしそうにしているのがまた、たまらない。
入り口あたりで棒立ちになってしまいながらそんな事を考えてじっと彼を見つめていると、じわじわと頬が熱くなってきてしまった。
それと同時に後ろからお客が入ってきたのを感じてハッとなった私は、あわあわとカウンターから伸びているお客の列の後ろへと移動したのだけれど……。
そこで前に並んでいる女子高生たちがキャッキャしながら話しているのを聞いてしまったのだ。
あそこの人、カッコよくない? って。
大変! 制服のせいで彼がモテ始めているのかも⁉︎
ってかじゃあ、中高生の制服ではモテなかったのはなぜ?
いやいや、そんな事より彼に彼女がすぐ出来てしまうんじゃ……。
そんな危機感を覚えてしまった私は、その日から毎日のようにこのカフェに入り浸っていた。
お金が無いから苦手だけど一番安いブラックコーヒー一杯で、何時間も居座っている店側からしたら超迷惑な客になっているであろう私。本当にごめんなさい。
それでもその甲斐あってかある日、とんでもなく嬉しい出来事が起こった。
店内で急いでいたお客さんとぶつかってしまった彼が落としたメガネを拾って手渡したことで、私は彼に私の存在を知ってもらえた。
さらにそこから、会うたびに笑って……ぎこちなかったかもしれないけど、挨拶程度の声を頑張ってかけていたら、彼と少しずつ話しができる仲になれてしまったのだ。
そしていつの日からか仕事をしている彼をチラ見しながら同じ空間にいる至福の時を過ごしていたのはよかったんだけど……。
日に日に、彼がやたらに女の子から声をかけられているのが増えてきたような気がして、それを見かけてはだんだん辛くなって苦しくなって——。
私は悩んでしまった。
これまでの人生でこんなに悩んだことがあったかしらと思うくらいに、深く悩んだの。
そして早い段階ではあったけど、ついに決心した。
彼に『告白』しようと。
このままうじうじとヤキモチ妬いているくらいなら、もう玉砕してやろうとも。
そして今日のバレンタインデーにかこつけて、チョコを渡してこの想いを伝える算段をつけた私は、この日の為に電車に乗って超人気ブランドショコラ店へ行って、どこまでも果てしなく伸びている列に並んだ。
コレほんとに買えるの? って心配しながら何十分……違う、一時間以上は絶対に並んでついに商品棚まできてみると、一番人気商品は無かったけどまだだいぶ残っていてすんごく安心したのを覚えている。
それでも、やっぱりお金がないので仕方なく二粒だけの一番安い小さな箱を手にとって購入したのが今、隣りの椅子にカバンと一緒に乗せてある紙袋の中に入っているのだった。
あぁ……緊張してドキドキする……。
今年のバレンタインは平日だけど金曜日は講義が一つしか重ならなくて、しかもバイトがあるからだと思うけど終わった瞬間に彼はいつの間にか帰ってしまっていて……大学では渡せなかった。
せっかく朝から念入りにオシャレしてきたと言うのにもう……。
とりあえず一度、家に帰って部屋でお化粧直しをして、鏡の前で念入りに全身をチェック。
ライトグレーのかなりダボついたオーバーサイズプルオーバーに、ヒラヒラ揺れる白いサテンのロングスカートを黒のローファーで合わせ、肩下ほどの髪をふんわりさせて可愛さ重視。だからピアスもピンクゴールドで。
彼は派手な方ではないからネイルも地爪の色に近いほんのりピンクにして、小指と薬指にだけラインストーンをちょこちょこのせている。
もう完璧!
そして今まさに彼の仕事が終わって裏口から出てくるのを、私はひたすらさり気なくカフェのオープンテラス席で待っているのだった。
チラリとガラス越しの店内カウンターを確認すると、もう彼の姿はどこにも無い。
(そろそろ従業員の出入り口から出てくるかしら?)
そう思って私は後ろ手にあるお店の裏口をみようと、座ったまま身体をひねって後ろを見た——。
「あ、こんにちは」
「わあぁ!」
するとまさか、なんと!
いつの間にかほぼ真後ろに、彼が立っていた!
目が合ったとたんに私は驚きすぎて叫んじゃって、ついでに頭も真っ白になって身体が固まってしまった。
上にグレーのカーディガンを羽織っていて下はベージュのチノパン、そして白のスニーカーの出立ちである彼は、肩にナイロンの黒いトートバックをかけていて、反対の片手でお店のテイクアウト用の大きなドリンクカップを持って微笑んでいた。
「ごめん、驚かせたね。 そのレポートって明日のやつ? もう終わったの?」
その優しげな雰囲気とマッチしている心地よい低音ボイスが、私の頭を痺れさせてしまう。
「えと、あぁ、うん。もうあとちょっと……かな? 思ったより手間取ってしまって……」
努めて冷静を装い笑う私は、高速連打で暴れている心臓を抑えるのに必死だ。
それなのに——。
「じゃあ、そこの資料。見せてもらってもいい? 僕も最後がまだ終わっていないんだよね」
「う、うん。どうぞどうぞ」
まさか——。
「ありがとう。隣り、いい? 僕もここで仕上げよう」
「あ、うん! どうぞどうぞ」
こんな奇跡の展開になるなんて!
もう……心臓を抑えるのなんて無理。爆発でもなんでもするがいいわ。
しかも彼は資料があるせいだとは思うのだけど、丸テーブル沿いにある椅子を私の右隣りのかなり近くに引き寄せて座ったのだ。
ストンと腰を下ろした彼から苦味のあるコーヒーの香りと共に、どこか涼やかに甘くムスクを感じさせるような温かみのある匂いが私の鼻に届いてくる。
そう、これ、彼の匂い。
小瓶にでも閉じ込めて持ち歩きたいくらい、私のたまらなく好きな匂い……。
飛んでいきそうな理性を必死に捕まえながら、私はカバンから追加の資料を出しては、これもどうぞとテーブルの上に置いていると、彼が急にスッと私の目の前に持っていたドリンクカップを差し出してきた。
「これ良かったら……。資料を見せてくれるお礼に」
「え⁉︎ いいよそんな! 資料なんて別に——」
「ずっと集中して作っていたから、もうそこのコーヒーも無いでしょ。それに……。そう言えば今日ってバレンタインだよね。だから……あげるよ」
そう言われて私は丸くした目をドリンクカップに移して見てみると、それはたくさん散らしてあるナッツのチョコソースがふんだんにかかっている生クリームが、氷の上にたっぷり搾られているチョコレートドリンクだった。
お店のメニューでも一、二を争うお値段のもので、私がいつもいいな〜って目で文字をたどりながらブラックコーヒーを頼んでいるという飲んでみたかったやつ。
嬉しい!
しかも、バレンタインに男の人の方からチョコレートをもらえるなんて初めて!
外国では多いみたいだけど、ここは日本だ。それに資料のお礼ってだけだけど、それでも——嬉しい!
(でもいいのかな、本当に)
彼だってたしか一人暮らしでよく『もう今月はお金さまが財布にいらっしゃらない』ってお友達と笑ってるのを聞くけど……。
そんな申し訳なさが胸に滲み出てきたけれども、
「そっか、ありがとう。これ飲んでみたかったからホント嬉しい。いただきます」
もう、もう、彼から何かをもらった喜びの方が勝って遠慮なく受け取る事にしたのだった。
吸い口の大きいストローの先にそっと口を当てて、私は甘くとろけるチョコレートをゆっくり飲んでみた。
「何これ! すっごくおいしい! え、ほんとに」
ついはしゃいで言ったら、彼は良かったって嬉しそうに微笑んでいる。
チョコレートよりもその笑顔で脳が溶けてしまいそうになった私であったが、その脳が液状みたいになる前にフル回転していい事を思いついたのだった。
「あ、そうそう。バレンタインなんだよね——」
私は急いで左隣りを向いて小さな紙袋の中からラッピングされた小さな箱を取り出すと、そっと彼の目の前に置いた。
「じゃあ、私もチョコレートをあげる。これどうぞ」
渡せた!
すっごいすっごい自然に——渡せた!
さあ受け取ってもらえるのか、内心でハラハラしながら私は微笑んでいる……。
彼は意外そうな顔をしてその小さな箱を手のひらに乗せると、
「ありがとう。まさかバレンタインにチョコレートをもらえるなんて思わなかったよ。……開けてみてもいい?」
嬉しそうな顔になって尋ねてきた。
「うんうん、食べてたべて〜」
やった、受け取ってもらえた!
そうホッと胸を撫で下ろした時だった。
慎重に包み紙を開いて中の箱の表紙をみた彼がピタリと止まって、え? とつぶやきながら眉を寄せたので、私はギョッとした。
彼はしげしげと何かを確認するように箱の表面を見ると、おずおずと私に聞いたのだ。
「これ……あのブランドのやつだよね。高いやつ。僕がもらってもいいの?」
『もちろん。だってあなたの為に買ったものだから。実は……ずっとあなたの事が好きだったの』
そう。
こうやって返して告白すれば良かった。
ものすっごい、チャンスだったのに。
でも……、
「うんうん、もちろんいいよ。自分で食べてみたいな〜って買ってみたけど、私にはこれがあるからね」
現実ではそう言ってさっきもらったチョコレートドリンクを片手に笑って見せた私を、私は内心で失望した。
も、最悪。
(告白しにきたんじゃなかったの? 私ったら……)
内心で落胆している近くでこちらを見ている彼は目をぱちぱちさせると、
「なら良かった。……では、いただきます」
箱に視線を戻してスッと蓋を開けたのだった。
そこには、深い落ち着いた赤色のハート型とダークブラウンの楕円形の粒ショコラが上品に並んでいる。
それを見た彼は、思いついたといった様子で私に提案してきたのだ。
「あ、これ二つあるから一つずつ食べようよ」
優しい。
なんて優しいの。
私の胸がきゅんと鳴ったけど、
「チョコレートを飲んでチョコレートを食べるのはさすがにくどいから、二つとも食べてみてよ。私はまた、食べたくなった時にでも買うから大丈夫」
さすがにこれは、ぜんぶ彼に食べてほしい。
そして自分になんてこんな高いの買わないけど、こうやって言わないと食べてくれないと思ってそう言ってみた。
それを聞いてそっか、って申し訳なさそうな顔になった彼を見て私は一つ反省をする。
想いが強すぎて背伸びをしすぎてしまったようだと。もう少し、普通のチョコレートでも良かったかな。
微笑みを崩さないで見ていると、彼はそっと指先でブラウンのショコラをつまんで一口で口に入れると、ゆっくり味わうように食べている。
そして、
「……おいしい。 え、すごい——おいしい!」
そんなに美味しいものだったのだろうか、彼は子供のようにわたわたと感動している素振りをみせた。
(ありがとう! パティシエさぁんーー!)
私が内心で感謝を叫んでいると、少し時間を置いてから、彼はまた次の赤いショコラを口もとに運ぶ。
すると今度は、一口ではいかないでハートの片側だけをかじっていた。
(一口ではもったいないと思うくらい美味しいのかな?)
ぼんやりとそんな事を思っていた私だったが、ふと彼がこっちを向いて目を合わせたのでドキッとした。
だけどその直度、それよりもずっと心臓が止まってしまうくらいの事を彼は言ったのだった。
「……食べる?」
(…………え?)
そう言って顔の前に差し出されたハートの片側を、私は思わず目をうんと丸くしてみつめてしまう。
(え? え? どう言う事? 食べていいのほんとに? 冗談で言っているの? だとしたら『やめてよ〜食べかけ〜』って言って笑うトコロなの? え、どっちなの?)
心臓がドッキンドッキン鳴り始めてきた。
冗談なのか本気なのか全然分からなくて、私は上目遣いでチラリと彼の顔を盗み見てみる。
極上の笑顔で微笑んでいるその顔からは、どちらとも判断がつけられなかった。
(これ、冗談のつもりなのに私が食べたら……キモいとかドン引きされるのかしら? でも……でも……いい! こんなチャンス、もう二度とこないから! よし!)
さっさと意を決した私は、目の前の手からそっとハートのカケラをつまみあげる。
指先に触れた彼の小さな体温にもドキドキしながら、恥ずかしさをうんと堪えて笑いかけると、
「いただきます」
わずかに目を逸らしながら口に入れたのだ……。
すると彼は——、
心底驚いた顔になって硬直してしまったのだった……。
その様子を見た私の心が急速に冷えてくる。
(終わった……。やっぱり冗談だった……。でもいいの、このあと何を言われようともこの嬉しい記憶の方が上回るから)
もぐもぐと全く味を感じることが出来なくなってしまったショコラをもぐもぐしている間、私と彼との間で妙に重苦しい沈黙が横たわってしまう。
けれども、こくんとそれを飲み込んだとき、急に彼が真剣な口調で出した声が耳に響いたのだ。
「あの……僕たち、付き合いませんか?」
「——んえぇ⁉︎」
まっったくの予想外であった告白に、私の意識が一瞬だけ吹っ飛んでしまった。
すぐに意識を引き戻した私だったけど、心臓はどこか壊れたかのように身体と一緒で固まっている感覚がする。
(これは……これも? じょうだん……だったり? それとも私、どっかで気絶して夢でもを見ているんじゃ……)
口まで半開きになって驚きのあまり言葉も出ないでいる私をじっと見つめていた彼が、やがて申し訳なさそうな顔になってきた。
「……えと、急にこんな事言って迷惑だよね。ごめ——」
(違う謝らないで!)
つい私は、
「ずっと好きだったの! あなたの事! だから私、付き合いたい!」
ほぼ無意識でそう叫ぶように言って、思わず勢いよく立ち上がってしまったのだ。
ガタンと倒れた椅子の音に私はハッとなると、ポカンとしている彼を一気に意識してしまって顔から火が吹き出たように全身が真っ赤になってしまう。
「す、スミマセンデシタ……」
自分の行動にも恥ずかしくなった私は、慌てて倒れた椅子をもどそうとしたら——。
「僕がやるよ——大丈夫?」
そう言って立ち上がった彼の手が……起こそうとした椅子の背もたれの上で、私の手と重なったのだ。
壊れたと思っていた心臓がまた大きく跳ねる。
そして、彼の大きくて温かい手が私の手と一緒になって椅子を起こして整えると、次にそっと背中に添って私を座らせてくれたのだ。
(わたし、このまま気絶しないで帰れる自信がない……)
そんな事を思っていると、さらに彼が自分の椅子に戻った時に私はある事に気がついた。
彼との距離が、とてもとても近くなっている事に。
こぶし二つ分くらいしか互いの距離が開いていないので、あまりの気恥ずかしさに彼の方でも戸惑った感じになっている様子だった。
(予想以上に近かったと思っているのかな?)
もうずっと胸のドキドキが止まらない。でも私は彼の顔が見たくて頑張って横を向いてみたけれど……。
そのタイミングが彼とばっちり合ってしまってかなりの近さで目が合うと、互いに恥ずかしくなってパッと前を向いて顔をそらしてしまった。
けれども、すぐにもう一度こちらを向いた彼の緊張した声が、私をもう一度振り向かせたのだ。
「実は僕も……ここで君を見かけた時からずっと気になってしまって……あ、大学が一緒だったって気づいたのは最近なんだ。いや、そんな事はどうでも良いか……。えっと、それじゃあ、その……これからよろしく……お願いします」
そう言って、はにかんだ顔で会釈をするように軽く頭を下げる律儀な彼が、どうしようもなく愛おしくてしょうがなくなってくる。
だから私も、頬を赤くしながら精一杯笑って返したのだ。
「こちらこそ、よろしくね」
それを聞いた彼の顔もまた、どんどん赤くなっていく——。
すると、恥ずかしさの限界を迎えたのだろうか。鼻先を指で軽くかくと、スッと顔だけを向こうへ向けてしまうのだった。
(え〜、もっと顔が見たいのに〜。でもこっち向いて、なんてなんだか恥ずかしくて言えない……。いきなり手を握っちゃうとかは嫌かな。うぅ〜、こっち向いて〜)
たまらずに私はテーブルの下にある自分の片足を軽く上げて、そっと彼の片足のふくらはぎあたりに添わせてみる。
それでも彼はこちらを向かない。
でも——。
(あ、これはきっと嬉しいのね)
向こうを向いている彼の顔にある耳までもが真っ赤に染まってきたのを見ると、私はふふっと微笑んでテーブルにほおづえをついて、いつまでもその姿を愛おしげに眺めていたのだった。
ーー ーー
これがあの人と私が初めて一緒に過ごしたバレンタインデー。
あの日からもう幾度となく訪れるバレンタインデーを、二人で、もしくは家族も含めて過ごしてきたのかしら。
実はその時からのクセなのよ、椅子やソファーに並んで座るとき、私があの人の足に片足を添わせてしまうのは。
もう年甲斐もないって言われてもしょうがないものだし、嫌がられたら止めようと思うのだけど……あの人は今でも何も言わないのよ。
それどころか夫婦でまれにケンカにでもなると、あの人ったら必ずわざとさり気なく椅子に座るの。
私のクセを利用して仲直りしようっていうのが見え見えで。
でも、分かっているのに……私ったらつい隣に座ってしまうの。そしてクセになっているものだからつい片足を添わせてしまって——。
気がついたら仲良く喋っているの。
……もう、惚れた弱みなのねきっと。
そうそうこないだね、ついにあの人が急にポロッと白状したの。
あの時のチョコレートドリンクは資料を見せるお礼じゃなくて、最初から私にあげたくて作ったものだったって。
そんな事言うものだからそれこそ、年甲斐もなく嬉しくなってドキドキしてしまったわ。
だからね、今日が二月十四日でしょ?
とっても久しぶりにあのカフェに行きましょう、て言ってあの人を誘ったの。
もちろん、あのお店は長いことまだ潰れないで続いているわ。
それでね、昼に用事があったから夕方に二人で行ったのよ。
少し暗くなってきたから肌寒くなってしまっていたけれど、あのテラス席が空いていたからそこに座ってあの人が注文してくるのをあの日のように待っていたら……やっぱりあの人、後ろから来たのよ。いつもどこから来るのかしら。
並んで座ってあの人はホットコーヒーを、私はちょっと寒くてもあの時と同じチョコレートドリンクを飲んだのだけれど……。
不思議ね。
材料は同じはずなのに、あの人があの日作ったものが今までの中で一番美味しかったのよ。
それを言ったら、『あれはバイトをしてから初めて作ったものだったのだけれど』ってまた嬉しくなる事をうっかり白状したのよ、あの人はもう。
だからいつも通り、私はあの人の足に片足を添えたの。
もういい加減に慣れても良さそうなものなのにあの人はあの時と同じ、鼻をそっと指で掻いて顔を向こうにむけてしまうのよ。
でももう、見なくたってどんな顔をしているのか分かっているから、何も言わないけれどもね。
本当に、……愛おしい人なのだから。
代わりに私も一緒になって同じ所を見ていたわ。
空が藍色と茜色のグラデーションになっていてもう星が出ていて——。
いつも思うのだけれど、嬉しい時や幸せな時にみる星って……、なぜだかいつも以上に美しく見えるような気がするの。
だから今夜の星も、まるで光に照らされて輝くダイヤモンドのように……明るく煌めいて見えるのよ。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。